やがて車は俺にも覚えのある地下駐車場へと滑り込んだ。
加地さんのマンションの……。
車からは俺とヒデだけが降りた。
「兄貴」とヒデに呼ばれていた若い男は暁とツトムを店まで送って行くと言う。
「遼雅。借金なくなっても、また店に遊びに来いよ」
車の窓を開けて、暁は俺に笑った。
「なんだったら俺のこと指名して。サービスするぜー」
「考えとくよ」
俺も笑って手を振り返したけれど……内心は不安でいっぱいだった。
借金はハーキムが返してくれた……はず。
だけど、加地さんは俺を取り戻して……俺はここにいて。
要は、代金は払われたにも関わらず、商品がお客様の手元にないという……詐欺? これは詐欺じゃないのか!?
いや、詐欺じゃないか?
俺はただ、逃げて来ただけで…………商品が客先から走って逃げた場合、取引はどうなるんだ?
バカなことを考えて足の重い俺の手をヒデが引っ張る。
「遼雅さん! 加地の兄貴が待ってますから!」
――ああ、加地さん……。
耳に電話ごしの加地さんの低い声が甦る。
『愛している』
………………ちょっと待てー!
どんな顔して会えばいいんだ!?
愛の告白だ、愛の!
フツーに交際申し込まれただけでも心臓ばくばくなのに、あんな正面から……なんて言えばいいんだ?
『俺も前から……』
うおおおおっ! 言えねえ!!!
「遼雅さん? どうしたんですか? 顔が真っ赤ですよ? あ、あ! しゃがみこまないで下さいよっ!」
……んなこと言われても。
ヒデは俺を抱えるようにして加地さんの部屋の前まで連れて来た。
鍵を取り出す。
カチャリと鍵が回る。
もう逃げも隠れもできない。
俺はひとつ深呼吸して、ヒデの後ろに続いた。
「兄貴! ヒデです! 遼雅さんお連れしやした! 失礼しやっす!」
ヒデが玄関先で大声を上げる。
「さ。遼雅さん。兄貴がお待ちです」
促されて、俺はヒデに続いて靴を脱ぐ。
リビングへのドアは開いていた。
加地さんがソファからゆっくり立ち上がるのが見えた。
とくりと胸が鳴る。
この部屋に帰って来なくなってからずいぶんになるけれど、加地さんとは時々店で顔を合わせていた。
それでも……。
俺は拗ねていつも横を向いていたから。 その顔をこうして見つめるのは何日ぶりのことなのか。
「加地さん……」
「よく、帰って来たな」
加地さんが笑う。おかえりと笑う。
熱いものが込み上げてくる……。
けれど、その時。
「兄貴いっ!!!」
ヒデが叫んだ。
絶叫だった。
悲痛で、苦しげで。
「…………っ!」
そして一声叫んだヒデはその場にがくりと膝をついた。
なに? なにがどうした!?
俺は慌てて加地さんの全身に視線を走らせた。
ヒデの叫びに苦笑気味な顔、黒っぽいスーツと渋い光沢のネクタイ、足元はスリッパ……。
加地さんの足元まで落ちた視線が、不穏なものを認めて再び上がる。
加地さんの右手に巻かれた包帯――
「……加地、さん……手……」
考えてみたら。
加地さんはヤクザで。
ヤクザと言えば、クリカラモンモンに指詰める……。
「手……」
繰り返した俺に、加地さんが右手を上げる。
包帯を巻かれた手の、シルエットが明らかにおかしい。
手の甲を俺に向けている加地さんの、親指はぴょこんと外を向き、普通なら、掌から指へと、だんだんに細くなるシルエットになるはずなのに。
加地さんの手には、段差があった。
本来続いているべき、掌から指への線が、指一本分、欠けている。
「兄貴……兄貴、俺が代わったのに……俺が勝手に遼雅さん、取り返してきただけなのに……!」
ヒデは呻いて丸まった。
「ヒデ」
加地さんが床に丸まったヒデに歩み寄った。膝をついてヒデの肩に手をかける。
「馬鹿なことを言うんじゃない。遼雅のことは俺のわがままだ。おまえは俺の意を受けて頑張ってくれただけだ」
「でも……でも、兄貴……」
「ヒデ。これは俺のケジメなんだよ。オヤジは毛唐相手にスジも道理も関係ないって言ってくれたのを、俺が勝手に指を詰めたんだ」
そして加地さんは横に立つ俺を静かに見上げた。
「“しつけ”の終わった商品に手を出した。本気になった。一千万でカタがついたはずなのに、横から商品をひっさらった。いくらオヤジがいいと言ってくれてもな……これは俺のケジメなんだ」
高く細いヒデの泣き声。
その泣き声を聞きながら、俺は一歩前に踏み出していた。
「……俺、最初は800万の借金のカタになったんだよね?」
加地さんの右手の、段差になったところに滲んだ赤い血を見つめながら、俺は口を開いた。
俺の問いに加地さんはそうだとうなずく。
「800万のカタになって……ハーキムに1000万で買われて……加地さんの小指で……加地さんのところに戻ってこれた……」
「不満か?」
加地さんがちょっと意地悪く笑う。
「最後はずいぶん安くあげられたと思ってるか?」
「……逆だよ……」
涙声になりながら、俺も笑った。
「そんな高く買われたら、どうしていいかわかんないじゃん」
加地さんが声を出して笑い、俺は笑おうとして、やっぱり泣いてしまった。
俺を引き寄せて片腕で胸に抱きこむと、加地さんは泣いてるヒデと俺の肩を優しく撫で続けてくれたんだった。
ひとしきり泣いた後、先に顔を上げたのはヒデだった。
「兄貴、痛みは……」
「大丈夫だ。親父がすぐに医者を手配してくれたからな。傷口もきれいなもんだ」
「……よかったっす」
ぐいっと拳で涙の跡をぬぐい、ヒデは立ち上がった。
「じゃあ、俺はこれで。なんかあったらすぐに来ますんで」
「ああ。ご苦労だった」
ヒデは加地さんに頭を下げた後、今度は俺に向き直った。
「じゃあ、遼雅さん。加地の兄貴のこと、よろしく頼んます」
「あ……うん」
「なんか用があったら、これからはなんでも遠慮なく俺に言ってやって下さい。遼雅さんのことも、これからは俺らがちゃんと面倒見させてもらいますんで」
これにはちょっと目が丸くなる。
「あ、俺は別に……」
「だめっすよ」
ヒデの顔が真剣だ。
「遼雅さんはこれで晴れて兄貴の大事なお人になられたんだ。いわば俺らにとって姐さんになるんす。兄貴同様、遼雅さんにも仕えさせてもらいやす」
ぎゃああああ。
俺の胸の中を言葉で表せばこんな感じだったろう。
けど、ヒデの真剣な顔に「ぎゃああああ」なんて口に出したら悪いみたいで、とりあえず、
「いや姐さんってのは……」
と俺はもごもご言えただけ。
「じゃあ、兄貴、遼雅さん、失礼しやっす」
ぺこりともう一度頭を下げて、ヒデが出て行く。
あ……。
部屋に二人きりというシチュに改めて気がついて、俺の顔は真っ赤になった。
「遼雅」
落ち着いた声に名を呼ばれる。
「は、は、はい!」
応えた声は見事にひっくり返って。
加地さんがしぶく笑う。
「……よく、帰って来たな」
――そうだ……俺は帰って来たんだ……。
「ただいま」
俺も笑顔を作りかけて、でも、途中でそれは歪んだものになってしまった。
「……嬉しいけど……帰ってこれて嬉しいけど……加地さん、ムチャだよ。なんで指詰めたりなんか……」
「これは俺のケジメだと言ったろう」
加地さんが穏やかな笑みとともに近づいてきて、俺の頬を包帯のないほうの手で包む。
「仕方ない。おまえには最初から手を焼かされていた。……その時点で見切りをつけて、さっさと店に出してしまえばよかったんだろうな。そうしたら、俺もおまえもこんなことになっていなかった」
こんなこと。
言葉だけ追えば、それは冷たいセリフだったのかもしれない。
でも、俺にはその言葉の表面的な冷たさより、その意味の深さのほうが胸にきた。
「……そうだね……“しつけ”がもっと短くて、もっと早くに放り出されてたら……こんなことにはなってなかったね。加地さんは指を詰めずに済んでて……」
「おまえはヤクザの囲われ者にならずに済んだな」
囲われ者。
加地さんの言葉はやっぱり冷たかったんだろうか。
その言葉に俺は傷つくべきだったんだろうか。
でも、俺は……でも……。
「俺、もう加地さんのもの?」
俺は笑ってそう聞いていた。嬉しくて。なんだかとても嬉しくて。
「もう加地さんだけのもの?」
加地さんの隻眼が優しく俺を見つめる。
「そうだ。おまえは俺だけのものだ」
我慢したけれど。
俺の目からはぽろりと涙がこぼれてしまった。
つづく
My shinny day 10 JUNK部屋連載101話〜106話
一部加筆修正して掲載
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