My shinny day 8 - 慰撫 -

 



 店に来た時も食事の時も、ハーキムの装いは、光沢のよいスーツに、二本の黒い輪で止めた長い布を頭からかぶったものだった。
 本当は頭に布をかぶるだけじゃなくて、下もゆったりした白い長衣を着るのが正式なんだろうけれど、西欧に合わせたスーツと自分達の 民族衣装の一部を組み合わせるそのスタイルは、テレビなんかでもよく見ることがある。
 ゆったりと肩から肘のあたりまで流れる白い布。 顔半分を覆うもじゃもじゃしたヒゲ。
 アラブ人であるハーキムをなにより印象づけるのは、やっぱりそのふたつじゃないだろうか。


 ところが。


 振り向いた俺が素っ頓狂な声を上げて固まるのを見て、ハーキムはニッと笑った。
 俺は失礼も忘れて、ハーキムの顔を まじまじと見つめた。
 ハーキムはスーツの上着を脱ぎ、ネクタイも取り、カッターシャツの胸元をラフな感じに広げていた。袖も肘まで まくりあげていた。頭の布も取っていて、意外とスポーティな感じにカットされてる黒い短髪が露わになっていた。
 ……そして……。
「どうした?」
 おもしろそうに笑う口元がはっきりと見える……。
「ヒ……」
 形のよい鼻の形も、顎の形も……。


「ヒゲ……」
 

 そう。
 振り返ったハーキムの顔には、その下半分と言ってもいいほど広範囲にあったはずの髭がなくなって いた。


「やっぱり驚いた?」


 そうおもしろそうに尋ねてくる、髭のないハーキムの顔は、意外なほどに若かった。三十代前半かと思っていたけど、もしかしたら 23、4かもしれない。


「ヒゲ……」


 俺はバカみたいに繰り返した。


 陽気なアメリカ人のように大きな身振りで、ハーキムは肩をすくめて見せた。
「留学先から呼び戻されてね、部族の仕事を 継がされたが、ヒゲがないことに激怒されたよ。威厳が保てないと言われて仕方なく、人前では付け髭を付けることで折り合ったわけ。OK?」
「O、OK」
 ヒゲのないハーキムの思いのほかの若さと生き生きした表情に慌てながら、俺はなんとかうなずいた。
「部族の慣習にも、アラーの神にも、私は十分な尊敬と信仰心を持っているが、意味のない形にこだわるのは嫌いなんだ。高校からイギリスで 過ごした経験のせいだと父親にはしぶい顔をされているよ」
「ハーキム、もしかして部族の中では変わり者?」
 ぺろりとそう尋ねて しまってから、しまったと思ったけれど、ハーキムは気分を害するどころか面白そうに笑った。
「そう! 優秀で若くてハンサムな変わり 者だよ」
 自分で言う? つられて俺も笑っていたら、まだ笑みの残った顔でハーキムは俺の顔をのぞきこんできた。
「さあ。今度は 君のことを聞かせてほしい」
「え」
「私の目から見て、君は十分にチャーミングで賢そうに見える。なぜ君がお金でセックスを売って いるのか、純粋に疑問なんだが?」
 間近から、黒い瞳が俺の瞳をのぞきこんでいた。
 今までにも、客に似たようなことを聞かれたことはあった。いわく。「この仕事は長いのか?」「この仕事が好きなのか?」 「コレが好きだからこんなことをしているんだろう?」etc.
 そのどの問いにも、俺は曖昧に笑うことにしている。「えーそんなことー」。
 興味本位に、冷やかし半分に聞いてくる客にはそれで十分だったから。
 だけど、今、ハーキムの瞳は笑みをたたえながら、でも、 まっすぐに俺の瞳を見つめてくる。
「……母親の借金で」
 仲間内でも話したことはない。……たぶん、みんな似たような理由や境遇で 店に来ていたんだろうけれど。
 ふわっと俺は口にしていた。
「母親が作った借金のせいで、店に出ることになったんです」
 うーん。ハーキムは首をひねった。
「君の家は貧乏だったのか? それとも父親がビジネスに失敗したとか? 母親が作った借金という のがわからない」
 ああ。それはそうかも……。
 なんだか勝手に口元がゆるんだ。改めて言葉にしてみたら、なんてバカらしい……。
「母親が、家を欲しがったんです。三階建ての、綺麗で可愛い家。彼女は、ほかにも海外旅行とかブランドもののバッグとかも大好きで ……」
「家を建てるために、君は売られたのか?」
「いえ……」
 今度は笑い声まで出てしまった。
「家はもう建ってました。でも、 家を建てたり、彼女が好きなものを買ったりするのに、少しずつ無理があって……借金が800万になってしまたんです」
「800万…… ドル?」
 俺は噴き出しながら首を横に振った。
「円」
 ハーキムが信じられないというように肩をすくめる。
「たった それだけの金額のために、彼女は息子をマフィアに売ったのか?」
 たった。そうだろう。彼のようなアラブのお金持ちにしてみたら。
 たった。そう。たった800万。
 たった……三階建ての家のために、たったいくつかのバッグのために、たった何度かの海外旅行の ために。
 大きな無理じゃなかった。父親にはちゃんと十分な収入があったんだから。そう。それはほんの小さな無理の積み重ね。だから 何千万なんて金額じゃない。一回一回はおそらく数万十数万の無理。ほんとに些細な無理が重なっただけの借金。
 些細な見栄の積み重ね。
 そのために俺は……。
「人の母親を悪く言うのは気がひけるが、君の母親はひどい親だな」
 ハーキムの声が、まるで天からの 声のように聞こえた。
「ひどい親だ」
 俺はハーキムを見つめ返した。じわり。その輪郭がにじんでゆがむ。
それは、今までわざと考えないようにしていたことだった。
 加地さんに制服をはさみで切り裂かれ、レイプされた時も、『しつけ』と称していやらしいことを学ばされていた時も、店で客に 品定めされていた時も。
 俺は自分がこんな境遇に陥った根本を、あえて見ようとはしなかった。
 しょうがないかあちゃんだ……そう思うところまでで、俺は自分の思考にストップをかけていた。
 もし……もし、加地さんたちが家に来た時に……かあちゃんが、それなら自分達はこの家を明け渡します、と毅然と言ってくれて いたら……いや、そこまで行かずとも、わかりました、では裁判にかけましょうと言ってくれていたら……俺たち家族は世間に笑われたかも しれないけど、でも……俺はヤクザの店で男に買われるような目には合わずに済んでいただろう……。
 母親を非難したくなくて。
 母親の見栄のために、自分が犠牲になったと思いたくなくて。
 封印していたコト。


「ひどい親だ」


 ハーキムの言葉が封印を解く。


 涙が次々あふれだした。
 怒りより口惜しさより、それは悲しみの涙だったと思う。親に見捨てられた悲しさ。子どもより自分の欲を優先させた親を持って しまった悲しさ。
「……かわいそうに。君はこんなにいい子なのに」
 あたたかな手の平が、俺のぬれた頬を包んだ。
 俺の中でなにかが切れた。
 ずっと……ずっと突っ張ってきた、心の芯にある棒みたいなものが、コトンと落ちたみたいな……。


「うわああああ」


 子どものように大声を上げて俺は泣いた。
 ハーキムがそっと近寄り、その胸の中に抱き込んでくれる。
 布地も仕立てもよさそうなシャツに、かすかに残った理性が警告を出したが、俺はかまわず、涙と鼻水を存分に吸わせながらハーキムの 胸で泣き続けた。
 それは俺にとって初めてのセックスだった。


 レイプでもない、『しつけ』でもない、客を喜ばせるための行為でもない。


 俺は自分がなにを要求されているか、考えないままに男に抱かれたことがそれまで一度もなかった。
 どうしたら相手の男が 喜ぶか、自分はどう振る舞うべきなのか。
 そういうことを常に意識しておくように、俺は加地さんに仕込まれていたから。


 でも、ハーキムと過ごすベッドの中で……


 俺はただ慰められ、愛でられていただけだった。


 ハーキムは客のはずなのに。
 その夜、俺は一度もそのことを思い出しすらしなかった。


 だーりん、はにー、まいすぃーと、あいらぶゆー、きゅーと……ハーキムからは本当の恋人に囁くような言葉が次々と浴びせられ、 本当に大切に想う相手を抱くときのような、優しくてあたたかな愛撫をいっぱいもらって……


 ハーキムの胸の中で、なにを考える余裕もないままに、俺は酔わされていた。


 男娼としてはいけないことだったと思う。
 ヨがる姿や声で、客を喜ばせる意識さえ、俺にはなかったから。
 

 俺はただ……自分をいとおしんでくれる人の胸の中で……初めて純粋に性の快感に流されていた。





 次の日の朝、 俺は人の話し声で目覚めた。
 ……そんなだらしないことも、もちろん初めてだ。客と泊まりになったときでも、俺は必ず客より早く起き出して身支度は済ませていたから。
 全裸のまま、シーツにくるまり、客の声で目覚めるなんて、ホント、プロ失格……反省を覚えつつ、俺はふと聞こえてくる言葉に耳をすませた。
 ハーキムが誰かと電話で話しているらしい声が、開いたドアから流れてくる。
「300万……ドル?」
 ああ、また同じことを言ってる……くすりと笑いかけて、なんとはなしに胸騒ぎを覚えた。……なんの話だ?
「は! 円か。問題ない。払ってやれ」
 俺はベッドの中でそろりと躯を起こした。
「なに? 連絡? そんなものがいるのか。面倒だな。……わかったわかった。彼が持ってる携帯から連絡を入れればいいんだな?」
 間違いない。ハーキムが話しているのは……。
 大股に歩く足音がして、ハーキムが部屋に入って来た。
「ああ。起きたのか」
 にこりと笑う顔はあたたかく優しげだけど……
「今の電話は……?」
 俺はこわごわ尋ねた。
 ハーキムはベッドに腰掛けるとむきだしの俺の肩に唇を押し当てた。
「俺が日本にいられるのはあと三日だ。その三日間、おまえにはずっとそばにいてほしい」
「三日?!」
「イヤか?」
 ふだんなら俺は男娼として、「いやなわけないじゃない。うれしい」と答えていただろう。
 だけど、その朝、もう俺はプロとして はありえない失態続きで。
 そこでも俺はバカ正直に口を開いていた。
「300万って聞こえた。それは……」
「ああ」
 ハーキムはなんでもないようにうなずいた。
「店に連絡したら、三日トータルでその金額だと言われたよ。あと、君の携帯から店に連絡が ほしいそうだ」
 客と過ごす時間が長くなった時に、店に連絡をいれるのは規則だった。
 それはいい。
 だけど、300万って ……。
 休憩の客が多い中、泊まりになればそれ相応に料金が高くなるのは知っていたけれど、こんなふうに三日も連続して希望されたこと は今までなかった。
 それでも、300万という金額は大きすぎるんじゃないだろうか。
 一日あたり100万だ。
 それほどの 価値が俺にあるんだろうか……。
「無駄遣いはよくない。ハーキム」
 俺は思わず言っていた。
「300万なんて、ひどいよ。そんなお金……」
「お金の遣い方は俺が決める」
 ハーキムはあっさりそう言った。
「日本にいられる三日間を君と過ごせるなら、300万がたとえドルでも俺は惜しくない」
 ……これだからオイルダラーは……。
 俺はくらりとくるのを頭を押さえて耐えた。
「と、とにかく一度、店に連絡を入れます」
 マネージャーがどういうつもりで300万と答えたのか。なにより加地さんがどう思っているのか……俺は確認しないでは いられない思いだった。
ハーキムが着せ掛けてくれたナイトガウンだけを肌に直接まとって、俺は自分のポーチの中から携帯を取り出した。店への連絡にしか 使えない、居場所がGPSで把握されるキッズ携帯。
 つながる先はマネージャーの携帯のはずだった。
 なのに。
 ワンコール、 あったかどうか。
 かけたとたんに、待っていたように出た相手は……
「遼雅か」
 声だけでわかる。加地さんだった。





 達哉のことがあってマンションを出てから、もうずっと加地さんとはまともに口をきいていなかった。
 低い、独特の渋みを 持った声が、携帯を通して、まるですぐそこにいる人の声のように耳に届く。
「三日間、貸切にしたいと希望されたぞ。おまえは了承して いるのか」
 加地さんにしては珍しい。性急な問いかけに、俺は曖昧にうなずいた。
「……うん……」
「無理を言われてるんじゃ ないのか。なんならそこに迎えに……」
「でも300万、もらえるんだろう?」
 俺の言葉に加地さんが電話の向こうで黙り込む。
「いくらなんでも吹っかけすぎなんじゃないの」
「……おまえは店で一番の売れっ子だ。三日と言われたら……」
「そうだね。 稼げる間に稼がせなきゃね」
 やっぱり俺の口からは皮肉な言葉が出てしまう。
「遼雅……」
「300万も稼げるチャンス、 俺だって逃がしたくないよ。それだけ早く店から出られるんだから」
 ふーっと溜息が聞こえた。
「……無理じいされてるわけじゃないんだな」
 最終確認のように加地さんが尋ねてくる。
「無理じいなんか、全然されてない」
 俺は突き放すように答える。
「なら、いい。なにかあったら、すぐに連絡しろ。……迎えに行くから」
 迎えに行くから。静かに付け加えられた一言。
 ――ひどいことをされた。加地さんはヤクザだ。だけど……時折みえる加地さんの素顔は決して冷たいものじゃない……
「……大丈夫だよ。ほんとに。……すごく紳士で……大事にしてもらってるから」
 そう告げると、長い溜息がもう一度、聞こえた。
 眉間に深い縦皺を刻んでいる顔が見えるようだった。
 加地さん……
「……一日一回は必ず連絡を入れろ。いいな。三日以上になるなら、一度店に戻れ。わかったな?」
 三日以上にはなりっこない。ハーキムは日本を離れるんだから。
 そう言おうかと思ったけれど、
「わかりました」
 とだけ答えて、俺は携帯を切った。
「終わった?」
 ハーキムの腕が後ろから回ってくる。
「ハ……」
 呼びかけた声は、少しかさついた唇に吸い取られた。
「三日間、おまえは俺のものだ。リョーガ」
 鼻腔をくすぐるエキゾチックな香り。
 俺は腕を上げて、ハーキムの頭を抱え込んだ。……そりゃ、ほら、俺もプロのはしくれだから。
「……楽しい三日間にしたいな……」
 半ば本心、半ばは教えられた手管で、俺はハーキムの耳元に囁いていた。






つづく

My shinny day 8 JUNK部屋連載71話〜79話
一部加筆修正して掲載


 

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