その三日間、いや、正確には二日間、俺はそのホテルのスィートで贅沢で愉しい時間を満喫した。
ハーキムは日本人も顔負けな勤勉さで忙しそうだったけれど、仕事の合間に部屋に戻ってきては俺を抱き寄せた。
「おなかはすいてない?」
「喉は乾いてない?」
「足りないものはない?」
心配そうに尋ねてくる様子は、まるでつきあいだしたばかりの恋人に心を配る男のようで……
「大丈夫です」
笑って答えながら、俺は内心、あわてていたりする。
ハーキムの態度を見ていると、俺は金で躯を自由にさせる男娼ではなく、まるで街で偶然ハーキムと出会って恋に落ちた相手であるような気がしてくる。
――そんなはずはないのに。
ヒゲをつけたハーキムはやっぱりヒゲのないときより、うんと年上に見える。
そう言うと、ハーキムはむうっと表情を曇らせて俺の腰を抱き寄せる。
「リョーガ。君が望むなら、俺はディスコで一晩中、踊り続けることもできる。誤解しないでほしい。俺は十分、若くて情熱的だよ」
「知ってます」
俺はハーキムのヒゲを指でそっと撫でる。
若くて……情熱的で……エロティックで……俺を本当の恋人のように扱うハーキム。
その二日、俺はハーキムと本物の恋人のようにして過ごした。
ありえないとわかっていての虚構の時間を、俺は愉しんだ。
三日が過ぎれば、俺は店に帰る。……加地さんがオーナーを務める店に。
期間限定のハーキムの恋人役を、俺は愉しんでいたんだった。
そして、三日目の朝。
俺はまた、ハーキムの声で目覚めた。
「一千万では不足だというのか。ならばいい! ドルで払うと言ってやれ! なに? 一千万ドルだ! わかったか!」
ハーキムが声を荒げるのを初めて聞いた気がする。
それにしても豪勢な話だ。一千万円でもすごいと思うけど、一千万ドルって言ったら、10億だ。いったいなにを……
そこまで思って、俺はまた、ベッドの中でそろりと躯を起こした。
まさか……まさか?
「……ああ。……ああ、わかっている。とにかくだ。店のオーナーとよく話してくれ。800万円の借金のカタになったと聞いている。一千万でも法外なはずだとうまく話をまとめてくれ」
そこまで聞いたら、もう、じっとしてはいられなかった。
ベッドから飛び降り、ガウンだけを身にまとって俺はリビングへと飛び出した。
「ハーキム! 今の話……!」
ハーキムはちょうど電話を切るところだった。
にっこり笑顔で、おはよう、まいすぃーと、と両手を広げる。
いつもならあまえたふりでその胸に飛び込む俺だけど、今日はそうはいかない。
「800万とか、一千万とか、なんの話をしてたんですか!」
「聞いてたのか」
ハーキムはにっこり笑った。
「俺から君へのプレゼントの話だよ」
歩み寄ってきたハーキムは、そう言うと、俺のほほを両手で優しく包み込んだ。
「俺は君に“自由”をプレゼントしたい」
まさか、と思った。
まさか、まさか!?
「……と言っても、」
ハーキムは俺の鼻先に小さくキスを落とした。
「おまえをこれ以上、ほかの男に抱かせたくない、俺の勝手なだけだけど」
ハーキムの黒い瞳を俺はまじまじとのぞきこんだ。
なんとかハーキムの真意をはかりたくて。
「……俺を……店から買う話?」
「そうだよ、リョーガ」
ハーキムはしっかりとうなずいてくれたけど。
まさかまさかまさか!
店から自由になる? もう客を取らなくてもよくなる?
降って湧いたような話に、実感がわかない。
ハーキムはそれからすぐ、最後に日本で片付けなければならない仕事があると言って、挨拶には濃厚すぎるキスを残して部屋を出て行った。
俺は茫然とソファに座り込んだ。
自由になる……?
借金を返したら、返したら、と、そればかりを思っていた。
確かに加地さんも、「おまえを気に入った客がいれば、身請けもしてもらえるだろう」みたいなことは言っていたけど。
実際に昔の女郎ならいざしらず、現代の日本で18未満の男娼を身請けする物好きが現れるとは、俺は期待していなかった。
まさか、本当に……?
思考が同じところを巡り出していることに気づいて、俺は立ち上がった。
考えていても仕方ない。
まず、ハーキムが本気だとしよう。
だとしたら?
俺は身請けされる。
店から自由になる。
……加地さんとも、会えなくなる……。
テーブルを飛び越える勢いで、俺はベッドルームへと駆け込んだ。
クローゼットを開け、小さなバッグを引っ張り出す。
昨日の朝、定例の連絡を入れた時にはマネージャーが出た。
でも、今日は?
急いで取り出した携帯には、朝から10件近くの着信が入っていた。
客といる時に店から連絡がくるなんて、まず、ないことだし、ハーキムの気分を害してはいけないとマナーモードにしていたせいで、気づかなかった。
連なる店の番号と……加地さんの携帯の番号。
迷ったのは瞬間で、俺は加地さんの携帯番号を選ぶと「発信」を押した。
1コールあっただろうか。
「遼雅か!」
加地さんの低い声が耳に飛び込んできた。
「どういうことだ! おまえを買い取りたいと言ってきたぞ! おまえの希望なのか!」
「……あ、朝起きたら、いきなり……そんな話になってて……」
珍しく性急な加地さんの勢いに押されて、俺はしどろもどろに答える。
電話の向こうで息を整えているらしい加地さんの深い呼吸が聞こえた。
「……いいか、遼雅。おまえが一刻も早く、店から足を洗いたい、こんな仕事はやめてしまいたいと思っているのはわかっている。だが……相手はアラブの人間だ。おまえを向こうの国に一緒に連れて帰るつもりなんじゃないのか? おまえはそれも承知なのか?」
「……ハ、ハーキムは俺に自由をプレゼントするって……」
「自由にしてやるから、ついてくることを選べと言われたらどうするんだ」
間髪いれずに加地さんに切り返され、今度こそ俺は詰まった。
加地さんの顔なんか、もう見たくないと思ってた。
店から自由になることだけを考えていた。
けど……それはもっとずっと先の話のはずで。
こんなに急に、しかも、アラブのお金持ちに身請けされるなんて、それこそ俺の想定外で……。
「おまえはそれでいいのか、遼雅」
焦れたような声に再度、問われる。
「おまえも望んでることなのか」
答えを迫られて、俺はぎゅっと携帯を握り締めた。
あまりに力が入りすぎたせいで、携帯が耳元でぷるぷる震える。
「俺は……加地さんはひどいと思う」
「……なに?」
「加地さんはひどいよ! 達哉にあんな……あんなこと、させなくてもいいじゃないか!」
「遼雅……今は、」
言いかける加地さんをさえぎって、俺は続けた。
「見せしめだかなんだか知らないけど、あんなひどいことしなくてもいいじゃないか! 達哉は加地さんのことが好きだったんだ! 関係ないの?! 加地さんにとっては俺たちが誰をどう好きになっても全然関係ないの!」
言ってることの脈絡が、自分にもよくわからない。
でも、俺は吐き出してしまいたくて。
どうしても吐き出してしまいたくて。
「加地さん、俺たちはただの商品だって言ったよね。だったらいいじゃないか! 俺は高い値段で買い取ってもらえるんだろ。よかったじゃないか!」
「遼雅……」
呻くように加地さんが俺の名を呼ぶ。
「遼雅」
関係なくない。
携帯をぎゅっと耳元に押し付けていなければ、聞き取れなかったようなささやきだった。
「達哉のことは……あれだけ店に損害を与えたんだ、見せしめがどうしても必要だった。だが……それだけじゃない。あいつはおまえを階段から突き落としたろう?」
一瞬、答えにつまった俺に、加地さんはボーイたちから聞いたと明かす。
「たまたま打ち身で済んだからいい。おまえは躯も軽い。だが一歩まちがえば、おまえは死んでたかもしれない。……そう思ったら、どうしても達哉を許せなかった」
ああ……。
俺はぎゅっと目を閉じた。
「遼雅」
携帯を通して、加地さんの囁きが耳に忍び込んでくる。
「おまえを、愛している」
目を閉じたまま、俺はただ唇を震わせた。
開かない片目を隠す黒絹の眼帯。眼光鋭いただひとつの瞳。精悍に焼けた肌、引き締まった頬、意志の強そうな薄い唇。――もうずいぶんと見ていない気がする、加地さんの面差しが、眼裏に浮かぶ。
「おまえに……客を取らせるのが嫌だった。特別扱いはよくないとわかっていても……おまえを手放せなかった」
加地さんの告白が、なにかいけないクスリのように脳髄に沁み込んで、俺の思考を麻痺させていく……
「店の利益だけ考えれば、今度の話は願ってもないことだとはわかっている。……わかっているが……」
加地さんが言いよどむ。
お願い。俺は心の中で叫ぶ。続きを言って。そうしたら、強張ったままの俺の唇も、動くような気がするんだ。
「遼雅……俺は、おまえを手放したくない」
頭の中にはもう加地さんの言葉しか響いて来ない。
「……迎えに来て」
唇が勝手にささやきをつむいだ。
「加地さん……迎えに来て」
つづく
My shinny day 9 JUNK部屋連載80話〜86話
一部加筆修正して掲載
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