ぼくたちの真実の証明<1>
先輩は横浜まで車を飛ばした。
中華街の、鮮やかな赤や黄色が目立つ通りを先輩と歩いた。通りにあふれる色彩も、両側に連なる店構えも、店先から聞こえてくる接客の耳慣れないイントネーションも、はるか異国の情緒を伝えて来る中を、先輩と歩いた。
ぼくはぼうっとしていた。
なにもかもが、なんだか、現実だとは思えなかった。
東と話している時には……もうこれは別れるしかないって冷静に考えて、納得もしていたはずなのに。
――別れた? ぼくは、東と? もうぼくは東の恋人じゃないし、東もぼくの恋人じゃなくて……ぼくたちの間には、もうなにもなくて……。
赤の他人。
その言葉がふと浮かんだ時に感じたぞっとするような寒気だけが、ぼくにとっては現実だった。
赤の他人。赤の他人。ぼくと東は別れたんだ。
鋭い痛みの予感にぼくは慌てて思考を閉じる。
通りにあふれる鮮やかな色彩。店先を飾る子供用の可愛いチャイナドレス。中国語なまりの「いらっしゃいませ」。非日常的な空間に、ぼうっと眼と耳を向けていると、現実感はどんどん希薄になった。
このまま本当に、異国の空気の中に取り込まれてしまえばいいのに……。
そんなふうに思い始めた時に、
「暗くなってきたね。そろそろ帰る?」
先輩に問いかけられて、ぼくは咄嗟に首を横に振っていた。いつの間にか、店々にはネオンが灯り、通りは夜の華やかさをまといだしている。今、この華やかな街から切り離されるのはイヤだった。
――ここから、帰ったら……ぼくは一人で向き合うことになる。東と別れたことと。東がもうぼくの恋人じゃないことと。ぼくは一人で向き合わなきゃいけなくなる……。
頭の隅で。『これじゃいけない』って声が、警鐘のように響いたけれど。
「お酒、飲みたい」
ぼくは言っていた。
「車だけど」
って先輩が言った。
「でも飲みたい」
ってぼくは答えた。
「困った子だね」
って先輩は笑った。
これじゃいけない、これじゃいけない。
声が聞こえたけれど、ぼくはそのまま先輩とお酒も出してるお店に入った。飲もうとしない先輩に、「先輩も呑んで」とグラスを持たせた。一人で酔いたくなかった。
「これ飲んじゃったら、今夜はもう帰れないよ」
「いいじゃないですか」
「いいの?」
「いいんです!」
毒喰らわば皿までって言葉がある。ぼくは帰りたくなかった。一人で東と別れた事実と向き合いたくなかった。お酒を飲みたかった。一人で飲みたくなかった。先輩が帰れなくなるという。それでもいいとしか、ぼくには言えなかった。――これじゃいけないって言葉は聞こえ続けていたけれど。
店を出て、中華街を抜けた。夜道を歩いている時、先輩に暗がりでキスされた。
これじゃいけない、これじゃいけない。
だけど先輩のキスは優しくて。その優しいキスをくれている相手が東じゃないことに、ぼくの眼からは勝手に涙があふれたけれど、それをぬぐってくれる指も優しくて。
「泣いていいよ」
先輩のささやきはぼくの痛みをすべてわかってくれているように、ひそやかで。
肩を抱かれるようにして、明度を押さえたネオンが妖しく煌くホテルの門をくぐった。ぼくはぼくを慰めてくれる手を振り払うことができなかった。抱き締めてくれる腕から逃げ出すことができなかった。
これじゃいけない。
執拗に響く、頭の中の声を聞きながら、ぼくは先輩と夜を過ごした。
酔いも醒め、朝の光の中で自分のしたことに打ちのめされるのは二度目だった。
いけないってわかってたのに。
どうしようもない恥ずかしさといたたまれなさをこらえながら、そそくさとシャワーを浴び、服を着ていたら、
「……そういう顔をしない」
ベッドの中から、先輩にそう声を掛けられた。
「え」
枕の上に肘をついて、先輩が笑ってこっちを見ていた。
「そ、そういう顔って……」
「悪いことしちゃったって顔」
「……ご、ごめんなさい……」
考えてみたら、『悪いことしちゃった』って顔は相手してくれてた先輩に対してもかなり失礼だ。ぼくは慌てて頭を下げる。
「謝らなくてもいいけど。……誰に対して、そんな悪いことしちゃったって気になってるのか、ちょっと気になる」
え……。
ぼくは眼を見開く。……誰に対して? それは……。
でも、ぼくが答えを見つける早く、先輩は上掛けを大きくめくってベッドから降りてきた。
真っ裸で。
「!」
声にならない叫びを上げて、ぼくは急いで俯く。
ポンと頭に手を置かれた。
「シャワー浴びてくる。ちゃんと待ってるんだよ?」
「え?」
思わず顔を上げて、先輩の褐色の躯を今度は間近から直視してしまって、ぼくは顔から火を噴いた。
「家まで送って行くから。恥ずかしがって逃げ出したりしないように」
もうぼくには蚊の鳴くような声で「はい」と言うしかできなかった。
そしたら。
「それとも一緒に入る?」
先輩が言い出して来て。
「ぼ、ぼくはもう、さ、さっき……!」
慌てて答えたら、先輩は肩越しににやっと笑った。
「知ってる。高橋は背中も綺麗だね」
バスルームの壁はガラス張りになっていて、部屋から丸見えだ。まだ先輩は寝てるとばっかり思ったのに……!
真っ赤になって口をぱくぱくしてるぼくを置いて、先輩は悠々とした足取りでバスルームへと入って行く。
……もう。
顔の火照りを押さえようと、ぼくはパンパンと軽く自分の頬を叩いた。
――先輩といると、いつもこんな感じになる。
ぼくの気持ちが重く沈んでいたり、自分ではどうしようもないところでぐるぐるしていたりする時に、先輩はちょっとした軽口で、すっとぼくの気持ちを逸らしてしまう。でもそれは、ぼくの気持ちを無視しているとか、無理矢理ぼくの気分を変えようとしてるとかじゃなくて……ぼくがしんどいのもどうしようもないのも、全部わかってくれてると感じられるなにかが先輩にはあって。黒い瞳に浮かぶ理解の色は、ぼくの見間違いじゃないと思う。
今も。
先輩はぼくの罪悪感に気づいていた。気づいてて……ぼくに聞いてきた。それは誰に対する罪悪感なのかって……。
ぼくはベッドに腰掛けた。
昨夜も今も、声が聞こえる。『これじゃいけない』って。それはどうして? 誰に対して?
そう自問すれば、浮かぶのは東の顔だ。
これじゃいけない。だって、東が傷つく。東が悲しがる。
ぼくは脳裏に浮かぶ東の悲しげな顔を締め出そうと、軽く頭を振る。
いけないことなんか、なにもない。
ぼくと東は合意の上で別れたんだ。先輩と一緒にいることに、罪悪感を覚える必要は、もうないんだ。
頭ではわかっているのに。
心が納得してくれてない。
ぼくはぎゅっと目を閉じた。
これじゃいけない。いけなくない。互いに否定しあう、声。
「お待たせ」
先輩の軽やかな声が後ろから聞こえた。
「朝メシはマックでいい?」
先輩の表情にも態度にも、もう思わせぶりなものはなにもない。前と同じ。ぼくと先輩の間に『なにか』があったと匂わせたりはしない、切り替えの早さ。
その切り替えにぼくは救われる。
「この近くにありましたっけ」
これじゃいけない。またも響いた自分の中の声を無視して、ぼくは立ち上がった。
「じゃあ、また連絡するよ」
「ありがとうございました」
家の前まで、先輩に送ってもらった。走り去るワインレッド色したアコードを見送りながら、ぼくは改めて、自分と向き合う。
これじゃいけない。
なにがいけない? ぼくは自分の中の声に反論する。東とダメになってすぐだから? お葬式の時のように決まった期間は喪に服さないとダメだとでもいうのか?
聞いたことない。誰かと別れたら、その後はしばらく新しい人と付き合っちゃいけないなんて。世の中には二股だってかけちゃってる人がいるぐらいだっていうのに。……そうだよ、東だって。ぼくの前で、マスターと平気な顔でしゃべってた。そうだよ、もしかしたら、今頃、東も別の人と……。
ズキッ……胸に痛みが走って、ぼくは眼を閉じた。
東、東。
胸が痛い。別れたんだよね、ぼくたち。……東。君はゆうべ、どうやって過ごした? ぼくが先輩に慰められていたように、君も誰かに慰められていたの? 誰かと、キス、したり……。
「どうしたの」
突然、眼の前にあった玄関のドアが開いて、ぼくは飛び上がるほど驚いた。
「具合でも悪いの?」
母親が心配そうにドアから顔を出している。
「あ、ううん。なんでもない。ただいま」
「ちっとも入って来ないからどうしたのかと思ったわよ」
「ごめんごめん」
笑顔を作りながら、ぼくは家の中に入った。
「朝ごはんは? 済んでる?」
「うん。済ませて来た」
台所に入っていく母親の後ろ姿に大声で返事して、ぼくは二階の自分の部屋へと向かう。
着替えようとシャツを脱いだら、赤い痕がひとつ、胸にあるのが眼に入った。……キスマーク。
これじゃいけない。
いけなくない!
響いた声を、頭を振って払う。
だいたい……先輩はぼくを慰めてくれただけ。酔って先輩にあまえたぼくの、相手をしてくれただけ。付き合うとか、そういうのじゃない。この前と同じこと。
ぼくはベッドの上に身を投げ出した。
……なにも、いけないことなんか、ない。ぼくは東と別れたんだ。ぼくが誰と夜を過ごそうと……東が誰と過ごそうと……ぼくにも、東にも、もう関係ない……。
熱い雫が鼻を滑って、シーツへと沁みて行った。
正直、ぼくはそれまで、失恋の痛みがそれほどのものだとは知らなかった。
片想いの切なさは十分に知っていたけど、互いに好き合った相手とさんざん幸せな時間を過ごした後の別れが、これほどまでにつらいものだとは知らなかった。
東と一緒に過ごした楽しい想い出がすべて、心を苛む刃になった。
ぼくの身の回りのもので、東を思い出させないものはひとつもなくて。不意に甦る記憶は、切れ味のいいナイフさながらにぼくの心を裂いた。
楽しかった、うれしかった分だけ、哀しかった。
あたたかさを知っていた分だけ、ひとりの冷たさがつらかった。
食欲がなくなった。
寝付きが悪くなって、夜中に何度も目が覚めるようになった。
なくしてみて、初めてわかるって言うけれど。
東は、ぼくの恋人だったんだ。
恋人。ぼくは東といっぱいいちゃいちゃした。いっぱいケンカもした。ぼくは東にあまえて、東もきっとぼくにあまえてた。
ぼくたちは恋人だった。友達にも家族にも絶対見せない部分をさらけ出して付き合える、恋人だった。ほかの誰といるより、一緒にいて楽しくて。誰と一緒の時より、濃い時間を過ごせる、恋人だった。
恋人だったのに……!
すべてを過去形で思い出さなきゃならないことがつらかった。恋人が恋人でなくなることが、どれほど寂しくて痛くて切ないことか、ぼくは初めて知った。
「東……」
呻いてぼくは身を折る。
納得ずくだった。あのまま一緒にいても、ぼくは東を責めることをやめられなかったし、東も……先輩とのことを許してはくれなかったろう。
それがわかっていたから。納得ずくでぼくらは別れたのに。
別れがこれほどつらいものだなんて、知らなかった。
東。君は? 君は、つらくない?
あの日を境に東は学校に一度も出て来ない。
東。……東。
学校に出て来ないのは、どうして? 君も、つらいから? ……それとも……ぼくの顔も見たくない、とか……?
二つに折られて投げ捨てられた携帯。その残骸を思い出せば、東の怒りの深さが知れる。東がぼくの顔なんかもう見たくないと思っているとしても、なんの不思議もないような気がした。
「東ぁ……」
痛みの中で、ぼくはその名を呟いた。
その、切なくてつらいばかりの時期を、それでも多少はやわらげてくれたのは河原先輩だった。
河原先輩は前と同じように、横浜での一夜のことはおくびにも出さず、それでもちょっと前よりは頻繁にメールをくれたり、誘い出したりしてくれた。情けないけど、先輩が誘い出してくれることで、ぼくは確かに気がまぎれた。
学校に出て来ない東。夜になると濡れる枕。
初めて知る失恋の痛みの中、先輩の軽口やひょうひょうとした表情が、ぼくに一時の逃げ場をくれていたんだった。
それは……東と別れて三週間が過ぎて、季節はいよいよ本格的な冬の気配をまといだした頃。
あいかわらず、東の姿を学内で見かけることはなくて……。共通の友人に、なにかあったのか、なにか知らないかと問いかけられる居心地悪さも頂点に達しようという頃。ぼくも、もし本当に東のほうはぼくを避けたがっているのだとしても、学校には出て来いよと、一度、声をかけてみなきゃいけないんじゃないかと、思い始めた頃。
ぼくは先輩に誘われて、近郊にある動物園へと出かけた。
最初は正直、今さら動物園なんて、と思ったけれど、行ってみるとこれがすごかった。そこでは、動物たちが住む自然の環境に似せてそれぞれのゾーンが作られていて、訪れた人々は各ゾーンを歩き抜けて行きながら、従来の檻の中にいる動物たちをただ漫然と眺めるのとは全然ちがう臨場感を楽しむことができた。
その、熱帯雨林のエリアを抜けた時だったか。ぼくたちの横をすっとよぎっていった人影に、ぼくの心臓はドキリと大きく脈打った。
そっくりだった。
背の高さも、肩幅も、着ている服の感じも、なにより、ハニーブラウンと白茶けた金色が混ざったみたいにカラーリングされてる髪の色と、ぱさぱさと毛先が遊んでる感じが。そっくりだった。
「あ……」
ぼくの口からは思わず声が漏れていた。
「?」
ぼくの声に、その人は振り返った。
……全然ちがった。東じゃなかった。
「な、なんでもないです、すいません」
慌てて頭を下げたら、その人はちょっと不思議そうな顔をして行ってしまったけれど。
一度早くなった鼓動はなかなか戻ってくれなくて。
次のエリアに移っても、その次のエリアに移っても、ぼくの目は無意識に東にそっくりなその人の後ろ姿を追ってしまった。珍しい動物たちの仕草を見ようと思うのに。気づくとぼくは人ごみの向こうに見え隠れする金色の頭を探してしまって……。
「似てたね」
ごくごく自然に、横からそう声をかけられた。
ぼくははっとして先輩を振り返る。
「やっぱりまだ吹っ切れない?」
先輩の表情にはなんの嫌味もなかったけど、ぼくは口ごもった。今まで先輩にこんなふうに正面から切り込まれたことはなかった。
「ふ、吹っ切れないとか、そんなんじゃ……」
「ドキッと来た?」
重ねて問われて、ぼくは諦めてうなずいた。
「す、少し……」
「ふうん」
「み、みっともないってわかってるんですけど……! あ、東、全然学校にも出て来ないし、気になってて……」
ぼくが慌てて弁解を口にすると、先輩はわかってるよと言いたげな笑顔になった。
「別にみっともなくはないだろ。別れて……三週間だっけ? まだまだ引きずる時期だろ。それに、それだけいい恋をしてたってことだと思うけど」
意外な言葉にぼくは眼を見開いた。
「いい恋?」
「だったんじゃない?」
「…………」
ぼくたちはケンカしてるか、いちゃいちゃしてるかばっかりだったような気がするけれど……あれはいい恋だったんだろうか。ぼくが引きずっているのは、あれがいい恋だったからなんだろうか。 ふと、考えに沈んだぼくの耳に、
「でもそろそろ切り替え時だよな」
先輩の呟きが届いた。
「え?」
思わず聞き返したけど、
「あ。ほら、あそこ、ワニがいるよ」
先輩が指差して、話はそこで途切れてしまった。
……その時は。
残りのエリアを回る先輩に、いつもと代わった色はなにもなかった。
帰りの車に乗り込む時も、先輩の表情はいつもと全然変わりなくて。
エンジンをかけだす、その横顔もいつもと全然変わりなくて。
だから。
「高橋、今から抱きたいんだけど、いい?」
ポン、とそのセリフを言われた時、咄嗟に意味がつかめなかった。
助手席で口をぽかんと開いているぼくを、先輩は車をスペースから出しながらちらりと振り返った。
「抱いてもいいって、聞いたんだけど?」
「え……、な、なに……」
ぼくはうろたえきって視線を泳がせる。
暗黙の了解でなかったことにしてるけど、今まで二度、ぼくは先輩と夜を過ごしてる。なぜ今さら改めて先輩が許可を求めて来るのか……それだけじゃない、なしくずしに二度、先輩に甘えた事実がありながら、三度目を求められてなんと言葉を返せばいいのか、ぼくにはわからなかった。
駐車場に入ってくる時は右に切ったハンドルを、先輩は出る時にまた右に切った。
「今までの二回とはちがってね、」
明日の天気でも語るみたいに先輩は話し出す。
「お酒の勢いでヤケになった高橋を慰めるんじゃなく、高橋に欲情してる俺を高橋にぶつけたいの。いい?」
いいも、悪いも、ぼくには答えられなかった。
先輩の横顔を、初めて見る人のようにぼくはただ見つめ続けた。
つづく