ぼくたちの真実の証明<10>
 






 喉の奥の圧迫が、瞬間、ひときわ大きくなった。
 膨れ上がったモノが口の中を占める苦しさに、咄嗟に頭を引こうとしたけれど、後ろからぐっと押さえつけられて、かなわなかった。
 込み上げる吐き気と同時、喉の奥へと生温かくて少し粘りのある液が放たれて来た。





 むせているぼくの両腕を先輩が掴む。
「うあ……」
 収まらない吐き気に、『待って』の言葉も出て来ない。
 引きずり上げられたベッドの上で、ぼくは口元を押さえて喘いだ。だから、その時の先輩がどんな表情を浮かべていたのか、ぼくは見る余裕もなかったんだけど。
「……東のだったら、飲めるのか?」
 えずくぼくに浴びせられたのは冷たい声だった。
 その時、ぼくの胸に満ちた感情はなんだったのか。『怒り』ほど激しくなく、『悲しさ』ほど切なくなく、『やるせなさ』ほど諦めに近くもなかった。瞬時に胸に満ちた思いを言葉にすれば、『このままじゃいけない』、だったろうか。
 ぼくにとっても、先輩にとっても、こんな状況でいいわけがなかった。
「東のだったら、平気なのか」
 先輩が重ねて冷たく問い詰めてくる。
 ちがう、と思った。いくら相手が東でも、喉の奥を突かれて苦しいところに放たれたら、やっぱり吐き気が込み上げるにちがいない。
 そう思ったけれど、ぼくは首を横に振ったりはしなかった。
 荒い息で吐き気をこらえながら、ぼくは首を縦に振った。
「……なに」
 先輩の声が危険な怒りをはらんで低くなったけれど、ぼくはうなずき続けた。
 ぐいっと顎を持ち上げられた。
「……平気、です。……東のなら、平気」
 目をそらさずに、言い切る。
 先輩の黒い瞳が怒りに光るのを見ながら、ぼくは言葉を続けた。
「ぼくは、東が好きです。画像を消去して下さい。ぼくと、別れて下さい」
 昼間の言葉をもう一度繰り返す。
 先輩に拒否された別れ話。
 先輩はそんな理由で別れられないと答え、人に見せられないような画像をネタに交際を続けることを求めて来た。ぼくはそんな先輩に抵抗しきることもできないで、先輩が促すままに先輩の部屋に来て、先輩が命じるままに入浴し、先輩が呼ぶままに先輩の脚の間にひざまずいた。
 ぼくが東を好きなことを、先輩は最初から知っていたという。
 そんなことはわかっていたという。
 それでも交際の申し込みにうなずいたのはぼくだと責められれば、ぼくには先輩を振り切る権利はないように思えたから。
 だけど……。
 ぼくを抱こうとしながら、先輩は東に嫉妬している。単に物理的な理由で吐き気を催したぼくに、東の影を見て嫉妬している。
 知っていたと言いながら。
 わかっていたと言いながら。
 先輩は嫉妬し、ぼくを責める。
 ……今日、ぼくは初めて先輩の悪意のある笑いを見た。ぼくに本当に人を見る目があるかどうか、自信もない。だけど、先輩が潜めていた意地悪さとは別に、やっぱり、先輩は人が苦しんでいるのを喜んで見ていられる人じゃないとぼくは思う。こんなふうに、吐き気をこらえている相手をさらに追い詰めるようなことを、本当なら言う人じゃない。
 このままじゃいけないと強く思う。
 先輩にも、ぼくにも。こんな状況はよくない。
「別れて下さい。ぼくは東が好きです」
 先輩の瞳がぎらっと光ったような気がした、次の瞬間。ぼくは両肩を掴まれ、押し倒されていた。
「東が好きだって?」
 ぼくの肩を押さえつけ、上に乗りかかり、先輩は笑った。歪んだ笑い。
「俺にヤられて喜んでたのは誰だ? もっともっと、イカセテ、イカセテって喘いでたのは誰だよ?」
 しょせん、と先輩は口元にだけ笑みを浮かべ、目ではぼくを睨みながら続けた。
「東が好きだのなんだの言ったって、おまえの気持ちはその程度ってことだろう? 東が好き? ヤッてくれる相手がいれば、おまえはイケちゃうくせに」
 上から抱きすくめられた。
 左腕をぼくの躯に回して抱き締めながら、先輩は右手で性急にぼくの股間をまさぐった。
「おまえの『好き』はその程度だろ…? 俺に抱かれたって、おまえは気持ちいいんだろ…?」
 ぼくの耳元で荒くささやいた唇は、そのまま首筋を滑る。
「秀……」
 股間をまさぐる手の動きと首筋を滑る唇の感触に、かすかに背が震えた。
 ……そうだ。ぼくは東が好きで……でも、こうして先輩の愛撫に反応してしまう。
 でも……でも……!
「それ、でも……それでも! ぼくは東が好きです……!」
 先輩の手を必死につかみ、その唇から逃れようと身をよじりながら、ぼくは訴えた。
「……東にも、淫乱だって言われた……だけど、だけど、ぼくは東が好きです。ぼくが好きなのは、……!」
 東です、そう続けようとしたけれど、唇を唇で先輩に塞がれた。同時に、ためらいのない手は股間のものを揉みしだく。
「せん……っ」
 ぼくは覆いかぶさってくる先輩の胸を懸命に押し返そうとした。こんなんじゃいけないと、懸命に伝えようとした。けれど、そんなぼくの抵抗を先輩はものともしなかった。
 膝の間を脚で割り、強引に作ったスペースに身を割り込ませ、先輩はぼくのソコをしごき続ける。
「……やめっ、て、やめて……っ」
 必死でもがくけれど、上からべったり覆いかぶさられ、弱い部分を手の中に握りこまれていては、抵抗も意味はなかった。先輩の手は弱い部分ばかりを集中的に刺激するやり方で、ぼくを煽る。
「ほら……堅くなってきた。おまえがいくら東を好きだって言ったって……どうせ、この程度なんじゃないか。東でなきゃいけないことなんか、なにもないじゃないか」
「ちが……ア!」
 ちがう! 叫ぶために上げた声が、敏感なその部分の頭をぐるりと包み込むように撫でる手の動きに嬌声に変わりそうになる。
「や、だっ! やめて、下さい……っ! やめ……」
「やめろって? なにを? いいじゃないか。ちょっと目を閉じてれば……東でも俺でも、おまえには変わらないだろ? 気持ちいいって泣いてたじゃないか」
 再び、強引に重ねられる唇。口腔内を貪ってゆく熱い舌。
「ふーっ、ん、ん……んー……っ」
 先輩の広い胸は、どれほど押しやろうとしてもびくともしない。
 口の中にある舌に噛み付くことも考えたけれど……ぼくには先輩を傷つけることは出来なかった。そのぼくの甘さにつけこむように、先輩の愛撫は激しさを帯びた。
「東じゃなくても、いいんだろ? 俺だって、いいんだろ?」
 湿った音を立ててぼくの耳の中を舌でねぶっていきながら、先輩が荒くささやく。
 東じゃなくても、いいんだろ?
 ちがう、ちがう、ちがう!
 ぼくは否定の言葉を胸の中で叫ぶ。
 愛撫されれば気持ちいい。肌は重なれば熱くなる。だけど……相手が誰でもいいとは思えない。先輩と東が同じだとも、絶対に思えない。快感の深さがどうこうじゃない。喘ぐ声の高さにも関係ない。もっと深くにある、もっと大事な部分が満たされる感覚。求められるばかりじゃない、自分からも求めていったものが得られる、その感覚。深い満足感と充足感。ぼくがそれを味わっている時に、東もきっと同じものを感じてくれているにちがいないと思える、一体感。
 東との行為の中で、ぼくはセックスの快感だけに酔い痴れていたわけじゃなかった。
 先輩が仕掛けてくる濃厚な責めに、ぼくはやっぱりどろどろに蕩けて喘ぐ。だけど……『東じゃなくてもいいんだろ』、先輩に言われて初めて気づく。セックスで熱くなる肌の、もっともっと下。胸の奥の大事な部分。そこは東にしか、震わせられないこと。東にしか、満たせないこと。
 大好きな相手に、求めている熱心さと同じ熱さで求められる喜び。
 それは、東としか分かち合えない嬉しさだった。
 刺激されれば気持ちいい。……そう、今この瞬間にぼくが感じているように。性的な快感はいともたやすくぼくの身内を駆け巡る。……けど、東とともに過ごした時間にふたりの間にあったあの幸福感は、官能によってもたらされたものばかりじゃなかった……。
「……なにを考えてる?」
 先輩が顔を上げる。
「……なにを笑ってる?」
 言われて気づいた。
 ぼくは、笑みを浮かべてた。
 先輩の手が伸びてきて、ぼくの頬を撫でる。その指先は優しくて、いっそ申し訳ないほどで。
「先輩、ぼくは……」
「わかってるよ。東のことを思い出してたんだろう?」
 優しい指先に、じわり、不穏な力がこもる。
「憎らしいね」
 指はぼくの唇を割り、口腔へと忍び入ってくる。
「俺のことを考えて、おまえが笑ってくれることはないのかな……」
 切ないほどの声の響きに、思わず『先輩』と呼びかけようとしたけれど、差し入れられた二本の指に阻まれて言葉が出ない。
「どうしてやろう」
 低い呟きの直後、首筋に噛み付かれた。
「んぐっ!」
 痛みを訴えるはずの叫びは、指に阻まれてくぐもった音になった。
 首を背けて指をはずそうとしたけど、先輩の指は執拗にぼくの口中に差し入れられたままで。
 肩口、胸元と次々噛まれた。
 痛い。
 やめてほしくて、先輩の指を噛み返す。
 だけど先輩はぼくに自分の指を噛ませたまま、次々に唇を移動させ、噛み、吸い、舐めた。
「い、やッ!」
 ついに指が口の中から出て行ってくれた時、ぼくは叫んだけれど。その時にはもう、先輩の唇はぼくの下腹部へと滑っていて。
 ソコもやっぱり噛まれてしまうんじゃないかとぼくは瞬間身構えた。けど、ぼくに与えられたのは、歯を立てられる痛みではなく、先端からねっとりと粘膜に包み込まれ舐められていく、蕩けるような快感だった。
「はう……んー、んっ……」
 今まで与えられていた痛みとは裏腹の気持ちよさ。
 酔わされる……。
 躯の奥から、狂おしい波が寄せてくるのがわかる。
 ……こういう、リズムを変えて人を巻き込むの、本当に先輩って上手だな……。
「ああっ……」
 自分の口から上がる声を聞きながら、どこか醒めた部分でそう思った。惑わされたり、驚かされたりして、気が付くとぼくはいつも先輩のペースに乗せられている。
 でも、それは……。
 大好きな人と、昂めて、昂められて、一緒に昇り詰めて一緒に堕ちて蕩ける、その喜びとはやっぱりちがってる。
 喘ぎながら、ぼくは気づく。大事な、大事なことに。
 膝裏を捉えられ、大きく高く、脚を拡げられた。
「俺を見ろ」
 先輩が命じる。
「俺を見ろ」
 その言葉にすら、ぼくの想いは過去へと飛ぶ。
 東の愛撫に、心から酔えなくなったことがあった。
 行為のさなかに、天井のライトを見ていたことがあった。
 あの時は……そうだ、ぼくたちは躯を重ねても、心は重ねられなくなっていたんだ……。
 そして今も。ぼくは目を開いて先輩を見上げる。こうして、瞳に先輩を映すことはできるけれど。
「もう……間違えない」
 与えられる快感に震える声で、でも、ぼくはささやいた。
「ぼくは東が好きです」
「…………」
 先輩は無言でぼくを貫いた。
 
 
 
 
 
 いつが終わりだったのか、覚えていない。
 
 
 

 
 タイマーだろうか。ファンヒーターが動き出す軽い音にぼくは目覚めた。
 先輩の腕が後ろからぼくの胸にまわっている。
 ……ああ。
 目覚めのよくまわらない頭で、ヘンなことに気が付いた。
 東は色白で、その東の肌と比べるとぼくは色黒に見えるんだけど。先輩の肌とぼくの肌が重なっていると、ぼくでも色白に見える。なんだか自分じゃないみたいだ。
 先輩はまだ寝ているんだろうか。まわされている腕から抜けようと、ぼくは出来るだけそっと身じろぎした。
 そのかすかな動きに、でも、きゅっと先輩の腕に力がこもった。先輩はぼくが離れようとするとすぐに目が覚めるんだろうか。
「……放して下さい」
 叫びすぎたせいか、声が少しかすれていた。
「いやだ」
 ぼくは先輩の腕がまわされた胸のあたりを見下ろした。いつもより白く見える自分の肌。これはこれで、ぼくは嫌いじゃない……。
 だけど、ぼくにはその面影だけで胸が熱くなる人がいる。ほんの数週間、声が聞けなかっただけで会いたくなってしまう人がいる。嫉妬されると、そのことがどうしようもなく嬉しくなってしまう人がいる。
「放して、下さい」
「……いやだ」
 ぼくはゆっくり大きく息を吸って吐いた。
「ぼくは先輩のことが嫌いじゃないです。だけど、もっと好きな人が別にいます。先輩に甘えるだけ甘えて、好き勝手言ってると思うけど……ようやくきちんと気がつけたんです。ぼくは先輩のことも好きだけど、それは恋じゃない。お願いです、放して下さい」
 額を押し付けられて、先輩の髪が背中に触れた。
「……俺はね、今までたくさんの女の子と付き合って、好きになったり、好きになってもらったりしてきた。その中で……高橋ほど、好きだと思った相手はいないし、高橋ほど欲しいと思った相手もいない」
 慄然とした。
 静かな口調で表面は落ち着いて言葉を交わしていても、ぼくと先輩の話に接点はない。
「先輩……」
「恋じゃないなら、恋になるまで待ってみようか」
 待つってなに! 反論しようとしたぼくは、それより早く、さっと動いた先輩の手の動きに驚いた。
「せ、先輩!?」
 後ろからぼくを抱いていた先輩の手は、するりと後ろへと引きながらぼくの両腕を背後へと引き寄せた。後ろでひとつに束ねられた手に、なにか紐のようなものが素早く絡げられたのを感じて、ぼくは大声を出した。
「な、なにするんですかっ! 手っ、放して下さいっ!」
「だって放したら、高橋は東のところへ行こうとするだろう?」
 悠然と躯を起こした先輩が、上からぼくの顔をのぞきこむ。
「ずっとここにいたら、高橋だっていつかは俺のことが一番になるかもしれない」
 うっとりと囁かれて、ぼくはもうまじまじと先輩の顔を見上げるしかなかった。
「……こんな……こんなことしたって……意味ない、意味ないです、先輩……」
「意味はあるよ」
 先輩はにこりと笑った。
「少なくとも高橋は東に会いに行けないだろう?」





 どうしよう……。
 なんでこんなことになっちゃったんだろう。
 ぼくがしっかりしていなかったから。だから。
 先輩がどんなに怒っても、たとえ本当にいやらしい写真をバラまかれることになっても、ぼくは先輩の部屋に来ちゃいけなかったんだ。
「ほら。口を開けて。ヨーグルトは嫌い?」
 スプーンを持った先輩が首をかしげる。
「それとも寒過ぎる? 肩になにか掛けてあげようか」
 ぼくは後ろ手に縛られて素っ裸のまま、ベッドの上で先輩に朝ごはんを食べさせられていた。せめてパンツぐらいはかせてほしいって頼んだけれど、「洗濯機、回しちゃったから」と先輩はにべもなかった。
 ……どうしよう。
 先輩のスキをうかがう。
 思い切って……先輩を蹴飛ばして……足だけでどれだけ暴れられるだろう。先輩がひるんだら、キッチンに走って、ナイフで紐を……。
 本当にそんなことが出来るだろうか。
 ドキドキした。
 だけど……やらなきゃ、ぼくはここにこうして監禁されたままになってしまう。思い切るなら、先輩もベッドの上にいる、今がチャンスだ。
「ほら」
 呼吸をはかるぼくをはぐらかすように、先輩がまたスプーンを差し出してくる。
 1、2……。
 ドキドキが最高になったその瞬間、突然、部屋のインターフォンが鳴った。
 ぼくもドキリとしたけど、先輩の肩もびくりと揺れた。キッチン横のインターホンモニターに誰か男の人の姿が映っている。先輩は目を細めてその姿を認めると、小さく舌打ちした。
 ピンポーン、ピンポーン、続けざまにインターホンが鳴らされる。
 先輩はベッドサイドのテーブルにそっとヨーグルトの小鉢を置くと、ぼくの口を手でおおった。
「静かに」
 押し潜めた声で囁かれて、ようやくぼくはこれが千載一遇のチャンスであることに気が付いた。
 先輩の手に思い切り噛み付いた。
「うわっ!」
 たまらず先輩が声を上げたところで、
「たす……っ!」
 ぼくは必死に叫ぼうとした。だけど、態勢を立て直した先輩がすぐさま、ぼくの上から覆いかぶさるようにして、また口を塞ごうとする。
「た……っ」
 その時、今度はインターフォンじゃない、電子音のメロディが流れ出した。先輩の携帯の呼び出し音は、キッチンのテーブルの上から大きく響いた。
「く……」
 先輩の顔がくやしそうに歪んだ。
 ガン!
 ドアを誰かが思い切り蹴りつける音が響いた。
 ガン! ガン! ガン!
 二発、三発と、容赦ない音が響き、続いて、
「宏二!」
 外から河原先輩を呼ぶ怒声が聞こえた。
「開けろ! 宏二! いるだろ! 開けろ!」
 先輩は怒った顔で深く溜息をつくと、しぶしぶと言った感じで立ち上がった。のろのろと玄関へ向かう。その間も、ドアはガンガンドンドン、叩かれ続ける。
「……なんだよ、朝っぱらから」
 先輩が細めに開けたドアは、外から勢いよく大きく開かれた。先輩を押しのけるようにして男が入って来る。
 あ、と思ったけど遅かった。なんとか股間はシーツで隠れていたけど、ぼくは侵入者の前で真っ裸だった。
 でも入って来た人には見覚えがあって、ぼくは瞬間、躯を隠すのも忘れてしまった。
「と…富永先輩……?」
 ぼくが高校一年生の時、生徒会で会長を務めていた富永先輩だった。そういえば、富永先輩は昔から河原先輩と仲がよかったけれど……。
「……なんだよ、鴻臣、突然」
 苦り切った顔で、河原先輩が富永先輩に問いかける。
 こちらも河原先輩に負けず劣らず不機嫌な顔で、富永先輩は河原先輩を振り返った。
「一週間に一度、様子を見に来いと言ったのはおまえだろう」
「冗談に決まってるだろ、あんなの」
「じゃあこれも冗談か」
 富永先輩はまっすぐに、ベッドの上で固まってるぼくを指差した。
 河原先輩は無言で横を向く。
「なにをやってるんだ。みっともない。……おまえもだ」
 前半は河原先輩に、後半はぼくに向かって、富永先輩は言った。その視線が非難を含んで、河原先輩の唇や歯にさんざん痕を残されたぼくの躯に突き刺さる。
「別れ話を持ち掛けた相手の部屋にのこのこ来るな。むざむざやられるな。バカが」
 言われる通りで、返す言葉もぼくにはなかった。
「さっさと服を着ろ」
「あ……手が」
 縛られてると言うと、富永先輩はマズイものでも口にしたような渋面になった。ベッドに片膝ついて乗り上げて来ると、手早く紐をほどいてくれる。
「服はどこだ」
「洗濯機って……」
 おずおず答えると、富永先輩はいっそう険悪な顔になった。
 足音も荒くクローゼットに向かうと、勝手に中から下着やジーンズ、トレーナーを引っ張り出す。河原先輩はそんな富永先輩に負けず劣らず不機嫌な顔で……悪いことをして怒られている時の子どもみたいな、ちょっとスネた感じの顔で、黙って富永先輩のすることを見ている。
 二人の先輩が睨み合う険悪な空気の中で、ぼくは急いで、投げてもらった服を身につけた。
「わかってるな」
 相手に向かって先に口を開いたのは富永先輩のほうだった。
「おまえはまた、自分で腹を壊すようなマネをしてるんだぞ」
 河原先輩は視線をはずして、
「それとはちがう」
 ぼそりと答えた。
「なにがちがう! また肩を外すところまで行くつもりか!」
 富永先輩が河原先輩のやり過ぎを叱っているのはわかったけれど……。腹を壊す? 肩を外す? なんの話かわからない。
 もう一度、富永先輩の視線がぼくに向けられた。
「おまえが八方美人なのが一番悪い。だが、宏二も今までいい顔しかおまえに見せてなかったんだろうから、おまえが甘い見方をしてしまったのも仕方ない部分はある」
「なんだよ、それ」
 河原先輩がブチブチと口を出した。
「いい顔とかなんとか。俺は高橋を騙したりしてない」
「騙してないが、本当のことも見せてないだろう」
 ぱしっと鞭打つ鋭さで富永先輩は河原先輩に切り返した。くいっと親指を立てて、ぼくに向かって河原先輩を示す。
「こいつはなんでも余裕でこなしてるように見えるだろう」
「余裕なんだよ、実際」
 メゲない河原先輩が抗議するのを無視して富永先輩は続けた。
「俺もそうだ。勉学、組織の中での立ち居振る舞い、恋愛、ハタからはそこそこスマートに難なくこなしてるように見えるだろうし、実際に資質や条件に恵まれている部分もある。だが、実のところは俺たちは見た目以上に努力家なだけだ。欲しいものはいつも努力して手に入れて来た」
 富永先輩も河原先輩もぼくから見たら高校の頃から優秀で、再会してからも河原先輩はなんでも余裕でこなしているように見えたけれど。そのためにずっと努力してきたのだと聞かされれば、それはそれですごいなあと思ってしまう。
「努力した成果をきちんと手にすることが出来るのは、それは俺たちの才能だ」
 ……富永先輩の言葉でなければ、なにをエラそうにと反発したにちがいないセリフだった。
「だが、世の中には努力ではどうしようもできないことがある。ふだんが『やれば出来る』で来てるから、こいつはそういう局面に行き当たるとヒスを起こす」
「ヒスなんか起こしてない」
 いまいましそうに河原先輩が吐き捨てた。富永先輩は無視して続けた。
「小学6年の時、こいつはクラスで一番チビだった」
 思わず河原先輩に目が行った。
「運動会で応援団の団長に立候補したが、身長を理由に降ろされた。そしたら、こいつは何をしたと思う? 身長を伸ばそうと牛乳をガブ飲みして腹を下した揚げ句、鉄棒に何時間もぶら下がって、肩を脱臼したんだ。せっかくの運動会の組体操は見学になった。おまえ、」
 富永先輩は責めるように河原先輩を見た。
「また同じことをやろうとしてるんだぞ。これがヒステリーじゃなくてなんだ」
「…………」
 むっつりと黙り込んだ河原先輩から、富永先輩はぼくへと視線を移した。
「だいたいのことは宏二から聞いてる。おまえは同級生だとかいう、前の相手が今でも好きなんだろう。別れ話をしたくせに、ここにいるのはなぜだ」
 すぐに答えられずにいると、富永先輩は苛立ったように足を踏み変えた。
「質問を変える。宏二はなにを言っておまえをここに連れて来た」
「……その……携帯とパソコンに、写真が……」
 富永先輩は河原先輩を凄い目でにらみつけた。
「……おまえがここまで恥ずかしいマネをするとは思わなかった」
「……パソコンは嘘だよ。携帯で撮っただけで」
「そういう話じゃない! 情けないと思わないのか。脅して言うこときかせようなんて最低だぞ」
 と、それまで視線を横に流して富永先輩に押されていた感じの河原先輩が、上目遣いに富永先輩を見返した。
「……相手の職場を密室状態にしてムリムリ襲っちゃうのは最低じゃないのか」
「……なに」
 富永先輩の声も、また新たに怒気をはらむ。
「高橋」
 河原先輩と睨み合ったまま、富永先輩はぼくを呼んだ。
「おまえはもう行け。あとは俺と宏二で話をする」
「…………」
「行け。……好きな相手がいるんだろう?」
 富永先輩の声が柔らかさを帯びた。ちらりとぼくを見る目も、心なしか優しい。
「好きな相手のところに行け。宏二だって、本当はもうおまえを諦めてる」
「え」
 思わず河原先輩を見たけれど、視線が合うより早く、
「行け」
 繰り返された。
 確かに、ぼくがこれ以上ここにいて、言えることはなにもなかった。
「あ、ありがとうございます!」
 ぼくは富永先輩に頭を下げた。ばたばたと自分のジャケットとカバンを引っつかむ。だけど、玄関の前で、ぼくはぴたりと足を止めた。
 最後に、どうしても一言、言わなきゃいけないと思った。
「せ、先輩」
 河原先輩を見上げた。
「ごめんなさい!」
 今度は河原先輩にぺこりと頭を下げて、ぼくは外へと飛び出した。






                                                       つづく

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