ぼくたちの真実の証明<11>
 






 この時間なら、まだ東は家にいるかもしれない!
 日を改めて出直そうとか、一度ゆっくり落ち着いてからにしようとか、そんな考えはなぜだかチラリとも湧かなかった。もしかしたら東は家にいないかもしれない、その可能性にすら思い及ばなかった。
 東に会いたい。
 東と話したい。
 自分の中のその思いに突き動かされるように、ぼくは東の元へと走った。





 ドアを開けてくれた東は、息を切らしているぼくに目を丸くした。
「なんだよ、突然」
「話があるって、」
 肩で息をしながら、なんとか続ける。
「前に言ったろ」
 東はかすかに眉をひそませてぼくを見ると、無言でドアをもう少しだけ開いてくれた。ぼくは一歩だけ玄関の中に入り、東と向き合った。
 ――ここに入るなり、抱き締められたことが何度もあった。『来るの、おせーよ』、最初から激しいキスの合間に文句を言われた。
 あの頃のぼくたちがどれほど幸せだったのか、今になってよくわかる。好き合っていた。互いが互いを求めるのに、なんのためらいも戸惑いもなかった。求めれば求めるだけ、近くにいることができて、腕の中いっぱいに抱き合うことができた。好きだなんて言葉を改めて告げなくても、ぼくには東しかいなかったし、東にもぼくしかいなくて、それをお互いにわかってた。……幸せだった。
 もうぼくたちは、そこから遠く遠くへ来てしまった気がするけれど……。
「大嫌いって言ったけど嘘だから」
 息を整えて、ぼくは一気に言った。
「君のことが大嫌いだって言ったのは、嘘だ。ぼくは君が好きだ。東が好きだ。大好きだ」
 まじまじとぼくを見つめてくる東に向かって、ぼくは続けた。
「こんな、ぐしゃぐしゃになってから気がつくなんて、バカだけど……ぼくはずっと東が好きだ」
「……ってさあ」
 意気込んでたつもりはないけど、それでもずいぶんな勢いで告げたぼくに、東は疲れたような溜息をつきながら、ぼくを指差した。
「よくそんだけ、べったべたに他の男の痕つけて来て言えるよな。おまえ、バカ? そんないかにも他の男に可愛がられて来ましたって証拠つけてても、好きだって言えば俺が喜ぶと思ったの?」
 ぼくは慌てて自分の躯を見下ろした。首筋は見えないけれど……耳の下や首の付け根に先輩がキスを繰り返していた覚えはぼんやりある。その上に、富永先輩が投げてくれた河原先輩の服はぼくには少し大きくて、ゆるいトレーナーの襟首からは鎖骨下の赤紫色の吸い痕がはっきりと見えた。
「あ……ごめん」
 いまさらだった。カッと顔が焼け付く。河原先輩にあれだけ抱かれた後に、それでも東に好きだと告げる資格があると思った、自分の甘さとみっともなさを指摘されて恥ずかしさが込み上げる。
「ごめん! その……先輩に別れたいって言ったら、先輩が怒って、それで、ゆうべ、帰れなくなって……」
 ああ。みっともない。なにを言ってるんだろう。
「ごめん、ホントにごめん。あの……いまさらこんなこと言えた義理じゃないんだけど……ようやく、自分が誰を好きなのか気がつけたから……だから、どうしても東にそれを言っておきたくて……」
 顔がどんどん熱くなる。
 バカなことをしに来たといまさらながら自分の愚かさに気づく。
「……河原と、別れるのか?」
 俯いてしまったぼくに、東が妙に抑揚のない声で聞いてくる。
「え? あ、うん。先輩は怒ったけど……富永先輩が来てくれて……先輩はまだ『さようなら』って言ってくれないけど、ぼくはもう、先輩とは付き合わない」
「で? 俺ともう一度、付き合いたいと思ってるとか?」
 もう十分、顔も耳も熱くなってたと思うけど、東の質問に今度は全身が熱くなった。一度に汗が噴き出す。感情のこもらない淡々とした東の声に、自分のずうずうしさを指摘された思いだった。
「あ……その、東がイヤならいいんだけど……じゃなくて! も、もう一度とか、そんなおこがましいことじゃなくて……!」
 なにを言ってるんだろうと思う。焦りまくって、自分がなにを言いたくてここに来たのかすら、忘れそうになる。
「えっと……つ、付き合えるかどうかなんて、そ、それは、それこそずうずうしいわけで……」
「おまえは俺のことが嫌いになったから、河原と寝たんじゃねーの?」
「そ、それはちがう!」
 その誤解だけはそのままにしておけなかった。ぼくは伏せていた顔を上げると、東に詰め寄らんばかりの勢いで続けた。
「あ、東、前にもぼくが東のこと気持ち悪くなったんだろうって言ったけど……そ、それちがう! ぼくは東のこと、き、気持ち悪くなったり嫌いになったりしたことなんて、一度もない! マスターとのことは……今まで東に彼女が何人もいたのは知ってたけど……そういう形で付き合ってた男の人がいたのは知らなかったし、びっくりした。だけど、ぼくがイヤだったのは、東がマスターと付き合ってたことじゃなくて、それを東がぼくに隠してたことだよ! 東、マスターといる時、自分がどんなに楽しそうな顔してるか、知ってる? くつろいで、楽しそうで……それで昔にそんなことがあったなんて突然知らされて、ショックだったんだ! ぼくだけ、はじっこに置かれてるみたいで、すごくイヤだったんだ!」
 そこまでしゃべって、ぼくはひとつ大きく深呼吸した。
「河原先輩と寝たのは、東に裏切られたような気がして、寂しくて悲しくてどうしようもなかったからだ。そんなの、言い訳にならないのはわかってる。先輩といるとなんか……気が付くと笑わされてて、うまく考えられないうちに、ぼくは流されてしまってる。それは情けないことだと思うけど……楽なことでもあって……だからぼくは先輩と付き合った」
 どうしようもないと言わんばかりに東に溜息をつかれた。ひるみそうになったけれど、ぼくは思い切って続けた。
「でも、ぼくは本当に一度も……東のことを気持ち悪く思ったことなんてないよ! 嫌いになったこともない! 本当は……」
 河原先輩の言葉が甦る。『ただちょっとお互いのことが好きすぎて、だからつらくなってるだけ』――先輩はきっと全部、最初からわかってた……。
「本当は、ずっと東が好きだった。東のことが好きすぎて……だから、つらかったんだ。……だから、先輩に逃げたんだ」
 言い終えて、ぼくは目を伏せた。
 今度こそ、きちんと言えたと思う。
 自分の気持ちも、こうなってしまった理由も。
 そして改めて、胸の中で先輩に謝る。ごめんなさい。勝手でした。楽になる部分だけ与えてもらって、ぼくは逃げてました。ごめんなさい――
 東はしばらく無言だった。
 でもぼくは洗いざらい東に話して、もう次に東がなにを言っても、笑って受け入れられるような気がしていたから、その沈黙が怖くはなかった。
「……そんなこと、言ったってさ」
 ようやく東が口を開いたとき、その声は妙に低く、喉にからんで聞こえた。
「おまえ、ヨがったんだろ? 河原に掘られて、うれしかったんだろ?」
 ぼくは頭を垂れたまま、糾弾の言葉を聞いていた。もうそれは、どう言い訳もしようのないことで。
「だいたい、なんだよ。セックスの痕、べたべたにつけまくって。タートル着てくるとか、ファンデーションで隠そうとか、そういう智恵もないのかよ? 俺をバカにしてんのか、おまえが単なるバカなのか、どっちだよ?」
 ぼくは笑顔になって顔を上げた。
「ぼくが、バカなんだよ。東をバカになんかしてない。ただ……ただ、どうしても、君が好きだって、ちゃんと伝えたかったんだ」
 そこまで言ったら声が震えそうになって、ぼくはまた慌てて下を向いた。やだな。もう笑っていられると思ったのに。
 東の深い溜息が頭の上を過ぎる。
「バカに言ってもわかんないかもしんないけど。おまえの顔なんか、もう見たくないって俺の気持ち、少しはわかる?」
 一筋、鋭い痛みが胸を走っていく。息も一瞬止まりそうな、鋭い痛み。
 その鋭い痛みが全身に今度はゆっくり回っていくのを感じながら、ぼくは深くうなずいた。
「……うん。わかる」
 なんとか声を出す。
「ごめんね。もう帰るから。ほんとに、ごめん」
 一生懸命がんばったけれど、言葉の後半はもう隠しようもなく震えてしまった。それでもなんとか、みっともない泣き声だけはあげないように、ぼくは急いで踵を返した。
 もう、これで、本当の終わり。
 ドアのノブに手を掛けた。外に向かって押し開こうとした、その時。
 いきなり後ろから、ぼくは抱き締められていた。思い切りの力での、痛いほどの抱擁。
「あ!」
 なにが起こったのか、瞬間、わからなかったぼくの顔を、後ろから回った手が鷲掴むような勢いで横向かせる。
 口づけられた。
 正直に言うと、噛み付かれるのかと思ったほどの激しさで。
 東は唇でぼくの口を覆い、むちゃくちゃに吸い上げた。合間に本当にぼくの下唇を噛み、何度も重ね合わせを変え、唇も、歯も、口蓋も、嘗め尽くした。
 激しいキスに、くたりと膝の力が抜けかけた頃、東はようやく唇を離してくれた。それでもまだ、お互いの乱れた息がお互いの口腔に吹き込むような近さで、ぼくたちは目を合わせた。
「……おまえさ、」
 ぼくを抱き締めた腕はゆるめようとしないまま、東はささやいた。
「じゃあなんで、俺がおまえの顔見たくないか、わかるか……?」
 潤んだ視界の中、切なげに熱っぽい東の瞳がある。こぼれかけてる涙のせいで、見誤っているんでなければ、ぼくはその熱っぽい瞳の意味を知っている……。
「なんで、ほかの男と付き合って、抱かれた痕をつけてるおまえを見たくないか、わかるか?」
 見誤っているんでなければ。
 耳が、東の言葉を自分に都合のいいように聞き違えてるんでなければ。
「おまえが、好きなんだよ……!」
 見誤ってない。
 聞き違えてもいない。
 東の叫ぶような声が耳に届いた刹那、ぼくは力いっぱい、東を抱き返していた。





 思い切り抱き締め合った。
 互いの腕の中に互いの躯があって、ぼくたちはもう、このままひとつに溶け合って固まってしまいたいほどの勢いで、堅く堅く抱き合った。
 肩と頬に擦り付けあった顔を離すのがいやで、唇で互いの唇を探って、キスした。
 どれほど唇を重ねても、舌を絡めても、まだ足りない気がして、何度も何度も、しつこくしつこく、キスを繰り返した。顎からどちらのものとも知れない唾液が垂れても、ぼくたちはキスをやめなかった。
 確かめても確かめても、さらに深く触れたくなる。
 東だ、東だ――
 ぼくが初めて好きになった人。
「秀……」
 懐かしいささやき声に名前を呼ばれて、それだけで背中に電気が走った。
 この声、この唇、この舌、この肌……戻って来れた。ようやく。
「東……」
 だけど。ぼくがやっぱり感極まって東の名前を呼んだ、その声をさえぎるように、突然、ぼくの携帯が鳴り出した。
 ぼくの足元に放り出されたカバンの中から、それは場の空気を切り裂くような鋭い音で響いてくる。
「……ごめん」
 東に断って、ぼくはカバンの中から携帯を取り出した。表示されている発信者の名前に凍りつく。
「…………」
 無言でぼくの手元をのぞきこんだ東が、すっと眉間に皺を寄せた。
 河原先輩の携帯からの着信。
 どうしよう……。
 対応を決めかねているうちに、苛立ったようにメロディは突然ブツリと切れ、またすぐに早く出ろと言わんばかりに鳴り出した。
「……出てみれば」
 不機嫌な顔のまま東にせっつかれて、ぼくはこわごわフリップを開いた。
「……はい」
『高橋か。富永だ』
「え、富永先輩!?」
 なんで河原先輩の携帯から? 状況が把握しきれない。東もぼくの携帯に耳を寄せてくる。
『おまえが出て行った後、宏二と話してたんだが……わかったようなことを言うから、もう大丈夫だと思って目を離したすきに逃げられた。あのバカ、携帯も持たずに飛び出したんだ。すまん』
 苦々しげな富永先輩の声を聞いて状況は理解できたけれど……。
『おまえに電話したのは、話してる最中に宏二が言ったことと、部屋にあるメモ帳の一番上にある住所が気になったからだ。高橋、この住所に覚えがあるか?』
 そう言って富永先輩が読み上げた住所には、確かに覚えがあった。
「それ……」
 胸の鼓動が早くなる。
「東の家の住所です……」
 隣で聞いてる東の表情も険しくなった。
 携帯の向こうからも重い溜息が聞こえてくる。
『やっぱりそうか……。おまえが出て行った後、気持ちの離れた相手にみっともなく執着する愚かさを宏二に説明した。その時、宏二が“どうせダメなら、ラストはドラマティックなほうがいい”なんて言い出すから、バカなことを言うなと叱ったんだが……』
「ドラマティックってなんですか!」
 思わず大きな声が出ていた。
「なんで、河原先輩、東の住所なんか……」
 もう一度、深い溜息が携帯を通して聞こえてきた。
『その後もいろいろ話して、自分の中ではもうケリはついてるみたいなことも宏二は言ってたから……まさか携帯も持たずに飛び出すとは思わなかった。……高橋、おまえ、今、東のところか』
 尋ねられて、正直に『はい』と答えた。
『まさかとは思うが、宏二がなにを考えているか、俺にもわからん。東と一緒にいるなら、十分、気をつけてくれ』
 通話を終えたぼくの顔を東が険しい顔でのぞきこんでくる。
 ぼくはゆうべからあったことをかいつまんで東に話した。別れ話から河原先輩にエッチな画像をネタに脅されたこと、部屋で監禁されそうになったこと、そこに富永先輩が来てくれたこと。
「で、ぼくはここに来ることができたんだけど……河原先輩、富永先輩と話してる間に飛び出しちゃったんだって……。ここの住所が河原先輩の部屋にあったから、富永先輩が心配して連絡くれたんだ。河原先輩、ラストはドラマティックなほうがいいとか言ってたって……」
「それはそうだろう?」
 突然、背後からドアの開く音とともに会話に割り込んできた声。ぎくりとして振り向けば、壁にもたれるようにして河原先輩が立っていた。





 河原先輩はにこりと笑った。
「ここまで来て、お互い笑ってきれいに別れられるとは高橋も思ってないよね?」
「……うるせー」
 ぼくをかばうように、東がたたきに降りてきた。
「てめえはフラレてんだろ。きれいもクソもねーよ。引っ込めよ」
 先輩は目だけは笑わない笑顔のまま、東に視線を移した。
「へえ……その様子じゃヨリを戻すことにしたんだ? もしかして、鍵もかけずに感動のキスシーンの最中だったとか? 邪魔して悪かったけれど無用心だよ」
「うるせーっつってんだろ。出てけ」
「まだ玄関の中には入ってないけど?」
 横顔だけでも東の怒りのボルテージが一気に上がったのがわかった。
「屁理屈こねてんじゃねーよ! 出てけよ!」
 先輩を押しやってドアを閉めようとした東の動きに、先輩はドアの端に脚を置くことで対抗する。
「短気だな、ほんとに。そう邪険にするもんじゃないよ。高橋はおまえのところに戻って来たんだろう?」
「うるさい! だいたいおまえが出て来なけりゃ、こんなことにはなってなかったんだよ!」
 そう東が怒鳴った時。先輩はとても静かな顔になった。からかうような色もない、すべてをあきらめたような……。
「……そうだね、俺がいなきゃ、よかったのかもしれないね」
 表情と同じく、先輩の声もまた、不気味なほどの諦念をはらんでしんみりと聞こえた。いっそ、怖いほどの静かさで。
 先輩の黒い瞳が、やっぱり妙に澄んだ輝きで東の肩越しにぼくに向けられた。
「高橋は、本当に東がいいの? コイツ、やっぱりガキだし短気だよ?」
 ぼくは無意識に東のシャツをぎゅっと握り締めていた。怖い……怖い。先輩に別れないと脅された時より、今朝、手の自由を奪われてしまった時より。
「ねえ。本当に高橋は東でなけりゃ、だめなの?」
 怖かった。震えが来るほど。
 でも、ぼくにはもう、嘘はつけなかった。
「……ダメ、です。ぼくは、東でなきゃ……ダメです……」
「そうか……」
 先輩は寂しそうに目を伏せた。
「じゃあ本当に、俺がいないほうがよかったんだな……」
「そ、そんな……! い、いないほうがなんて……」
「いいよ。もうよくわかったから。邪魔して悪かったな。……もう二度とおまえたちをわずらわせることはないと思う。……会うことも」
 先輩の静かな声が不気味に響く。『もう二度と』『会うことも』。
「先輩……」
 なにか言わなきゃなにか! あせって呼びかけようとしたぼくに向かい、先輩はふっと笑顔を見せた。
「さようなら。高橋」





 ドアがゆっくりと軽い金属音を立てて閉まるまで、ぼくと東は微動だにできなかった。
 カチャ……
 その音が合図だったように、東がぼくを振り返った。
「ちょー……」
 その眼には多分ぼくと同じ不安があったと思う。
「やばくね?」
 ぼくが無言でうなずいた次の瞬間、ぼくと東は同時にドアへと手を伸ばしていた。

 
  
   
    
 もつれるようにドアの外に二人して飛び出した。
 競うようにエレベーターの閉じかけた扉に突進する。だけど、走るぼくたちの前で、扉は無情にも閉じ切ってしまった。
「階段!」
 叫んで、ぼくは横手にある階段へ駆け出そうとしたけれど、東にぐっと腕を掴まれた。
 東はエレベーター上部にある昇降表示をにらみつけていた。
「上に向かってる……」
 呟きを聞いて、一刻の猶予もないことを悟る。
 ぼくと東は数階上にある屋上を目指して、階段を二段飛ばしで駆け上がった。


 


                                                    つづく

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