ぼくたちの真実の証明<3>
 





 車内の狭い空間に、まだ乱れの残る呼吸の音が二人分と、情交の濃い残り香が満ちている。……汗や体液の匂い。
 空気の中にはそれ以外にも、最前までぼくが放っていた淫らな喘ぎや叫びの残響まで漂っているようで……レザーシートの上にたまった汗が冷えていく感触を気持ち悪く思いながら、ぼくは深く目を閉じた。
 ――犯された。
 ちがう。ぼくは先輩と以前にも性交渉を持ったことがあって。今日だって、先輩はきちんと事前に言葉で同意を求めてくれていたし、確かに意外な展開ではあったけれど、ぼくは先輩とセックスすること自体を拒んではいなかった。先輩は加害者じゃなくて、ぼくも被害者じゃなかった。
 だけど……。
 「犯された」。この言葉が適切じゃなかったら、じゃあどう言えばいいんだろう。――「暴かれた」? 「侵食された」? 「踏み込まれた」?
 どう言えばいいのかわからない。
 ただ、先輩は……。
 『蕩けてごらん、最後まで』
 最中の先輩の言葉の通り、ぼくをどろどろに蕩けさせた。
 今までの行為とは全然ちがった。今までの先輩のセックスが外側からぼくを優しくくるみこんでくれていたものだとしたら、今日のそれはその反対だった。
 先輩はぼくの内側を容赦なく暴き立てた。ぼくの中深くに食い込んで、ぼくを翻弄し、今までぼくが先輩に見せたことのなかったところまで曝け出させた。
 肌が粟立つような、躯の奥底から燃えるような、快感で。
 ぼくが……今まで東にしか見せたことのなかった顔を。東にしか聞かせていなかった声を。
 先輩は引きずりだした。
 きつすぎる快感に耐えかねてぼくがしがみついたのは、東の腕ではなく先輩の腕。ぼくの爪が痕を残したのは東の肌ではなく、先輩の肌。
 そして、こうして……荒い息が静まるまで、肌の火照りがさめるまで、躯の奥の余韻が引くまで、抱き締めてくれているのも、先輩の腕。
 初めて東を裏切った朝よりも、東と別れたその日よりも、東が遠くなったように思えた。
 すっとまた一筋、目から熱いものが流れ落ちる。
「上も下もぐちょぐちょだね」
 ぼくの涙に気づいた先輩が、目尻に溜まった涙を吸って行く。
 ぼくは目を開く。
 間近にある先輩の顔からはさっきまでの狂おしいような表情は消えていたけれど、黒々とした瞳にはやっぱりなにか危ういほどの光があった。
 額に、少し乱れた前髪が垂れかかってる。
「……ふうん」
 先輩の口元が少しだけ意地の悪そうな笑いを刻んだ。
「さっきはすごくイイ顔だったのに。もう後悔してるんだ」
 ぼくはかすかに首を横に振る。
「後悔……なんかじゃ……」
「……どうしようね?」
 先輩の指が優しく……本当に優しくぼくの顔のラインをたどる。
「泣かして……ぐちゃぐちゃにして……高橋、あんなイイ顔で、イイ声だったのに、もう他の男のことなんか思い出してる。別れた男に、申し訳ないような気になってる」
 図星をさされて、何も言えないぼくの唇を先輩の指が撫ぜていく。
「どうしよう? ……後悔なんかする間もないほど、もっともっといやらしいことしようか。昔の男のことなんか思い出せなくなるまで、もっともっと恥ずかしいことしようか」
 先輩の指が不穏な思惑をはらんで、あごから首筋を滑り降りて行く。
「やっ……やだ、先輩、もう……!」
 ぼくが慌ててその指を握り締めると、
「そんな怯えた顔しない」
 先輩は苦笑気味にぼくの額にキスを落とした。
「無理強いはしないよ。……でも、本当にどうしようね?」
 先輩の瞳がきゅっと細められた。間近から、真剣な視線がぼくを射る。
「高橋を俺だけのものにしたい。高橋には俺だけを見ててほしい」
 一呼吸のあとだった。
「俺は高橋が好きだよ」
 正面からの告白。そして、
「おまえが好きだ」
 口づけ。そして……
「俺と、つきあえ。高橋」





 かたまった空気の中で、ぼくは先輩と見つめ合った。
 行為の直後。
 ぼくの吐き出した白いモノが先輩とぼくのおなかの間で粘ついた音を立て、二人とも下半身は剥き出しのまま、後始末もできてない。
 色濃く行為の残滓が残る中の、告白と交際の申し込み。
 いや、申し込みじゃなくて命令だっけ?
「……つきあえって、それは命令ですか……?」
 ぼくはなんとか口を開いた。
 先輩はにこりと笑った。
「うん? 命令じゃないよ。申し込み。でも、高橋がイエスって言うまで俺はここからどかない」
 ぼくの上にゆったりと乗っかったまま、先輩は言う。笑いたいのか泣きたいのか、わからない。
「先輩……それって申し込みどころか脅迫じゃないですか……」
 なんとかツッコミ半分の言葉を返したら、先輩の瞳が、それこそ泣きたくなるほど優しく、あまく、ぼくを見つめた。
「……脅迫でも泣き落としでも、かけたいところだよ。ホントにね」
 上からふわりと包み込むように抱き締められた。
「……東のことを、まだ忘れられないのは知ってる」
 先輩の口に東の名をささやかれて、びくりと身が震えた。
「それでもいいから。そのままでもいいから」
 熱い頬が頬に擦り付けられてくる。
「ゆっくり、時間がかかってもいいから。高橋に俺のことを見てほしい」
 先輩の口調にはいつもの余裕もふざけた様子もまったくなくて。真摯な言葉が耳から胸へと染み入ってくる……。
「好きだ」
 きゅっと胸が痛くなった。
 先輩が顔を上げて、唇に小さくキスが落とされる。
「今、同じ言葉を返してもらえないのはわかってる。だけど、それでも、つきあうことはできるだろう? そばにいることはできるだろう?」
 ぼくはおそるおそる手を動かした。指先が細かく震えたけれど、なんとか先輩の顔に届かせる。いやらしいキスをする唇に触れる。時々イタズラっ子のように輝く黒い瞳のまわりに触れる。東じゃない、先輩の顔に触れる。
「……先輩は……今までずっと、優しくて、いい先輩の顔してて……でも、本当はこんな強引で、すごいエロで……」
「そうだよ」
 先輩の顔に触れるぼくの手に、先輩の手が重ねられる。
「俺は強引でエロいよ」
 掌に先輩の唇が押し付けられる。それに俺は……と先輩の唇が掌で動く。
「こんな、抜き差しならないところまで高橋を追い詰めて、交際を迫るほど、高橋が好きだよ」
 ぼくはもう一度深く目を閉じた。
 東……東……君が遠い。山あいに停めた車の中、先輩に抱かれてぐちゃぐちゃなぼくは君にどんな顔で会えばいい?
 ――会うもなにも。ぼくと君はもうとっくに別れてて……ぼくたちはもう恋人でもなんでもなくて……。
「高橋」
 先輩の柔らかな響きの声がぼくを呼ぶ。
「返事は?」
 ほかの言葉は口にしちゃいけないような気がした。
 ぼくはささやいた。小さく、ゆっくり。
 イエス、と。
 
 
 
 
 
 家に着いた時には日はもうすっかり暮れていた。
 車を降りようとしたら、肩をつかまれてディープなキスをされた。
「やっぱりこのまま俺の部屋に連れて行きたい」
 そんなふうに囁かれる。
「あ……明日は1時限目から講義があるから……」
 名残惜しそうに先輩の手が離れていく。
「じゃあ、また。連絡する」
「はい」
 おやすみなさい、と呟いてぼくは車を降りた。
 遠くなるテールライトを見送り、疲れなのかなんなのか、重い足で家へと入る。
「おかえりなさい。夕飯できてるわよー」
 母の声に、うん、と生返事した。
「あー…今日、ちょっと汗かいたんだ。先にシャワー浴びてくるよ」
「いいけど、湯冷めしちゃわない?」
 キッチンから顔を出した母に、大丈夫だよと笑ってみせる。
 ティッシュで拭いただけの躯で、とてもじゃないけど食卓につける気分じゃなかった。
 着替えを用意して、そそくさとバスルームに入る。シャワーコックを一杯にひねり、痛いほどの水流で熱いお湯を浴びた。
 『い、いきたいっ……も、もう、いかせて……っ!』
 『あ、アアアッ! だ、だめ! ヘ、ヘンになるからっ…アッあんっ…!!』
 『もう……ハ、あ…ッ、やだっ…あ、き、気持ちいい……っ』
 お湯が流れ落ちる自分の肌を見ていると、いやでも数時間前に自分がさらした痴態の数々が思い出される。先輩の躯の下でぼくはのたうち、いやらしい声を上げ……最後には自分から腰を振っていた。
「サイアク……」
 壁に頭を押し付けた。
 でも、本当に、もっともっとサイアクなのは……。
 ぼくが、こんな時に、そう、先輩の腕の中で淫らに抱かれ、その上、先輩との交際まで決めた、こんな時に……無性に東の顔が見たくなっている、そのことだった。
 会いたいとは言えない。こんなことになって……どんな顔をして会えばいいのかわからない。
 でも、ちらりとでもいい、物陰からでいい、東の顔が見たかった。
 もう3週間、東の顔を見ていない。
 顔だけ見れば、納得できるような気がした。東とぼくが本当にもう別れたのだということも、先輩とこうなったことも。きっと全部、納得できる……。
 そうだ。今日のことも全部、東の顔を見たら……。
 こじつけられる理由が見つかったとたん、ぼくはお湯を止めていた。
 大急ぎで躯を拭き、服を着る。
 髪が濡れていたけれどかまわなかった。
「ちょっと出かけてくる!」
 玄関から大声で母に向かって叫び、ぼくは家を飛び出した。





 勢い込んで飛び出したけれど。
 東の家の最寄り駅からマンションへと近づくにつれて、ぼくの足の運びは鈍くなった。
 勝手なことをしている。
 痛い自覚が胸を刺す。
 今日のことは東には本当にはもうなんの関係もない。東とぼくはもうとっくの昔に別れていて、ぼくがどれほど先輩の腕の中でヨガろうが、イこうが、東にはそんなこと、もう全然関係なくて。
 東の顔を見たら納得できる、なんて。ぼく一人の勝手な理由で。
 ぼくの足はどんどん遅くなった。
 だいたい、「見るだけ」って言ったって。どうやって「会わず」に「見る」つもりなんだ?
 自問して、ぼくの足は完全に止まってしまった。
 今日の今日、東と顔を合わせる勇気があるのか? そこまでのマネがぼくにできるのか? 東になにか聞かれたら、どうする? 先輩とつきあうことになったから、その報告に来ましたとでも言うつもりか?
 会えない。
 マンションに行って、インターフォンを鳴らすことはできない。
 どうしよう。
 ぐっと唇を噛んだ、その時だ。
「高橋君?」
 背後からかけられた声に、ぼくは飛び上がるほど驚いた。





「ああ、やっぱり高橋君だ」
 東のおとうさんだった。
 休日だというのに会社帰りだろうか。東のおとうさんはきちんとスーツを着てビジネスバッグを持っていた。
「ど、どうも……こ、こんばんは」
「久しぶりだね。洋平も喜ぶよ、さあ……」
 促されて、ぼくは慌てた。
「い、いえ! 今日は、その、たまたま近くまで来ただけで……」
「……そうですか」
 気のせいだろうか。おとうさんの声が心なしか沈んで聞こえた。
「……ああ、でも、もし高橋君が洋平を訪ねてくれたのだとしても、無駄足になるところだったようですね……」
「え?」
 顔を上げると、東のおとうさんがもうついそこのマンションを指差した。
「やっぱりまだ洋平も帰っていないようだ」
 本当だった。見上げた東の家の窓は、真っ暗なまま、人の気配もない。
 深い溜息がおとうさんの口から漏れた。
「……そうだ、高橋君。夕飯は?」
「あ、すませました」
 とっさにぼくは嘘をついた。正直、食欲なんか全然なかった。
「じゃあ、お茶でもどうですか。少し、つきあってもらえませんか」
「え……」
 戸惑うぼくに、東のおとうさんはマンションの向かいにあるファミレスを指差した。
「家では都合が悪ければ、そこででも」
 少し話したいんですがと、重ねて言われて断れなかった。
 ぼくは東のおとうさんと道を渡った。





 ファミレスの明るい照明の中で向かい合ってみると、東のおとうさんに、今までは見られなかった深い疲れのようなものが見えた。
「すまないね、急に誘って……」
「いえ……」
 コーヒーが運ばれて来るまでの短い間に、ぼくは気になっていたことを切り出した。
「東……洋平君、最近はいつもこの時間まで出かけてるんですか」
「……お恥ずかしい話ですが……この時間どころか、今日、洋平が一度でも家に寄ったかどうか……」
 おとうさんは苦笑いして首を振った。
「高校時代もずいぶんと夜遊びは派手でしたが……朝までには家に帰ってたもんですが、ここのところは……どうでしょう。何日かに一度は帰ってきているようですが……」
 ぼくは言葉もなく疲れた表情の東のおとうさんを見つめた。
「……こういう時、母親でもいれば、あれもいろいろ話せるのかもしれませんが……父親というのは結局は叱り付けるしかできないから……」
 殴ってしまったんですよと、おとうさんは呟いた。
「十日ほど前ですか。洋平の様子がどうもおかしいのは気が付いてましたが、いきなり大学を辞めると言われて、かっとして……」
「え。学校辞めるって、東が……!?」
「……やっぱり高橋君も知らなかったですか」
 またひとつ、深い溜息がお父さんの口から漏れた。
「まだ入って一年にもならない、辞めたいなら理由を言ってみろと……おまえの代わりに受験に失敗した一人は涙を飲んでるんだ、その一人に胸を張れる理由ならともかく、人に言えないような理由で辞めるのは許さないと……そうしたら、あんたには関係ないだろなんて生意気を言うもんだから……つい手が出てしまった」
「…………」
 重い沈黙の中、またひとつ、溜息が落ちる。
「……あの子は、」
 噛み締めるように低くゆっくり、東のおとうさんが話し出した。
「ああ見えて、本当は優しい子なんです。わたしが熱なんか出して、仕事を休まなければならないような時は……ふだんはいろいろ悪さをしてるようですが……学校からも飛んで帰って来て、こまめに看病してくれるんですよ。おかゆを作ったり、薬を用意してくれたり……」
 知ってる、と思った。ぼく自身、傷ついた時にいたわってもらって……ぼくは東の優しいのを知ってる。
「……なのに、」
 おとうさんの口調に苦いものが交ざる。
「あの子が熱を出しても、わたしは仕事を休めなかった。わたしはあの子を看病してやれなかったんです」
 うつむいた東のおとうさんの声がかすかに震えた。
「あまえたい盛りに母親を失くして……祖父母のところに預けようかとも思ったんですが、わたし自身は妻との想い出のつまったあの部屋を出ることはできなかった。そうしたら、あの子は……ぼくはおとうさんといる、と……。わたしは、あの子になにもしてやれなくて、あの子に助けられるばっかりで……」
「…………」
「……あの子はずいぶんと高橋君にべったりだったでしょう……」
 なにも言えなくて、ぼくは無言で首を横に振った。東がぼくにべったりだっただけじゃない、ぼくだって東にべったりだった。
「あの子は……上手に人にあまえるということが……できないのかもしれません。あなたにも……べったり束縛しすぎて、ずいぶんとご迷惑をおかけしたでしょう」
「そんなことないです!」
 思わず大声が出た。
「ぼ、ぼくも東には甘えっぱなしでした! ぼく、ぼくのほうが……!」
 東のおとうさんは疲れた笑みを見せた。
「……なら、いいですが……洋平がうまく人との距離を取れなくて、これと思った人に寄りかかり過ぎるなら、それはわたしのせいですから……許してやってほしいんです……」
 ちがう!
 否定したいのに、できなかった。
 東のおとうさんは急にぼくが東の家にも寄り付かなくなったのを、東のせいのように誤解している。それがわかったけれど、だからと言って、本当の理由を口にするわけにはいかなかった。
「また、遊びに来てやって下さい」
 別れ際、丁寧に頭を下げられて……。
 ぼくは、はいともいいえとも言えぬまま、やっぱり深く頭を下げた。
 
 
 
 
 
 東、東……。
 どこで、どうしてる?
 家にもろくに帰ってないって……。
 東……。
 その晩一晩、ぼくは携帯を開いては閉じてを繰り返した。





 重い気分で登校した次の日。
 そろそろ教授が現れるかという頃。
 ざわりと教室がざわめいた。
 え、と後ろの入り口を振り向いたら。
 一瞬、わからなかった。
 レザーのベスト、スキニーにブーツというファッションのタイプは変わらなかったけれど……削げた頬、鋭角的になった顎、なにより、ショートのモヒカンスタイルにカットされ、ほとんど真っ白まで脱色された髪がその印象を全然ちがったものにしている。
「東……」
 思わず漏らした声に、東が鋭くこちらを見た。
 冷たく、温度のない視線。
「チ!」
 鋭い舌打ちの音が届く。
 いやそうに横にそらされた視線に、全身の血が凍る思いがした。
 
 
 


 
                                                       つづく



Next
Novels Top
Home