ぼくたちの真実の証明<4>
 





 全身で拒否されている……。
 そう感じたけれど。
 その講義の間中、ぼくは講義室の一番後ろの席にいる東のことが気になって仕方なかった。
 冷たい視線。苛立った舌打ち。険しい表情。
 東がぼくに対して放つ拒絶のオーラが、痛い。
 だけど……顔が見たかった。声が聞きたかった。
 東と付き合いだしてから別れるまで、こんなに長く東に会わなかったことはなかった。どんなきつい言葉を投げつけられてもいい、声が、聞きたいと思った。
 教授が講義室を出るより早かったんじゃないだろうか。
 ぼくが立ち上がった時にはもう、後ろのドアが閉まるところだった。閉まるドアはそのまま東からぼくへの拒否にちがいなかったけれど……。
 たまらなかった。
 ぼくは東を追って廊下へと飛び出した。
 もうずいぶん先にある背中に向かい、
「東!」
 大声で呼んでぼくは走った。





 広い階段の踊り場でようやく追いついた。
 振り返った東の、暗く険のある表情にきゅっと胸が痛んだ。
 近くで見れば、髪も本当に短くなっていて……。ぼくは東の柔らかでコシのない髪を指に絡めるのが好きだった。ベッドの中のたわいないおしゃべりの間、指先でおもちゃにしていたこともある。極めるときに、つい掴んだままにしていて、「イテッ……!」東を小さく叫ばせたこともある。頬に触れた柔らかな髪の感触の記憶さえ、今もこんなに鮮やかなのに……。
 短く刈られた髪は、そんなぼくとの想い出や感傷を東が断ち切った証のようで。
 東からひやりと冷たいナイフを突き付けられたように、胸が痛かった。
「……んだよ」
 不機嫌な声に、はっとする。
 用がないなら行くぞとばかりに、東はもうぼくに肩を見せている。何か、何か言わなきゃ、東が行ってしまう……! 焦ってぼくは口を開いた。
「き、きのう! きのう、東のおとうさんに会った」
 東の眉がいっそう剣呑な縦皺を刻んだけれど、ぼくは急いで言葉を継いだ。
「あ、東、学校辞めるとか、本気? や、やめないだろ、そんな……もったいないし、それに……それに……」
「うぜ」
 しどろもどろなぼくに、短く東が毒づく。
「もう意味ねーんだよ、この学校に」
 『俺はおまえと同じ大学行きたい』。そう東は高三の時に宣言し、猛勉強の末、偏差値20アップという偉業を成し遂げて合格をもぎとった。ぼくと同じ学校へ。それだけが東の進学の動機ではないだろうと思うけれど、それでもやっぱり、東がこの大学に通うのにぼくとのことは多少なりとも影響していただろう……。
「で、でも……」
 なんとか退学の意思だけは翻してほしくて言いかけたぼくに、
「やめねーよ」
 怒ったように東は床を蹴った。
「やめるっつったら、おやじ、うるせーから。やめねーよ」
 それを聞いて心の底からほっとした。
「……そう、うん。それがいいと思う」
 その時だ。東の瞳が一点を捉えて、一瞬、強く光った。
「え?」
 避ける間もなかった。
 素早く伸びてきた東の指が、トレーナーの襟元をくっと押し広げる。
 右、鎖骨、少し下。
 先輩はそこに軽く歯を当てたあと、強く吸い上げた。
 この服なら大丈夫、隠れることを確認して着て来たトレーナーだったけれど。
「…………」
 ギリッと音がしたのは、東が奥歯を噛み締めた音にちがいなかった。
 荒い息をこらえるように肩が上下する。
 なにか言いたそうにその口が開きかけ……しかし、なにも言わぬまま、東は突き放すようにぼくを押しやった。
 そのまま背を返して行こうとする東を、
「東!」
 ぼくはやっぱり呼び止めようとした。
「来んな!」
 険しい横顔だけ見せて、東が怒鳴る。その目はもうぼくを見ない。
「……顔、見せんな。……殴る」
 殴られるのが怖かったからじゃない。
 だけど、ぼくの足はもうそこから動かなかった。





 ……なんなんだろう。なんなんだろう。
 胸が痛くて、ざわめいて、でも、なにか……そう、浮かれ立つような、この感じ。
 東の態度に、言葉に、胸が痛くて苦しくて。だけど、痛みと苦みばかりじゃない。そこには確かに、ほんのかすかに……甘いものも交ざりこんでる。
 なんだろう、なんなんだろう。
 東、東……胸がざわめく。





「ずっと、ぼうっとしてるね」
 傍らから声をかけられて、はっとした。
 デパ地下の喧騒がどっと耳に甦る。
 行き交う人をやり過ごしながら、先輩がぼくの顔をのぞきこむ。
「心ここにあらずって顔」
 学校に出て来た東と会った次の日だった。つまり……先輩と動物園に行って……強引というか濃厚な交際申し込みにYESの返事をしてから、中一日おいた二日目。
 先輩から誘われて、今日は先輩の部屋に遊びに行くことになっていた。学校帰りに待ち合わせ、デパ地下で食料仕入れて、それから先輩が借りてるワンルームマンションに行く段取りだった。
 きのうの夜の電話で、最後にさらりと先輩は、
「泊まりのつもりでおいで」
 そう言った。聞き直す間もくれないで、「じゃ明日」と電話は切れた。
 ――また、ぼくはあんな抱かれ方をしてしまうんだろうか。ぐずぐずに蕩かされて、身も世もなく悶えてしまうんだろうか。
 見えない自分の気持ちから、今度はなんとなく見えてしまう気がする数時間後のことに思いが及んで、ぼくはまたぼうっとしてしまったらしい。
「あーあ。ちゃんと見てないと、夕飯、勝手に買っちゃうよ?」
 先輩はそう言って、並んでいる肉屋の前で足を止めた。
 ……そう。ぼくは先輩の部屋で先輩と一緒に食事する。一緒に選んだデパ地下の食材で……。
「……を一キロ」
 え?
 耳に飛び込んできた単語に驚いてぼくは顔を上げた。
 先輩の澄まし顔。ショーケースの裏側で店員さんが屈み込む先にあるのは、ローストビーフ。
「ちょ…先輩! ロ、ローストビーフ一キロは、多過ぎっ!」
 慌てて袖を引いたら、
「すいません、やっぱり200にしといて下さい」
 オーダーを変えた先輩がにやっと笑ってぼくを振り返る。
「だから言ったろ? 高橋、ぼーっとしてたら勝手に買っちゃうってさ」
 そりゃ確かに、ぼーっとしてたのはぼくが悪いけど、けど!
「……先輩、ムチャ過ぎ……」
 ぼくを強制的にぼくの世界から引きずり出した先輩は、
「次はサラダを買いに行こうか」
 何食わぬ顔でぼくの背中をぽんと叩いた。





 先輩のマンションは先輩の大学から地下鉄で数駅の便利なところにあった。学生専用らしいそのマンションは外装も洒落ていて、先輩は「ワンルームだから狭いけど」と言ったけど、広々としたベランダに面した部屋はそれだけで開放感があった。セミダブルのベッドが壁際に置かれてて、それはちょっと……うん、なんていうか、意識しすぎかもしれないけど、目のやり場に困る感じだったけど、先輩の部屋は以前訪れたサークル友達のアパートに比べると数段、快適そうだった。
「いい部屋ですね」
 お世辞じゃなくぼくはそう言った。
「家賃とか、高くないですか?」
「親には出世払いで返してもらうって言われてるけどね。国立行ったご褒美かな」
「でも先輩の家、自宅通学できるとこになかったですか?」
 先輩の実家がどこかは覚えがなかったけれど、高校の場所と大学の場所を考え合わせたら自宅通学も可能に思えた。
「ぼくは私立しか受けてなかったですけど、通学二時間かかっても自宅から通えって親に太いクギ差されてました」
 ぼくの言葉に先輩は、軽く肩をすくめた。
「経済的なことなら自宅通学のほうがいいけどね……もううっとうしいだろ、いろいろ」
 なぜだかわからないけど、先輩が何気なく口にした言葉にドキリと来た。
「親もデカくなった子どもにウロウロされてると扱いに困るみたいだしさ。ちょっと贅沢でも、親の家はもう出てたほうがいいかなって」
 うっとうしい、扱いに困る、贅沢……理由はわからないけど、胸が苦しくなった。
「せ、先輩のうち、おとうさんとおかあさんと……」
「うん? 両親と5歳年上のうるさい兄と3歳年上のもっとうるさい姉がいるよ」
 おとうさんとおかあさん、それにおにいさんとおねえさん。その家から出たかった先輩……。
「高橋、これ、皿に盛り付けてくれる?」
「あ、はい!」
 買って来たものを袋から出していた先輩に言われて、ぼくは慌ててテーブルに駆け寄った。





 デパ地下で有名どころの店ばかりチョイスして揃えた夕飯は、どれも美味しかった。
 食卓の話題も、先輩が関わってる実験のいろんな失敗談や裏話をおもしろおかしく話してくれて、文系とはずいぶんちがう講義の様子にぼくはいつの間にか引き込まれていた。
 ……先輩といると、いつもこんな感じになる。
 ぼくがぼく自身の思い惑いや考えに捉われて苦しい時でも、先輩は軽い口調で上手にぼくの気をそらせる。東とうまくいかなくなって落ち込み気味だった時、ぼくは先輩のからかいやジョークにずいぶんと助けてもらった。先輩は明るい笑顔でぼくの悩みを軽くする。
 でも……。
「後は片付けておくから、お風呂に入っておいで」
 先輩にそう言われて、ぼくはうなずけなかった。
「あの……」
 シンクに向かっている背中に、ぼくはおずおずと切り出した。
「今日は、帰ります」
 脳裏に東の短くカットされた髪が浮かぶ。削げて鋭角的になった頬が浮かぶ。怒りをはらんだ冷たい瞳が浮かぶ。……だけど、そのイメージはぼくの心を苦しめるだけじゃなくて、なにか、なにか……。ぼくは自分の心に潜むそれをつかまえたかった。
『うっとうしいだろ』
 先輩の言葉に引っ掛かった、その理由も、まだ見えない。
 考えなきゃいけない……考えなきゃ。だけど。
「えーどうして」
 背中を向けたまま、明るい先輩の声が飛んでくる。
「歯ブラシなら、新品があるよ?」
「えと……歯ブラシじゃなくて……」
「下着もブリーフでよければ新品があるけど?」
「し、下着も、替えがあります」
「じゃあ困らないでしょ。パジャマが欲しいならジャージ貸そうか?」
 ちがいます、そうじゃなくて……。
 言葉に詰まってぼくはうつむく。
 ざあっと流す音がして、水音が止まった。パチンとシンクの上の蛍光灯が消されて、部屋の明るさがぐっと落ちた。
 暗くなった流し台を背に、先輩が振り返る。
「東に会ったんだ?」
 いきなりの質問だった。
「東に会った、やっぱりどうしても気になる。だからここに泊まれないと言うなら、俺は気にしないけど?」
 核心を突かれて声が出ない。
 暗がりの中から、先輩がぼくを見つめる瞳だけが光って見える。
「……いつ会ったの?」
 低く、けれどおだやなか声に尋ねられて、
「……き、きのう……」
 ぼくは答えていた。
「どこで会ったの?」
「学校……」
「そう。彼、出て来たの。よかったね。ずっと休みが続いてるって、高橋、気にしてただろ」
「…………」
 先輩が闇の中からゆっくりとオレンジ色の間接照明の中に踏み出して来る。
「会って、心が揺らいだ?」
 先輩の声はおだやかなまま。表情だって、かすかな笑みを残してる。だけど、まっすぐにぼくを見つめる瞳には熱があって……ぼくは近づいてくる先輩から動けなかった。
「いいよ。正直に答えて。……言ったろう?」
 先輩の手が、ふわりとぼくの頬に触れ、そのままうなじを撫で上げてくる。柔らかなくすぐったさに、背中が震えた。先輩は両手でぼくの顔を挟むようにしながら、間近からささやいた。
「高橋が、まだ東のことを忘れられずにいるのはわかってるって、それでもいいって、言ったろう?」
 なんとか小さくうなずいた。あの時、車の中で。交際を求めながら、先輩はそう言った。
「だから、いいよ。……東に会って、気持ちが揺らいだんだろう? 正直に答えていいよ?」
 そう……東に会って、気持ちが揺らいだ。ぼくはもうひとつ小さくうなずいた。
 先輩は小首をかしげた。
「東の様子は、どうだった? 東のなにに、高橋は揺らいだの?」
 東のなにに? ぼくは目を閉じた。過去の記憶を断ち切るように、ぼくが好きだった髪をばっさり切った東……。
「東は……とても、怒ってて……」
「そう」
 先輩の声が優しくささやく。
「それで……高橋はどうしたいと思ったの? 東と、やり直したい?」
 ぎくりとして目を見開いた。
 やり直す? でも、そんな、でも……。
 ぼくは首を横に振った。
「……そんなに東は怒っていたの?」
 冷たく、射すようだった東の視線。キスマークに、『顔、見せるな。殴る』、そう言った東。……そうだ。いまさら、ぼくはどんな顔で東とやり直せると言うのか。ぼくの顔を見て、東はものすごく不愉快そうだった。ぼくは少しでも東の顔が見ていたくて、声が聞きたくて、思わず東の後を追ってしまったけれど、東は心底、嫌がっているようだった。
 ぼくの両頬を包む先輩の手の中で、ぼくはうつむいた。
「そうだね、やっぱり、やり直すのは無理かもしれないね……だって、」
 なにも言えずにいるぼくを先輩が胸に抱え込むように抱き締める。
「ほんのおとついのことだから、高橋、忘れてないだろう?」
 寄せられた腰がぼくの腰に当たった。あの痴態を思い出させるように、ゆるく淫猥に腰が擦り付けられてくる。
「高橋にあんないやらしい顔ができるなんて、知らなかった」
「先輩……!」
 首筋に先輩の唇が押し当てられる。
「最高によかったよ……エロくて、可愛くて」
 ぴちゃ……濡れた水音がして、耳たぶを咥えられていた。
「……もし俺が逆の立場だったら……今の東の立場だったら、許せないと思う」
 至近距離から吹き込まれた、暗いささやきに、瞬間、躯が凍った。
 東は、ぼくを、許さない? 先輩の腕の中でどろどろに蕩けたぼくを? ――ちがう。東が許す許さないじゃない、ぼくが許してくれと言える立場ですらないだけで……。
「泊まって行け」
 命令言葉の先輩の声が甘く響く。あやすように、慰めるように。逃げ道はここにあるんだと教えるように。
 弱くなったぼくの心を読み取ったように、先輩のささやきは甘さを増す。
「泊まって行け。……俺はもう一度、おまえを確かめたい」
 先輩の手が背中を滑り、ジーンズの上から双丘の割れ目をなぞった。それだけで奥底にあまい快感の予感がじわりと湧く、あさましいぼくの躯。
 耳から滑った唇に唇を覆われれば、後ろの蕾を探すような先輩の指先の動きとあいまって、ぼくはもう拒むことができなかった。
「ふ……」
 股間の熱を誇示するように堅くなったソコを腰に擦り付けられて、一気に顔にも血が上る。知らず、ぼくの吐息は色を帯びた。





 考えなくちゃいけないことが、たくさんあったはずなのに。
 
 
 
 
 
 先輩のベッドの中で、ぼくは先輩に抱かれていた。
 先輩の唇も指も、アソコも、やっぱり容赦なく淫らで執拗で、ぼくはやっぱり深く鮮やかになるばかりの快感に、眉を寄せ、口を開き、いやらしく喘いだ。
 指できゅんと摘み上げられた乳首の、ほんの先端をチロチロと舐められて、背中が思い切り反った。
「ひあッ! や、あ、あ、あああっ…! ヤ、やだっダメッ……っ」
 引っ張られる痛みと、先端に与えられる繊細な快感に、もういい加減、堅くなっていたぼくのソコは痛いほどになって、ぼく自身のおなかにたらたらと先走りの露を漏らした。
 次々とかき立てられる官能の彩。
 先輩の肩に脚をかけ、腰から下を高く上げるような姿勢をぼくにとらせて、先輩が後ろを穿つ態勢を取った時にも、ぼくにはもう、拒む素振りを見せる余裕すらなくなっていた。
 十分にオイルと指でほぐされていた窄まりは、押し付けられた滑らかな丸い頭部を嬉々として飲み込むかのようで……ぐっと掛かった圧力と、狭い入り口を押し開かれる時の消えきらない痛みさえ、ぼくの躯は喜ぶかのようだった。
「うぅ……んッ、んーーっ!」
 全身に響く、挿入。
 躯の中心を穿つ熱い肉の棒だけがもたらしてくれる快感の最初の波が、狂おしく押し寄せてくる。
「ふぅう……う、あ……!」
 少しでもこらえようとするぼくに、
「目を開けて」
 先輩の声が届いた。
「……え?」
 早くも涙の膜がかかっているかのような視界に、ぼく自身の顔に向かってくるような股間と、大きく広げられた脚、そして、上から伸し掛かるような先輩の躯が見えた。
「……ほら」
 先輩がぼくの視線を誘う。
「見えるだろ? 俺が、高橋に入っていくところ」
「……あ……」
 確かに。ぼく自身の熱をはらんだ性器の向こうに、ぼくの体内に向かって突き立つ濃いベージュ色した先輩自身が見えた。
 ソレは準備に使ったオイルのせいか、濡れたように光っていて……。
 ぬらぬらといやらしい光を放ちながら、ソレが貪欲なぼくのソコに沈んで行くさまは、もうどうしようもなく淫らだった。なのに、ぼくはそこから目をそらすことが出来なかった。
「……すごいね。高橋からは見えないかな……高橋のココ、もうぴんぴんに開いて……飲み込んで行くよ、俺のを……」
「やっ……!」
 思わずぼくは大声を上げていた。
「先輩、やらしい……!」
「言ったはずだけど? 俺はエロくて強引だって」
 先輩はそう言うと、最後の一突きをぐっと強く腰を進めることで果たした。
「ああっ」
 先輩の下生えがぼくの肌に触れる。もう、先輩のモノは全然見えない……。
 そのまま揺するように中を抉られて、ぼくはまた、目を開いていることもできなくなったけれど……最後に見えた視界の中に、切なく歪んだ先輩の顔がちらりと見えた。


                                                       つづく



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