ぼくたちの真実の証明<5>
くちゅ……。
湿った小さな音。先輩がぼくの中から出て行く。
手早く後の処理を済ませて、先輩が上掛けと一緒にようやく荒い息がおさまりかけたぼくの上におおいかぶさってくる。
そのままくるみこまれるように横抱きにされた。先輩の胸が背中にぴったりくっついてきて、鼓動まで響いてくる。
……なんだろう。落ち着かない。
ぼくは先輩の腕の中で、力の入らない躯のまま、身じろぎした。
抱き締める腕がわずかに力を込めてくる。
「好きだよ……」
吐息交じりの声が耳元でささやく。
「もう、ずっとずっと、おまえを俺だけのものにしておきたい」
胸にまわった先輩の腕に触れる。
ケモノに戻った時間の後に、肌と肌をくっつけたまま、躯の中を吹き過ぎていった嵐の余韻にひたる。その切ないほどあまやかな時間に、ふだんなら口にできないような睦言を交わす。
それは……ぼくにも覚えがあって。
きっと今、ぼくが口にするべきなのは、『ぼくも』という言葉なのだともわかっていて。
ぼくは何も言えなかった。
ぴたりと密着している先輩の肌の熱さ。引ききらない汗の湿りとかすかな匂い。やっぱり、なんだか、どうしても落ち着けなくて、ぼくは先輩の腕をほどくとまだだるい躯を起こした。
「あの……シャワー、借ります」
視線を下に落としままで、先輩の表情は見えなかったけれど、
「……トイレの向かいのドアがバスルームだよ。タオルは戸棚のを好きに使って」
常と変わらない声に、軽く頭を下げてバスルームへと向かった。
ドアを閉めたとたんに、ほうっと溜息が漏れた。
先輩と話しているのは楽しい。
先輩との濃いセックスには酔わされる。
なのに、なんでだろう。
事後のけだるさとおだやかさを、ぼくは先輩と分け合うことができなかった。
またひとつ、小さく溜息が出た。
今考えても仕方ないのかもしれない。とりあえず、まず、洗い流しちゃおう……。
自分の頭の中に浮かんだ考えにギクリとした。
洗い流しちゃおう。
行為の汗を? 先輩の汗を?
「……ぼくは……」
最低だ。
呻きが漏れた。
やっぱり帰ろう。帰らなきゃいけない。
もう電車はないだろう。じゃあ、タクシーで。予定外の出費は痛いけれど。
バスルームを出る時には、ぼくの心は決まっていた。
けど。
「あ。ちょうどいいところへ」
ジャージ姿の先輩が、コントローラーを手にぼくを振り返った。テレビには、見た覚えのあるゲーム画面。
「今、第二ステージクリアしたところ。はい」
と、コントローラーを差し出され、つい受け取ってしまった。
「シャワー浴びてくるから。第三ステージの隠しアイテム、知ってる?」
「えと……宿屋のマントルピースの中……?」
「そうそう。頼むね」
……えーと。
「ほら。長老が話しかけてきたよ」
言われて、慌てて画面に目を向ける。……いや、そうじゃなくて。
「あの、先輩、ぼくは……」
「大丈夫、すぐ出てくるから!」
先輩は強引にゲームを代行させると、バスルームに消えた。
……えーと。
あ。まずい。長老が行っちゃう!
結局その晩は3時までぼくたちはかわるがわるコントローラーを握り締め、ようやくファイナルステージまでクリアできたところで、もう頭もいい加減煮えてしまってて、もつれこむように一緒にベッドに倒れこんだ。
……ダメ過ぎる。
ことここに及んで、ようやくぼくは先輩のペースに巻き込まれ過ぎな自分を反省した。
考えなきゃいけないと思うのに。
気が付けば先輩の軽口に笑ってしまっている自分。
……ダメだ。ダメ過ぎる。
学校まで車で送ってくれるという先輩の申し出を今度こそしっかりと断って、ぼくは家に帰った。
一人で考えなくちゃいけないと思った。
きちんと。ちゃんと。
どこからおかしいのか。自分の気持ちはどこを向いているのか。
そんなわかりきってて当然のことが、どうしてわからなくなってしまっているのか。……それは、自分がだらしないからにちがいないけど……でも、とにかく、考えないと。
かあさんはパートに出ていて、妹は当然、学校で、家にはぼく一人だった。
家の中はシンとして、アナログ時計のカチコチいう音や冷蔵庫の軽いうなりさえ聞こえてくる。
ぼくはその静寂の中、リビングの床に座ってみた。
――初めて、東に、自分がゲイだと証明した場所。
ただのクラスメートでしかなかった東と、互いに互いをどう想っているかも確認しないまま、エッチな行為に及んだ場所。
……そうだ。キスもしないまま、ぼくは東のを、東はぼくのを、フェラ、したんだ。裸で抱き合って、すごく気持ちよかった。
学校の音楽室で初めてキスした時もそうだ。後で聞いたら東は最初ぼくの家に来る前から、そういう下心があったって言ってたけど、ぼくは自分の気持ちなんて全然意識してなくて。でも、東の唇が気持ちよくて、絡めた舌が気持ちよくて。今から思うとなにやってんだって感じだけど、ほとんどまるまる一時間、ぼくたちは音楽室でいちゃいちゃキスして過ごしたんだった。
その後も、ぼくは東への気持を意識することなく、ただエッチな行為を続けて……ようやく自分の心が誰にあるのか自覚できたのは、大輔に部室で告白された後だった。東とひとつになりたいって願ったのも、その時が初めてで……。
思い返していて、そこでつい一人で笑ってしまった。
カッコ悪いよなあ。自分の気持の必死の証明が3センチって。いくら、死ぬほど痛かったにしろ。
短い笑いは、すぐにシンと静まった部屋の中に消える。
自分から言い出しておきながら、ほんの入り口でぼくが悲鳴を上げたら、東はあっさり躯を引いた。笑って『気持だけで十分だから』、そう言った。ぼくは抱く立場になったことはないけれど……今になってみれば、あそこで東が笑って引いてくれたのがすごいことだとわかる。
いつもはすごく短気で、すぐ怒るくせに。
ぼくが自分の油断から大輔にレイプされてしまった時もそうだ。
東はぼくをなじらなかった、怒らなかった。ぼくを責めなかった。東にだって、どれほどの思いがあったか知れないのに。
――大切にしてもらってた。
ぼくはこぶしを握ると、立てた膝に顔を伏せた。
東は、東の精一杯で、いつもぼくを大事にしてくれてた。
それをぼくは全部わかってて、ぼくも東のことが大好きで……。
でも、だけど、だから、つらかった。東がぼくも知ってるあの人に抱かれていたと知った時。
そう、そして……そのしんどい時に河原先輩と偶然、街で出会って、愚痴って、慰めてもらって……。
その頃からもう、ぼくの中には東を許せないと思う気持ばかりが溢れてた。東がぼくに『もう終わったことだから』『俺がガキだったから』、気持を伝えようとしてくれる言葉も、ぼくの耳には届かなかった。
ぼくはただ苦しくて、やるせないばかりで……東があの人の元に駆けつけるために出て行ってしまった夜、やっぱり偶然会った先輩と一線を越えてしまった。
東だって東だって。頭にはそれしかなかった。先にぼくを裏切っていた東を責める気持ばかり。ぼくは酔いの勢いもあって、簡単に先輩と関係を持ってしまった。
――なんてバカなことをしたんだろう。
痛切に、そう思った。
今になって、初めてわかる。あの夜の取り返しのつかなさ。東を許しきれないまま、ぼくは東への罪悪感を抱えることになり、ぼくたちの関係はそこからどんどんどんどん、歪んでいって……抱き合う時間にさえ、気持は擦れ違ったままになった。そのしんどさから逃げたくて、ぼくは考えなしに先輩と会い続け、ぼくと東はますます歪み……。
結局は別れることになってしまった。
『あの夜さえ、なければ』
自分の頭に浮かんだ言葉に、でも、首を横に振った。あの夜がなければ……? そうしたら、ぼくと東は本当に別れずに済んだか?
ちがう、と思った。
ぼくの中には罪悪感だけじゃない、東があの人との過去を伏せていたことへのしこりが、やっぱり消えてなかった。
ぼくは顔を上げた。
カーテン越しに庭を通して日が射してくる。
初めてくっきりと、自分がするべきことが見えた気がした。
今、ぼくは先輩と付き合ってる。先輩が言うように、東はそんなぼくを許してくれないだろう。……でも、それでも。一番最初につまずいたところに、戻ってみなきゃいけない。
――マスターに会いに行こう。マウンテンのマスターに。
リン。短く鈴の音が鳴って、カウンターの中のマスターが顔を上げる。
「やあ、いらっしゃい」
ぼくの顔をみとめたマスターが落ち着いた声を投げてくれる。モーニングとランチのちょうど境の時間なのか、運よく店内にはほかのお客さんの姿はなかった。
「こんにちは」
ぼくはまっすぐにカウンターに歩み寄ったけれど、いざマスターを目の前にして、なにをどう切り出すべきなのか、自分が考えていなかったことに気がついた。
いきなり、東と昔、関係があったんですか、でいいだろうか。
「……いつ来てくれるかと思ってたよ。東君のことだろう?」
言葉に詰まっていると、マスターがそう言った。ぼくは腹をくくった。
「そうです。東から……どう聞いてますか」
「バイトをやめる時に『バレた』、その後、一度だけ来て『別れた』、それだけ」
東らしいと言えば東らしい短い言葉。うつむいていたら、
「椅子をどうぞ」
うながされて、ぼくはマスターと向かい合う形でカウンター席に腰を下ろした。
引き締まった浅黒い肌に口ひげ。シブさが魅力的な大人の男。
マスターの顔を改めて見ていたら、口が勝手に動いた。
「東はあなたのことが好きだったんですか」
うーん、とマスターは小さく唸った。
「本人は一時期、本気で好きだと思ってくれてたみたいだけどねえ。恋愛感情を向けられていると感じたことは一度もなかったよ」
確かに東もそう言っていた。恋愛感情ではなかったと。マスターは視線を下に落とした。
「……本気じゃないとわかっていて、中学生と肉体関係を持ったんだから、わたしは責められるべきだと思っている。ただ、東君からどう聞いているか知らないけれど……当時の彼はとても不安定でね、わたしが彼を拒否したら、すがれる相手を探してどこまでも自棄を起こしそうな危うさがあって、ほうっておけなかった」
「それは……東も同じことを言ってました。おとうさんの代わりに、自分のことを一番にかわいがってくれる人が欲しかったと」
うん、マスターはうなずくと、躯を脇へとずらした。
「彼はおとうさんの代わりが欲しくて、わたしはあの子の代わりが欲しかった」
奥のシェルフに初めて見る写真立てがあった。その写真の中で笑っているのは、ぼくといくつも違わないように見える華奢な少年。全体の印象は全然ちがうけれど、確かに色の白さと栗色の柔らかそうな髪は東に似ていた。
「母親違いの弟。これでも24の時なんだけどね」
「あ……」
二ヶ月ほど前のこと、東が飛び出していった夜のことを思い出した。
「あの……ご愁傷さまでした」
「……もう助からないって、ずいぶん前からわかってて……覚悟はしてたんだけど」
マスターは呟き、視線を写真からぼくに戻した。
「東君もわたしもね、身近な人間にぶつけられないものをお互いを代わりにすることで、誤魔化していたんだ。……みっともなくて、ずるい話だけれど、あれは恋じゃなかったよ」
「…………」
マスターの目元がふっとなごんだ。
「恋と言えばね。東君もねえ、もてるから。いろいろと遊ぶ相手には不自由してなかったみたいだけど、高三の夏休み前かな、初めて、好きな子ができたから今度連れて来るって言ってね」
え、と思った。
マスターはおもしろそうに続ける。
「もったいぶらずにさっさと紹介しろと言ったら、相手はたぶん、俺とつきあってるって自覚はないだろうから、やっぱりマズイとか言い出して」
顔が赤くなるような気がした。
「それじゃあそれはおまえの片想いだろうと言ってやったら、真顔で落ち込んでてねえ」
笑い声を立ててマスターは笑った。ぼくはもう、なんと言っていいかわからなくて、顔を真っ赤にしてうつむいていた。
マスターのこの店に初めて東に連れて来てもらったのは、大学に進学が決まった後だった。東が「恋人紹介するって言ってあるから」って店に入る直前に言うもんだから、後で「だまし討ちだ!」ってぼくが怒ってケンカになった。
泣きたくなるほど懐かしい……。
「……でも、」
こみあげそうになるものを振り切ってぼくは顔を上げた。
「東はぼくにはなにも話してくれませんでした」
マスターは小さく吐息をついた。
「……こう言うと、自分だけ逃げようとしていると思われるかもしれないけれど、わたしは彼に、わたしとのことは君の耳に入れておけと、ずっと言っていたんだ」
意外な言葉に目を見開いた。
「あれは恋愛じゃなかった。お互いがお互いを代用品にしていただけだった。でもそれは当事者の言い訳でもある。わたしと東君に肉体関係があったのは事実だから。だから、真剣につきあっているなら、そういう過去はきちんと話しておけとね、ずっと言ってたんだけど」
知らず、ぼくは身を乗り出していた。
「どうして……どうして東はぼくに……」
マスターの瞳に、同情によく似た、優しい光が浮かんだ。
「高橋君。君はいくつまでおねしょをしてましたか」
突然、ヘンな質問をされて目が丸くなった。
「え」
「だから、おねしょ。いくつまでしていた?」
「え……ぼ、ぼくは幼稚園の時にはもうおねしょはなかったと、母が……」
「ああ、じゃあ質問を変えよう。おしゃぶりしてたとか、それがないと寝られないぬいぐるみとか、なかった?」
「あ、ありました……」
誰にも話したことがないけれど、ぼくは物心つく前からずっと、一枚のよれよれになったスポーツタオルを握り締めないと眠りにはいることができなかった。中学に入る頃に、さすがにこれは恥ずかしいと思って母に頼んで捨ててもらったけれど、それからしばらくは寝付くのに苦労した。
「いくつまで?」
マスターに重ねて聞かれて口ごもる。
「……答えにくいのは、自分の幼さが恥ずかしいからじゃないか?」
おだやかな指摘。はっとして顔を上げたら、マスターがうなずいた。
「東君もね、ただただ、恥ずかしかったんだと思うよ。そこまでおとうさんにあまえたかった自分の幼さが。……それに、」
言葉を探すように、マスターは一度言葉を切った。
「……そうだな、単純な言い方をすれば、東君は君の前でカッコいい男でいたかったんだと思う」
「カッコいい?」
東がカッコいいのはもう当たり前のような気がするんだけど。ぼくの不審顔にマスターはうなずいた。
「カッコよくて、大人な男。……わからないかな? 言葉を飾らずに言えば、東君は自分が男に抱かれるような男だと、君に思われたくなかったんじゃないかと思うよ」
思い出した。
東は繰り返し言っていた。『気持悪いんだろ』って。『嫌われても仕方ない』って。その時は言葉通りにしか伝わって来なかったものが、ようやく、東自身の不安や思いとしてぼくの心に響いて来るようだった。
マスターとのことをなんで話してくれなかったんだって、ぼくは何度も東をなじった。そのたび、東は、「すんだことだから」とか「好きだったわけじゃない」とか答えたけれど、ぼくは素直に聞けなくて……でも、こうしてマスターと話してみて、ようやくすとんとお腹に納まるものがあった。
――東。
自分の未熟さや情けなさを、ぼくに知られたくなかった?
思い切って打ち明けてくれた後、その時はもう、先輩とのことで引っ掛かりを持ってしまっていたぼくの態度に、やっぱり気持悪がられたって、そう思った?
なんでもっと、君の言葉を聞かなかったんだろう。
なんでもっとちゃんと、君と向き合わなかったんだろう。
なんで――
目の前に、すっと白いおしぼりが差し出されて、ぼくは自分がぽたぽた涙を垂らしていることに気づいた。
「あ……すいませ……」
出してもらったあったかいおしぼりを目に押し当てて、ぼくはただ、取り返しのつかない時間に涙した。
すん、と最後に鼻をすすりあげて、
「……すいませんでした」
と、ぼくはもう一度マスターに頭を下げた。
「いやいや」
マスターはなんだかおもしろそうに笑っていて、
「いいねえ、君は本当に素直で」
そう言った。
「派手に遊び回って失恋の憂さを晴らしてる東君も、まあ、素直と言えば素直なんだけど。いつまでスネてるつもりなんだか……」
「スネ……?」
「いじけてるとも言えるかなあ」
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべてマスターはとんでもないことを言い出した。
「スネてるだけじゃ、南洋の王子様には勝てないよって言ってあげなさい」
なんて。それってどういう……慌てていたら、
「高橋君の今の彼氏。聞いたよ、南洋の王子様みたいにカッコいいって」
「え、え……」
マスターの軽口を上手にかわすこともできずにうろたえて、ぼくはまた真っ赤になった。
「ど、どうしてマスター……」
「タケシ君がね、時々、遊びに来てはしゃべっていってくれるから」
「あ……」
オレンジ色のツンツンと全方向に突き立った髪、ちょっと軽薄そうな感じはするけど、どこか憎めない顔をしていたタケシ。元をただせば彼の発言がすべての発端なんだけど、やっぱり恨む気にはなれなかった。
「彼は彼で東君相手に悪戦苦闘してるみたいでねえ」
……思い出した。彼女にしたい発言。
マスターはくすくす笑い出した。
「いや、立派だと思うよ、彼は。初志貫徹を目指してて」
「あ、あきらめてないんですか!?」
失礼かなとは思ったけど、つい尋ねていた。
「あきらめてないねえ」
「…………」
ばっさりソフトモヒカンにして、顎の尖った、鋭い目線の東を思い出す。その東を……と考えると、タケシは勇気があるというかなんというか……。
「まあ、東君をどうこうというのは置いておいても……彼のように自分の気持をはっきりつかめている人はそう多くないんじゃないかなあ」
顔を上げた。マスターがぼくにうなずいてみせる。
「自分が本当になにを望んでいるかしっかりつかんで、それに向かって行動するというのは、なかなか大変なことだよ。たいていの場合、プライドとか傷の痛みとかしがらみに縛られて、動けなくなってしまうから」
プライドとか、傷の痛みとか、しがらみとか……。ぼくはゆっくり口の中で繰り返した。
その時、リン、と軽い鈴の音がなり、中年のサラリーマン風のお客さんが入って来た。
「いらっしゃいませ」
マスターがマスターの顔に戻って挨拶する。
ぼくは椅子から立ち上がった。
「今日は……ありがとうございました」
「……来てくれて、うれしかったよ」
「ぼくも……来てよかったです」
ちょっと迷ってから、付け加えた。
「また、来ます」
マスターはゆっくりしっかり、うなずいてくれた。
ぼくのしたいこと。本当に望んでいること。
なんだろう、それは、なんだろう。
東のことを思えば胸が痛み、先輩とのことを思えば顔から火を噴く思いになる。
マスターの言うとおり、自分が本当になにを望んでいるか、つかんでいる人は多くないかもしれない。
ぼくが本当に望んでいること――
思いに沈みかけたその時、メールの着信音が響いた。
……それは先輩からのメールだった。
つづく