ぼくたちの真実の証明<6>
先輩からのメールは、
『腰、だるくない?』
一行目がいきなりそれで。
ぼくは歩道を行きながら、誰かに見られなかったかと、ついきょろきょろしてしまった。
『学校の帰りにお茶でもどう?』
二行目はそれだけで。
ぼくは小さく吐息をついた。……どうしよう。なんとなく、だけど、しばらく先輩とは会わないほうがいいような気がする。ぼくはようやく、落ち着いて自分の気持ちの行き先を考えようと思い始めたところで、今、先輩に会ったら、またつかみかけたものが見えなくなってしまいそうな気がした。
『今日はバイトあるので、ごめんなさい』
そう返信したら、またすぐ、
『警戒してる? 外で会うつもりだったけど』
って返って来て……にやっと笑った先輩の顔が見えるような気がした。
『ホントにバイトです』
そこまで打って、ちょっと考えて。
『また今度』
と付け加えた。そしたらまた、速攻で。
『会いたい会いたい会いたい。抱きたい』
って……。
『抱きたい』
短いその一言に、息苦しくなるほどきつい抱擁や唾液の滴る濃くて長いキス、先輩の愛撫に上がった自分の甘い声の記憶が一度にどっと脳内に満ちた。肌が淫靡にざわつく。
もうなんて返信していいかわからなくて、携帯持ったまま、指が止まった。街路樹の下で立ちすくむ。……どうしよう、どうしよう。
どれほどそうしていたか。また、着信音が響いた。
『困らせてごめん。また連絡する』
ごめんって……。謝らなきゃいけないのはぼくのほうだって思った。
『ぼくもまたメールします』
ぼくはそれだけ急いで打った。
携帯を閉じたら溜息が漏れた。時刻はもうすぐお昼になろうかという頃。
午後からの講義だけでも出ようか。
そう思って、ふと今日は何曜日だったかなと思った。……日曜日に先輩と動物園に行って、その帰りに車の中で……交際を申し込まれた。月曜に学校行って、久しぶりに東に会って……火曜の夜、先輩の家に泊まり……今日は水曜か。
あの爛れるようなカーセックスからまだ三日しかたっていないのが、ウソみたいだった。
もっともっとたくさん、先輩と会ってるような気がするし、もっともっと時間がたってるように思うのに。東と別れてからの三週間も、ずっと先輩と付き合ってるようなものだったから、そう感じるんだろうか。それとも、それだけこの三日間がぼくにとって濃いものだったから?
……ホントに少し、間を置いたほうがいいかもしれない。改めてそう思った。気持が整理できるまで。
先輩はまた連絡するって言ったけど、金曜までは時々メールでやりとりするぐらいで、いつ会うかとかの具体的な話は出なかった。
学校では時々東と教室が一緒になったけど……東はもう頭っからぼくのことは無視するつもりらしく、視線が合うことすらなかった。
ぼくはと言えば、先輩から誘われないことに軽い安堵を覚えつつ、でも、そこには一抹の申し訳なさみたいなものもあったりして。東と一度ゆっくり話してみたい、マスターに会ったことも伝えたいと思いながら、先輩とこういう関係になっておきながら、いまさらなにを話せるんだって思ったりもして。冷たい怒りの視線を向けられるのが怖くないと言えば、ウソだった。
街を歩けばもう、白、赤、緑のクリスマスカラーが目につき、このシーズンになると耳にする定番の曲が、やっぱり聞こえてくるようになっていた。
『クリスマスキャロルが 流れる頃には』
その中でふと注意を惹かれたのは、毎年毎年ずいぶん昔から聞かされてる気のするラブソングだった。
「君と僕の答えもきっと出ているだろう……」
歌詞の一節を小声で口ずさむ。 *稲垣潤一「クリスマスキャロルの頃には」より
「誰を愛しているのか、今は見えなくても……」
改めて歌詞を口にして、泣きたいような気持に襲われた。こんなふうに身につまされるような切なさでこの曲を聴くことになるなんて、去年は思いもしなかった。
去年のクリスマスは……受験生だったから、夜は9時近くまでぼくも東も塾の予定だった。
「信じらんねえ。いつもなら徹夜で遊べんのに」
東はぼやいてたけど、センターまで一ヶ月を切ってる状況で遊びに行けるわけがなかった。
「……東、この前の模試でD判定だったんだよねえ?」
それでも一応、ぼくがクギをさすと、
「ひでぇ。これだからイヤだわ、優等生は! すぐるクンったら、ちょっと自分が成績いいと思って」
「だってA判定だったもん、実際」
「うっわ、おまえ、マジ性格ワル!」
東は身をよじって泣きマネした。
その泣きマネにほだされたわけじゃなかったけど、その後、そういえばいくつまでサンタさん信じてた?とかそんな話になって、結局二人だけで地味にパーティしようってことになったんだった。ぼくは家から、もう何年も出してない組み立て式のクリスマスツリーを持ち出し、二人で塾の帰りに駅前のケンタッキーに寄ってチキンを買い込んだ。
東の家のリビングに、それほど大きくないツリーを飾り、電飾のキラキラとろうそくの灯りで脂っこいチキンを食べた。行儀悪くツリーの前に、あぐらをかいて。東はビールぐらいと言ったけど、コーラで我慢して。
全然パーティっぽくなかったけど。明滅する電飾に東の横顔が浮かんで、小声でクリスマスソングを口ずさんだりして、ぼくはすごく楽しかった。いや、楽しいって言うより、嬉しかった。東も同じ気持だったんじゃないかと思う。時々、脂でベトつくキスを交わしながら、ぼくたちはバカみたいにくすくす笑ってた。
……その時には。
こんな気持で今年のクリスマスシーズンを迎えることになるなんて、思ってもいなかった。
東……今年はどんなクリスマスを過ごす?
胸の中で問いかけて、脳裏に頭髪が逆立っている今の東の顔が浮かんだ。……あんまり、平和そうなイベントを予定してはいないような気がした。胸がきゅっと痛くなった。
先輩から携帯に連絡があったのは金曜の夜だった。
「明日か明後日、出て来れない?」
「明日は一日、バイトで……」
「じゃあ、明後日。日曜日はどう? 昼からでもちょっと会えない?」
断る理由はなにもなかった。けど……どうしよう。なんと答えたものか迷っていたら、
「姉貴からブラウニーって言うの? チョコの焼き菓子をもらったんだけどさ、一人では食べきれないから手伝ってもらえないかな」
「え……お、お菓子?」
「そう。お茶しにおいで」
ソフトな口調で誘われた。かえって断りにくい。
でも、先輩の部屋に行ったら、その後の流れが見える気がするだけに、うなずくこともできなかった。どうしようどうしよう、ぐるぐるしてしまう。
「ああ、もう」
先輩が笑い出した。
「高橋、バージンと同じ反応するね」
……って。え!?
「誘われると戸惑って、警戒して、でも、完全に撥ねつけることもできない」
確かに。言われてることが当たり過ぎてて二の句が継げなかった。
「ねえ、」
先輩の声が少しだけ低くなり、粘つくものを帯びた。
「そういう態度、逆に男を煽るの、知ってる?」
慌てて首を横に振った。あ。見えないか。
「し、知りません! べ、別にぼくは、あ、煽ってなんか……」
「ふうん?」
先輩の声が携帯を通して耳元に意地悪く響く。
「じゃあ煽られてるのは俺の勝手なわけだ」
「…………」
「もしかして今、真っ赤になって口をぱくぱくさせてる?」
図星だった。くやしいけれど、
「……はい」
答えたら、先輩はくっくと喉の奥で笑う。
「大好きだよ、高橋」
……なんかもう、ぼくは一生この人に勝てないんじゃないかと思った。
「マジメな話、高橋、俺との関係とか今の状況とかに混乱してる?」
すっと落ち着いたトーンに戻した声で改めてそう切り出されて、今度はぼくも素直に、
「……はい」
と答えた。
「混乱してるっていうか……少し、ゆっくり、ちゃんと考えたいなって……」
「うん。高橋のその気持は理解できる。けど、それって、俺と会ったり俺と過ごしたりしながらじゃ、考えられないことなのかな」
「…………」
「ああ、ごめん」
答えに詰まっていたら、先輩が短く笑い声を立てた。
「追い詰めるつもりはないから。……じゃあ、約束する。日曜はお茶だけ。いやらしいマネして、これ以上、高橋が混乱するようなことはしない」
「あの……ぼくのほうこそ勝手なんですけど……ちょっと、少し、考えてみたいってやっぱり思って……」
「ちょうどいいって言うとあれだけど、教授が学会から帰って来てね、来週から実験が始まるんだって。研究室の先輩に手伝わないかって誘われてて、実験が始まったら、たぶん、二週間ぐらいは研究室にカンヅメになると思うんだ。だから、大丈夫。来週から高橋にはたっぷり時間ができるよ」
それは前にも聞いたことがあった。先輩はまだ三年生だけど、時々、実験の手伝いをしてるって。始まると学校に寝泊りしだすこともザラにあるって。
「……だからさ。明後日。しばらく会えなくなる前に、少しだけ顔を見たい。……顔を見るだけ。少ししゃべるだけ。ダメかな」
ここまで言われて断る言葉があるだろうか。
「……明後日は、何時にお邪魔したらいいですか?」
日曜日。ぼくは約束通り、午後二時に先輩の部屋のチャイムを鳴らした。
先輩はいつもと変わらない表情で迎えてくれた。
「神戸のお菓子屋さんらしいんだけど、姉貴、おいしいからって一箱、持って来るんだよ」
そう言って先輩は赤いリボンも可愛い、洒落たボックスをテーブルに置いた。上部が薄いプラスチックになってて、くるみがゴロゴロ乗った美味しそうなブラウニーが見える。
「でも、ブラウニーって日持ちしますよ? 朝ごはん代わりに食べたらいいのに」
「高橋は朝ごはんに焼き菓子食える?」
「……ちょっとキツイかな」
先輩は声たてて笑った。
「紅茶、淹れるよ。適当に座ってて」
待つほどもなく、湯気の立つティーカップが並んだ。
「いただきます」
ブラウニーに手を伸ばす前に、ぼくは紅茶のカップを手にした。……鼻腔をくすぐる香りに、はっとした。ゆっくり、口に含む。
「……先輩、あの、この紅茶……」
自分の舌にそれほど自信はなかった。コーヒーのおおざっぱな豆の種類のちがいならともかく、紅茶のブランドごとのクセはほとんどわからない。
……けど、これ、この紅茶……。
「ああ、レモン使う?」
「ち、ちがいます。あの、これ、もしかして、マリアージュとかいう……」
「よくわかったね、紅茶、くわしいの?」
先輩はそう言いながら立ち上がって、見覚えのある黒い缶を取り出した。ブランドラベルの下には、やっぱり『wedding』の文字。
「あ……」
だめだ。思い出すな、思い出すな!
紅茶カップの向こうの東の笑顔。ああ、ぼくは東のことが好きなんだなあとしみじみ思いながら過ごした休日の午後。
あの時からどれほどの時間が過ぎたと言うのか。
変わらぬ紅茶の香りに胸が詰まる。
「……ブラウニー、いただきます!」
黙っていると涙がこぼれてきそうな気がして、急いでぼくは手を伸ばした。
ざっくりと荒く切ってある感じのブラウニーは、市販のよそよそしさよりハンドメードのあたたかさを感じさせる。ぱくりと大きくかぶりつけば、チョコの香気が口いっぱいに広がり、生地はほろりと砕けた。トッピングのくるみの香ばしさとかすかな塩味が、甘いチョコ生地にめちゃくちゃ合っている。
「……これ、おいしい」
目元だけで先輩が笑ってくれる。
切ないものが込み上げて来て、ぼくは慌てて二口目にかぶりついた。
「本当に帰るの?」
片づけを一緒に終えて、お礼を言って、ソファに置いてあった上着を手に取ろうとしたら、後ろから柔らかく先輩の腕が回って来た。
髪に押し付けられて来るのは、先輩の唇。
「……先輩、それ、約束違反」
「だって、」
唇がこめかみへと移動してくる。
「高橋、可愛いし」
ぼくはきゅっと唇を噛んだ。思い切って先輩の腕から逃げる。
「やっぱり、今日は、帰ります」
紅茶一杯の記憶でぼくは揺らぐ。切なくなる。このまま、先輩に抱かれてしまうわけにはいかなかった。
ふうっと先輩は大きく溜息をついた。
「手ごわいなあ、高橋は。泣いちゃおうかな、俺」
「な、泣かないでしょ、先輩は」
「泣くよ、俺だって」
そして、先輩はニッと笑ってみせた。
「色仕掛けがダメなら、次は泣き落としだろう?」
「そんな決まりがあるんですか?」
「あるよ。恋の手順って。……でも、高橋がクリスマスの約束をしてってくれるなら、今日は泣かずに我慢しようかな」
おどけたふうに言いながら、先輩はぼくの顔をのぞきこんできた。
「クリスマス。フォーシーズンあたりにホテルを取って、過ごさない?」
いきなり具体的なホテル名を出されて驚いた。
「そ、そんな……リ、リッチ過ぎ……」
「大丈夫。それぐらいおごれるよ。クリスマスは一緒に過ごそう?」
その時、脳裏によぎったのは去年のクリスマス。古くて小さいツリーの前でファーストフードのチキンを食べて、笑っていたぼくと東。
「……それとも」
すっと先輩の目が細くなった。
「クリスマスまでに東とよりを戻す算段でもある?」
それはなにかぞっとするような冷たさを秘めた声だった。
「あ、ありません! そんな……東とはずっとしゃべってないし、そんなこと……!」
「そう」
いつもの快活さを取り戻して、先輩はにこりと笑った。
「じゃあクリスマスの高橋は押さえたからね。ダブルブッキングはしないように」
「……はい……」
ぼくは先輩の黒い瞳に促されて、小さくうなずいていた。
なにをやってるんだろう。
自分がダメダメな気がする。
考えなくちゃいけないと思ってマスターに会いに行って、話を聞いて。でも、結局その後も、ぼくは先輩のペースに引きずられるばかりで。
ダメだ。全然、しっかりできてない。
反省と自己嫌悪いっぱいで月曜を過ごし、火曜日。
今日こそはしっかり東と話そうと心に決めて……そう、どれほど嫌な顔をされようと、どれほど冷たい言葉を投げられようと……とにかく東と話さなきゃいけないと心に決めて、ぼくは学校へ行った。
その日は午前の3講目に必須の第二外国語が入ってたから、月曜は姿が見えなかった東も来るにちがいなかったから。
そして、思ったとおり、東は講義室に姿を見せたけれど……。
その右腕は痛々しいほど真っ白な三角巾で、肩から吊られていた。
つづく
*先のJ庭でいただいたブラウニーを勝手に使わせていただきました。
メールアドレスが確認できず、御礼を申し上げそびれておりましたが、とても美味しくいただきました。
大変遅くなりましたが、心より御礼申し上げます。