ぼくたちの真実の証明<7>
「うっわ、派手。東、どうしたん、それ」
誰かが大声で聞き、東はぶすくれた顔で、
「ケンカ」
短く答えた。
「ケンカって……それ、骨折れてんの? 骨まで折れるケンカってなんだよ」
東の眉間に深くシワが寄ったけれど、
「なあなあ。なんで骨折れたんだよ」
好奇心丸出しなのが数人、周りに集まって根掘り葉掘り聞き出そうとする。
「うっせーな。相手がドンペリ、振り回してきやがったんだよ」
東の不機嫌にもめげず、
「うわ、もったいねー!! ドンペリでケンカすんなよなー!」
そう周りが騒ぎ出したところに教授が入って来た。
東は不便そうに左手でカバンの中からテキストとノートを引っ張り出す。
一瞬だけ、迷ったけれど……。
自分の机の上のものをぱたぱたと集め、ぼくは最後列にいる東の隣に移るため席を立った。
「手伝う」
横に座ったら、
「来んな……」
東は嫌がったけれど、すぐに教授が講義を始める声が響いて来た。
講義の間中、すぐ隣にいるぼくを東は無視し続けた。
左手でぎこちなくノートを取っている東に、見えるようにノートを差し出しても無視。辞書を貸そうと差し出しても無視。
そんな東の態度にヘコみそうになりながら、でも、講義が終わった時に、ぼくは東のテキストとノートを東のカバンの中にしまおうとした。
「手ぇ出すな!」
短く低く、東が制止の言葉を放つ。
「……手伝うって言ったろ」
ぼくは手を止めなかった。と、あいた左腕を、東はカバンの上に叩きつけた。
「おまえの手伝いなんか、いらねえっつってんの」
茶褐色の瞳が怒りに光ってぼくを射る。
級友たちがこちらを気にしながら脇を抜けて講義室を出て行く。
「……わかった」
しばらくそうして東と睨み合ってから、ぼくは手を引いた。
自分のカバンを片付ける。東はやっぱり不自由そうにカバンを肩にかけると立ち上がった。
「待って」
続けて立ち上がって、ぼくは東の背に声をかけた。今日こそはしっかりと東と話をしたい。
東がゆっくり振り返る。
「話がしたい」
ぼくたちを残して、最後の一人が講義室を出て行く。ぱたんとドアが閉まる音がした。
「俺はおまえと話なんかしたくない。顔も見せんな」
言い捨ててまた背を向けようとする東の腕をつかんで引き止めた。
「待ってよ! ぼくはきちんと話したいって……」
「だから、俺はおまえなんかと口ききたくねえっつってんだろ」
「じゃあ、どうして!」
腕を振り払おうとする東に、ぼくは叫んでいた。
「この前、キ、キスマーク、怒ったんだよ!」
ぼくのトレーナーの襟元を指先で広げ、東は先輩がつけたキスマークを見つけた。
「あの時…東、怒っただろ。怒ったから、ぼくに顔を見せるなって言ったんだろ!」
顔を見せるな、殴るって東は言った。
「もう、ぼくのことなんかどうでもいいなら、あんな怒る必要ないじゃないか! お、怒ったんだから……見て怒ったんだから、ちゃんと話そうよ!」
自分でもなにを言ってるのか、よくわからない。
だけど、あの時、東が怒って……ぼくはつらいはずなのに、なぜだか胸がざわめいた。それは……嬉しかったからだと思う。東が嫉妬してくれているようで。まだ東の気持がぼくに残っているかのようで。
東のあの怒りが嫉妬で、ぼくが東に嫉妬されて嬉しいなら……ぼくたちはやっぱりきちんと話さなきゃいけないと思った。……だけど。
「うぜ!」
東は備え付けの椅子をガッと蹴りつけた。
「なんで今さら俺とおまえが話なんかしなきゃなんねーんだよ。俺は口もききたくねーつってんだろ! おまえみたいな……」
言いかけて一瞬、言葉を詰まらせてから、東はその言葉を吐き出した。
「おまえみたいな、淫乱と!」
淫乱――喉の奥にいきなり詰め物でもされたかのように、息が苦しくなった。声が出ない。
「淫乱」
東は繰り返した。
「チンポ突っ込んでくれりゃ相手は誰でもいいんだろ。男がいればいいんだろ。誰でもいい、男が乗っかってくれればアンアン喘ぎまくって腰振って喜んでる、そういうのを淫乱って言うんだよ!」
手足がすーっと冷えていく。東の言葉はひどかった。ひどかったけれど、嘘じゃなかった。ぼくは本当に特別な感情を抱いているかと問われたらYESと言い切れない先輩相手に、一度ならず、乱れに乱れた。
「話……なにを今さら話すことがあんだよ。それともなに?」
目を細めた東が息がかかるほど近くに顔を寄せてきた。
「河原のチンポだけじゃ足りないのか? 俺のもやっぱり欲しくなったか?」
きりっと胸に痛みが走った。ちがう、ちがう! だけど、ちがわない!
言葉が出ないまま、ぼくは東の頬をぶっていた。
パシッ! 乾いた音が響いた次の瞬間、パンッ! ぼくの頬にも衝撃が走っていた。
叩いて、叩き返されて。
叩かれた痛みも、東がケガ人であることも、なにも感じなかった。
ぼくはもう一発、思い切り東の頬を打った。
反射的に東の左腕が動いたけれど、その腕はもうそのまま動かない。
動かないその腕が急速にぼやけて見えた。
東の言うとおりだった。ぼくは先輩に抱かれてアンアン言ってた。快感に躯が蕩けそうで、たまらなくて、自分から腰を振った。だけど……だけど! 事後の余韻もけだるい時間も、ぼくは先輩と分け合うことができなくて。……東と抱き合ったときの心地よさばかり、思い出されて。
ぼくは先輩に抱かれて喘ぐ。だけど……だけど!
「……いいよ……わかった……」
ぼやけた視界に映る東の整った白い顔。
淫乱とののしられて、なんの反論もできないところで、ようやく痛切に自覚する。
ぼくは君が好きだ。
東が好きだ。
先輩に抱かれて、気持ちよさによがり声を上げ、身悶えするけれど。
あたたかさを分かち合いたいのは君と。抱き合って笑い合っていたいのは、君と。
君が、好きだ。
「ぼくだって、おまえなんか、大嫌いだ」
――大好きだ。
東の顔から怒りの気配がすっと消えた。
「……は。今さら」
自由な左腕で軽く肩をすくめると、
「だから話しかけるなっつってんだよ」
東はぼくに背を向けた。
ドアを出て行く東の背を、ぼくは唇を噛んで見送った。
なんでこんな、プリミティブでシンプルな言葉を忘れていたんだろう。
好き。
好き。
ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ、考えるばかりだった。自分の中に湧いてくる色んな感情に振り回されるばかりだった。
一番、大事で、一番、根っこにある気持ちのことを忘れていた。
セックスは気持ちいい。簡単に快感に流されるぼくは、東の言うとおり、淫乱だ。
非難されて追い詰められて、ようやく気がつく最低さ。
好き。
それだけでよかったのに。
マスターのことだって、東のことが好きだったからショックだったんだ。手が届かない東の過去さえ許せないほど、ぼくは東のことが好きだった。
講義室の壁に背もたれて、ぼくは自分の手を見つめた。
「叩いちゃった……」
骨折した腕に響かなかっただろうか。
叩いたら、叩き返された。
時計を投げつけられたことはあったけど、東に手を上げられたのは初めてだった。
あまり痛くなかったのは、興奮してたせいもあるだろうけれど、左手だったせいもあると思う。東の右手が自由だったら、もっと痛かったろう。
……痛くてもよかったのに。
もっと痛くて、もっとボロボロにされちゃえばよかった。
今頃、気が付くなんて。今頃、思い出すなんて。どれほど自分が東を好きか。淫乱とののしられても反論のしようもない、取り返しがつかないことをした後に、ようやく思い出すなんて。
ぼくはバカだ。バカだ。
ずるずると壁際に座り込むと、ぼくは膝に額を押し付け、うずくまった。
どれほどそうしていたか。
シャツの胸ポケットに入れていた携帯が鳴り出して、ぼくは際限のない自己嫌悪から顔を上げた。
携帯には父の携帯からの着信であると表示されている。
……こんな時間に、父から連絡をもらうことなんてなかった。
「はい。とうさん?」
「秀か!」
焦って上ずった父の声が流れ出してきた。
そこから先の記憶は途切れ途切れだ。
手術室の前のやたらがらんと広い廊下で、冷たい空気の中、ベンチに座り込んでいる父の姿を見るまで、やたらと焦って走っていたことしかぼくは覚えていない。
「秀……」
立ち上がった父の躯が、スーツの中で小さくなっているように見えた。
「かあさんは……!」
「今、手術中だ、今」
何度も小さくうなずきながら父が手術室を振り返る。
「事故って、いったい、どうして……」
携帯への父からの連絡は、母が交通事故に遭い、救急車で近在では一番大きな総合病院に運び込まれたというものだった。
「おにいちゃん! おとうさん!」
後ろから妹の声がして、軽い足音とともに高校の制服を着たままの雅が駆け寄ってきた。息が切れている。高校に父が入れた連絡を聞いて、やっぱり飛んで来たんだった。
「横断歩道で……かあさんの信号は青だったのに、左折のトラックが突っ込んで来たそうだ」
父がそれでも冷静な言葉で事故の様子を説明してくれる。
「かあさんは自転車ごと跳ね飛ばされて、出血はさほどなかったが、もう最初から全然動けなかったそうだ。救急車で運ばれて、検査したら、頭蓋と腹部に出血が認められて……今、おなかと頭を開けて手術している」
いや!と、雅が小さく悲鳴を上げる。
「おかあさんは!? おかあさんは!?」
もう泣き声になりながら、妹は父にすがりついた。
「レントゲンで、見たままなら、頭蓋の出血はかなり局所的で、出血自体が止まっていれば血腫を取り除くのはさほど難しくないだろうという話だった。腹部はおそらく、内臓のどこかが傷ついているだろうということだったが、開腹して部位を特定できたら、後は処置するだけだそうだ」
「じゃ……じゃあ、おかあさん、死なないね!?」
父はまた小さく何度もうなずいた。
「処置が……処置がうまくいけば……それほど難しい手術にはならないだろうと……」
でも、それは見込みで、もし、出血が止まらなかったり、処置に手間取るようなら、どうなるかはわからない……。
父の言外の不安はぼくたちにも伝わってきて、雅がすすり泣いた。
「……大丈夫だよ」
ぼくは雅の肩を両手で抱いた。ベンチへと誘う。
「最初から危険なら、お医者さん、そう言うよ。大丈夫な見込みのほうが多かったから、お医者さん、とうさんにそう言ったんだよ。きっと、大丈夫だよ。かあさん、大丈夫だよ」
大丈夫、大丈夫を呪文のように繰り返しささやきながら、ぼくは雅の手を握った。
その手は細かく震えている。
雅の不安はそのままぼくの不安だった。
4時間、ぼくたち父子は手を取り合って不安と戦った。
途中で看護士さんが暖房のあまりきいていない廊下から、こざっぱりした客間のような待合室にぼくたちを案内してくれた。
その部屋で、ぼくたちは手術の詳細と成功の報告を医師から聞いた。
「右の腎臓を摘出しなければなりませんでしたが、腹部の損傷はほかにありません。頭部の血腫もきれいに取り除くことができ、外から確認できる限り、脳に損傷はありませんでした。脳波も正常ですから、意識が戻ってみなければ確定はできませんが、おそらく大丈夫でしょう」
ほおっと父が安堵の溜息をもらした。
「じゃあ、おかあさん……母は助かるんですね!?」
雅が急きこむように尋ねる。
「はい。後遺症の心配はまだ若干ありますが、命の危険はないと思います」
よかったあ、雅が叫ぶ。
「母に、会えますか」
ぼくが尋ねると、医師はにっこりうなずいた。
「しばらくはICUで容態を見守りますので一般病棟とちがいますが、短い時間なら面会できますよ。麻酔が切れるまでは意識はありませんが」
そうしてICUに見舞った母は、白いシーツの中で目を閉じていた。
頭部の手術のためだろう、母の頭部はきれいに剃られ、細いチューブや管が幾本も身体から出ていた。
「おかあさん……」
頭部はキャップで包み、入室時に殺菌された白衣に身を包んだ雅が泣くような声を上げた。
ぼくも声こそ出さなかったけれど、母の姿に胸が詰まった。
命は助かると聞いてはいても、朝見た姿とはあまりにちがう母の姿に目頭が熱くなる。
とうさんはシーツから出ている母の手をぎゅっと握り締めていた。
なにしろ突然のことで、それからが大変だった。
雅とぼくは急いで家に帰り、看護士さんに教えてもらった入院の支度に走り回った。雅はそのまま家の仕事を片付けるために残り、ぼくはカバンをいくつも抱えて病院にトンボ帰りした。
ICUにいる父に当座の荷物と着替えを渡したところで、入院の手続きに不備があったとかで、事務局に行くように連絡を受けた。
「いいよ。ぼくが行って来る」
と、父を制したのは、たった半日でげっそりやつれたように見える父が心配だったからだ。
手続き漏れは会計に申告することで簡単に済んだ。
事務局と薬局、受付のある一階ロビーは午後の診察を受けに来たように見える人たちでざわついていた。
その中で、
「あれ? 高橋?」
聞き覚えのある声に振り向けば、同じテニスサークルに所属している清水だった。学部はちがうけれど同じ一年だ。
「おまえ、診察? どっか悪いの?」
「あ、ううん……」
「俺はばあちゃんがここに入院しててさ、見舞い。おまえも?」
聞かれて、手短に母が事故で入院していることを話した。
「命に別状はないって。とりあえず安心してるとこ」
「そっかー。大変だったなー」
悪気のない声で清水は言い、あのさ、と切り出してきた。
「こーゆーの、聞くのどーかなーって思うんだけどさ、」
なに?と目顔で問えば、
「おまえさ、最近、東とうまくいってない?」
触れられたくないところにいきなり切り込まれた。
まあ、夏休み明けにサークルのみんなの前で東と付き合ってるってカミングアウトしちゃったのは自分だから、仕方ないんだけど。
「おまえらと語学クラスが一緒のダチがいんだけど、そいつがさー、おまえら別れたみたいとか言うからさー」
なんて答えよう。ぼくは困ってうつむく。
「……あー。やっぱマズイんだ?」
ぼくの顔色を読み取ったらしい清水が溜息をついた。
「なんつーかさ、勝手な言い分なんだけどさ、俺、おまえらにはがんばってもらいたいっていうか、ちゃんと付き合っててほしいっていうか」
意外な言葉に目が丸くなった。
「いや、ほら、男同士だろ。おまえがカミングアウトっていうの? みんなの前で付き合ってます宣言した時にはビビッたけどさー、なんつーか、男と女のカップルでも見ててムカつくカップルもあれば、ほほえましーなーつーか、応援したくなるようなカップルもあるだろ?」
照れたように清水は頭をかいた。
「最初は、げえホモかよーって思ってたんだけど。おまえら見てると、なんつーか、あれ、けっこういいんじゃね?とか思えてさー」
だからって俺は男と付き合いたいとかは思わないけど、と清水は付け加えて、
「やっぱいろいろ障害はあると思うんだけどさ、ほら、クラスでも冷やかすヤツとかいると思うし。けど、俺としてはメゲずにがんばってほしーなーつーか、応援したいっつーか。まあ、こういうのが余計なおせっかいなんだとは思うんだけど」
そう締めくくった。
じわりと胸にあったかいものが湧いた。
「……ありがと、清水」
小さく感謝の言葉を口にしたら、清水は少しだけ赤くなった。
「え……あ、いや、うん。余計なこと言ってゴメンな」
全然余計じゃなかった。ぼくと東のことをそんなふうに思ってみてくれてた人がいたと知ることができただけで、すごく励まされた気がした。
――淫乱
――大嫌い
別れた後もひどい言葉をぶつけあうしか出来ない、ぼくと東だったけれど。
母はその晩のうちに意識を取り戻し、二日後にはナースセンター横の特別室に移ることができた。予後がよければ、さらに二日後には一般病棟の個室に移ることが出来るという。
とりあえず一安心、とは言うものの、やはり何本も点滴の管を腕に差したまま、腹膜が癒着してしまうといけないということで、体位交換を行うたびに顔をしかめて呻く母を見ているのはつらかった。
母が事故に遭ってたった三日だったけれど。事故前の日常生活が思い出せないような気がした。平和でなんの心配もなかった毎日が嘘のように幸せだったのだと感じられた。
命の心配はもうないと医者は言ってくれたけれど……眠っている母の顔を見ると、このまま目を覚まさないんじゃないかと思えてきて、怖かった。もしかしたら二度と生きた母とは会えないかもしれない、手術が終わるのを待つ時間にいやというほど味わった恐怖を思い出すと、震えが来た。
それは夜だった。
面会時間いっぱいまで病室で過ごしている父に頼まれて、ぼくは近くのコンビニまで母の枕元に置くウエットティッシュを買いに出た。
時間外出口から病院の中に戻り、でも、ぼくの足はエレベーターホールとは反対の、昼の混雑が嘘のような暗いロビーへと向いた。
ここ数日で父はすっかりやつれてしまった。雅もすぐ泣く。ぼくまで引きずられてしまうわけにはいかなくて、病室でぼくは努めて明るく振舞っていた。大きなガーゼの貼られた、剃髪された母の頭、何本も点滴の針が刺さる腕。薬が切れるのか、時折漏れる、母の呻き声。
何列も並ぶロビーの椅子の、一番端に腰掛けた。膝に肘をつき、額を支える。
……どうってことない。かあさんはすぐ元気になるし、とうさんだって雅だって、かあさんが退院したらすぐに落ち着くだろう。……どうってことない。
自分に言い聞かせる。
誰かにほんの少し、甘えたくなっている自分に気づく。どうってことはないけれど……少しだけ、少しだけ、「大変なんだ」って言いたい。「疲れてないか」って言われたい。
携帯を取り出した。
病院にいる間は電源を切るようにしているけれど、無人のロビーなら少しはいいだろうか。
思い切って電源を入れたら、ここ数時間に先輩からの着信とメールが何件も入っていた。
あ、と思った次の瞬間だった。
ロビーに着信音が響いた。
慌てて出る。
「……もしもし」
「高橋?」
数日ぶりに聞く河原先輩の声だった。
「どうかしたのか? ちょっと実験のほうが落ち着いたから連絡したんだけど」
「すいませんでした。今、病院にいて……」
「病院?」
驚いた声の先輩に事情を話した。
「それで今は病院と家を行ったり来たりで……」
「そうか、」
先輩のほっとしたような声が言う。
「大変だったな。でも、おかあさん、大丈夫でよかったな」
「……ええ」
なにか喉に詰まるようなものを覚えながら、ぼくは声を押し出した。
「お医者さんも、あれだけの事故でこれだけの怪我ですんだのは運がよかったって」
「もう少し落ち着いたら、俺も見舞いに行こうか」
「そんな……いいですよ、先輩も忙しいし……」
「でも高橋にも会いたいし」
「…………」
ぼくの沈黙をどう解釈したのか、
「悪かった。不謹慎だったな、こんな時に」
先輩はすぐに口調を改めた。
「いえ……」
「なにか手伝えることがあったら遠慮なく言えよ? じゃあまた。連絡する」
「はい。……じゃあ、また」
通話を切って、ぼくはぎゅっと目を閉じた。
……東への気持ちを認識して、その上で先輩に甘えられるわけがない。『また連絡する』、先輩がそう言ってくれてよかった。慌てて駆けつけてくれなくてよかった。顔を見たら弱音を吐いてしまうかもしれない。甘えられない人に甘えてしまうかもしれない。そうならなくて、本当によかった……。
だいたい。
先輩の言う通りなんだし。かあさんは『大丈夫でよかった』んだし。見舞いはもう少し落ち着いてからするべきものだし。
目を開いて、手の中の携帯を見つめた。
……すごいタイミングだった。あのまま先輩からの電話がなかったら、ぼくは誰に掛けるつもりだったんだろう……? ぼくは誰に甘えようとしてたんだろう……?
その時。床の鳴る、きゅっという音がかすかに聞こえた。
顔を上げた。
ぼくに向かって近づいてくる人影。
ロビーの落とした照明に浮かぶ、特徴のあるヘアスタイルと片腕が妙に突っ張ったシルエット。
ぼくの顔は疑問符だらけになっていたにちがいない。
「……清水に聞いてさ」
ぼくの前を回りこんで隣にどさりと腰を下ろすと、東はぶっきらぼうにそう言った。
「あ……お、お見舞いに来てくれたんだ?」
東は短く、
「おまえのな」
そう答えた。
「今、上行って、おじさんに会った。……大変だったな」
東の口調にも瞳にも、柔らかなものが混ざりこむ。
「じ、事故の割には軽傷ですんだんだって。かあさんは運がいいって、お医者さんも……」
東は嫌味な感じじゃなく、小さく笑った。
「ばーか。運がよけりゃ最初から事故になんか遭わねーっての」
何ヶ月ぶりだろう。東の笑顔。ばーかって、少し甘く、少し意地悪く響く、言い方。
「……そ、だよね。運がよかったら、事故らないよね……」
笑顔が泣き顔になりそうで、ぼくは慌ててうつむいた。
「で、でも、よくわかったね、ぼくがここにいるって」
「……病院って、めげるだろ」
東が膝に左肘をついてぼくの顔をのぞきこむ。
「白いベッドで寝てられると、このまま目を覚まさないんじゃないかって怖くなるだろ」
小学校四年生の時だったって聞いた。東のおかあさんが病気で亡くなったのは。
「俺もさ、よくロビーに逃げ込んでたから」
またふっと東の瞳が柔らかくなった。
「……疲れたろ」
ううんって言おうとしたけれど、声が出なかった。
「ちゃんと食ってるか?」
うんって声を出す代わりにうなずいた。
「おばさんが元気になったら、すぐに、あの時は大変だったわねーって思い出話になるからさ。大丈夫だから」
また、うんってうなずいた。
涙が勝手に溢れ出す。緊張の糸が緩む。
「……おまえさ、」
少し戸惑いの見える声で東が言う。
「大嫌いな男の前で、そういうふうに無防備に泣くの、やめろよ」
ちがう。大嫌いなんかじゃない。
声を出すと大声で泣いてしまいそうで、ぼくはなんとか首を横に振った。
ちがう、ちがう。嫌いじゃない。
「……泣くなって」
優しい手に頭を引き寄せられた。肩口に顔を押し付けられる。
懐かしいあたたかさと匂い。
ぼくの涙はもう止めようがなかった。
今ならわかる。
あの晩、マスターの弟さんが亡くなったあの晩、東がぼくを放り出して出て行ったわけ。
東は知ってたんだ。
入院中の家族を抱えるしんどさを知っているように、家族を亡くす哀しさも。
あの時、ぼくを置いて出て行った東と、あれだけひどい言葉を投げ合って傷つけ合った相手のところへ、こうして様子を見に来てくれる東の間には、なんの矛盾もない。
ごめん。ごめん、東、ごめん。
あの時のぼくには、わからなかった……。
ぼくのしつこい涙が止まるのを待って、東は立ち上がった。
「じゃあな。あんまり気張り過ぎんなよ」
引き止めたい衝動のままに、ぼくは東のジャケットの裾を握り締めた。
「こ、この前!」
なにかしゃべらなきゃいけないと、慌てて口を開く。
「ひ、ひどいこと言って、ごめん!」
「……まあ、あれはお互い様だろ」
そして東はふっと息をつくと、顔を引き締めた。
「お互い、嘘は言ってねーし」
東が身を引く気配に、ぼくはやっぱり慌てて首を横に振った。
「ぼくはちがう! ぼくは……」
大事なことを言いかけたその時、
「おにいちゃん!」
雅の声が飛んで来た。
「あーっ! 東さん! お久しぶりですぅ! きゃあ、なにその髪、その腕!」
走ってきた雅は東の白い三角巾で吊られた右腕と変わった髪形に叫び、ぼくを振り返った。
「おにいちゃん、ちっとも帰って来ないから、おとうさん、心配してるよー! 面会時間、終わっちゃうって」
本当だった。
「急いで荷物、おとうさんに届けてよ。あ、東さん、もう帰っちゃうんですか?」
「うん。またお見舞いに寄せさせてもらうし」
「ホントですよー。今日はどうもありがとうございましたー」
雅は明るい声で東を送ると、ぼくの背を早く早くと押しやった。
「あ、東!」
身をひねるようにして、ぼくは声を上げた。
「今度、もう一度きちんと謝らせて!」
東はちらりとこちらを振り返ると左手を上げた。
「わりーけど。俺は謝らんから」
いいよ。それでいいよ。
後ろから雅が顔を出した。
「おにいちゃん、東さんとケンカしたの? 荷物、わたしが持ってくよ? 追っかけたら?」
「……いいよ。今度ゆっくり話すから」
そう。ゆっくり、全部、謝る。そして。告げる。きちんと。君が好きだと。
君に謝ってもらえなくても。君に、もう嫌いだと言われても。
ぼくは告げたい。
――でも、その前に。
ぼくにはやっぱりきちんと謝らなきゃいけない人がいる……。
かあさんが、一般病棟の個室から、さらに二人部屋に移れた日。
久しぶりに先輩から連絡があった。
「今度の日曜、ようやく休めるんだけど」
ぼくはひとつ、深呼吸した。
もう何日も前から、言うべきことは決めてあった。
「先輩。ごめんなさい」
「なに。いきなり謝られるのは怖いな」
笑い声の先輩に、ぼくはゆっくり、しっかり、その言葉を告げた。
「ぼくと、別れて下さい」
つづく