ぼくたちの真実の証明<9>
 





 先輩と別れる。ぼくは心を決めた。
 電話で別れたいと告げたら、先輩に「そういう大事な話は顔を合わせてするべきだよ」と言われた。「別れて下さいって言われて、ハイそうですかとは言えない」とも。
 だからぼくは先輩と最後の話し合いをすることにした。
 日曜日はかあさんが入院している今、山のように家の用事があったから、月曜の講義後に約束の時間を決めた。込み入った話になるかもしれないから先輩の部屋に来るように言われたけれど、地下鉄でも行けるフラワーパークで会うことにした。あそこなら広々としてるから人目を気にせず話すことができるんじゃないかと思ったからだ。それに……正直言って、密室で先輩と二人きりになって、先輩のペースに巻き込まれない自信がなかった。にっこり笑顔とともになめらかに紡がれる言葉を聞いていたら、二度と見失うまいと思っている大事なものを、ぼくはまた見誤ってしまうかもしれなかった。自分でも情けないけれど。自分の足元の脆弱さを自覚したら、別れ話を先輩の部屋でするわけにはいかなかった。
 そして、ついに、その日。
 講義が終わった後、午後の日を背中に浴びて地下鉄の駅へと向かいながら、ぼくは心臓がドキドキいうのを覚えていた。初めて知った、別れ話を切り出す重苦しいプレッシャー。
 ――東と別れた時は……話の流れというか、場の勢いというか……もうこれ以上つきあえないよ、さあ、きちんと話し合おうって流れじゃなく、話してる間に、やっぱりダメなんだって思い知らされる形で別れが来たから、こんなシチュエーションはぼくにとっては初めてのものだった。
 かなり緊張もしてたんだと思う。
「あー! いいとこで会ったあ!」
 前方から突然声をかけられた時、ぼくは思い切り肩を揺らしてしまった。
「なになになに! なにビクついてんの! 久しぶりじゃーん!」
 ツンツンとあちらこちらに向かって突き立つ毛先は、今はブルーに染まっている。タケシは馴れ馴れしくぼくの肩に手を置いた。
「会えてよかった〜。話があんだよ。な、な、時間ない?」
 タケシはそう言うと、数軒先のバーガーショップを指差した。先輩との待ち合わせにはまだ充分時間があったし、
「洋平とあんたの先輩のことなんだけど」
 とまで言われては、断るどころか、こっちから「なんの話?」と聞きたくなる。
「いいよ」
 ぼくはタケシと共に、そのバーガーショップへと足を向けた。
 
 
 
 
 
「アンタさあ、まだあの南の王子様と付き合ってんの?」
 バーガーショップの窓に向かったカウンター席に並んで座ると、タケシはそう切り出した。
 確かに河原先輩には南洋の王子様な雰囲気があるけれど。
「イケメンっちゃイケメンだけどさ、あいつはよくないよ、怖いよ〜きっと」
 怖い。その言葉に引っ掛かった。
「怖い、って?」
「あいつさ、洋平に会いに来たの、アンタ、知ってる?」
「え、先輩が東に会いに!?」
 思わず声が大きくなった。
「二週間ほど前かなあ、俺らがツレでたむろってる店にさ、アンタの王子様が入って来て、洋平と話したいっつーわけよ」
 タケシは顔を寄せてくると声をひそめた。
「洋平がニコニコ相手するわけないじゃん? 出てけとか知らねーよとか言うじゃん。そしたらアンタの王子様、兄弟がどうの、どっちが兄だか弟だか、言い出したんだよ。あの顔でニッコ〜って笑いながら」
 兄弟。
 俗説に、同じ女性と関係を持った男性同士を穴兄弟と呼ぶという話は聞いたことがあった。
 はっとしたぼくに、
「そうそう! そういう意味!」
 タケシは意味深にうなずいた。
「それで洋平も仕方なく、二人で奥のブースに行ってしばらく話してたんだけどさ。なにを言ったのかなあ、洋平がマジギレしちゃって。もうすごい険悪なわけよ。ガシャーンってグラスは割れるし、洋平は殴られたくなきゃ出てけって凄むし。みんなで止めたさ。
 アンタの王子様は笑いながら出て行ったけど、あそこまで人を怒らせといて笑えるって、逆に神経いっちゃってんじゃねーのって感じでさあ」
 アブナイ、アブナイ、とタケシは口の中で繰り返した。
「なにを言われたのか、洋平は全然話してくれないんだけど、もうむっちゃ不機嫌でさ。店にいたほかのグループにケンカ売っちゃって。アンタ、最近洋平に会った? 腕、折れてたろ? そん時だよ、ケガしたの」
「……ドンペリの瓶でって……」
「そそそ! ガーンって振り下ろされて、洋平が頭かばって腕で受けたんだけど、やな音してさあ。そんでも洋平、医者に行こうとしねえから、もう引きずって連れてったさ」
 そうだったんだ……。
 あのケガはそんな理由で……。
「悪いこと言わないからさあ。別れなよ。ああいうスカしたタイプは怖いぜえ? 洋平のほうがいい男だと思うぜ、俺は」
「……でも、タケシは東と付き合いたいんじゃなかったっけ?」
 以前、タケシは東をカノジョにしたいって言っていた。ぼくが東と付き合っている時も、「アンタが欲しいのは棒だろ? 俺が欲しいのは穴だから」なんて不思議な理屈で、ぼくに東との仲を取り持つように頼んで来たことがある。
 今、東が誰とどう付き合っていようと、ぼくはあれこれ非難できる立場じゃないけれど……。
「あーん……」
 意味不明な音を発して、タケシはぐるぐるとシェイクをかき回した。
「なんつーか、今の洋平は可愛くないっつーか……いや、ダチやってる分にはいいんだけど、こうイマイチもよおさねーっつーか……。あの髪がよくねえと思うんだけど。なあ、アンタからもまた髪伸ばすように言ってやってよ」
「やだよ」
 即答したら、タケシはちぇっと唇をとがらせた。



 
 
 タケシとのそんな会話の後。
 フラワーパークの大きな花時計を眼下に一望できる広い通路で、ぼくは先輩と落ち合った。
 顔を合わせるのは三週間ぶりだったけれど、先輩はいつもと変わらぬ笑顔で、ぼくに「やあ」と手を上げた。
「久しぶりだね」
「はい」
「今日はあったかくてよかったね」
「はい」
「お母さんはその後、どう? 落ち着かれてる?」
「はい……今週末には退院できるだろうって先生が……」
「それはよかったね。でも、大変だろう? 洗濯やご飯の支度は誰が?」
「えっと……ご飯は妹が作ったり、ぼくが惣菜買ったりして……」
 言いかけてぼくは口をつぐむ。こんな話をするために、待ち合わせたんじゃなかった。腹をくくって、ぼくは顔を上げた。
「先輩。今日は、大事な話がしたいんです」
「あれ? ご飯作りや洗濯も大事な仕事だと思うけど?」
 からかうような先輩の声に、でも、ぼくはもう惑わされなかった。正面から先輩の瞳を見つめる。
「ぼくと別れて下さい」
 一音一音、はっきりと告げたけれど、先輩のおだやかな表情には微塵の翳りも差さなかった。
「もう、別れられないって返事はしたと思うけど?」
 あまりにあっさり言い返されて、瞬間、言葉に詰まる。
「俺は高橋と別れる気はないよ」
 小刻みに、ぼくは首を横に振った。
「先輩には……申し訳ないと思います。だけど、だけど、ぼくはもう……」
「じゃあ一応、理由を聞こうか」
 色とりどりの花が綺麗な幾何学模様を描いている花時計をバックに、先輩はゆったりと柵に背もたれた。
「聞いてやるよ。別れたい理由はなに」
 表情にも態度にも変化はなかったけれど、今度の先輩の声にはなにか冷たく堅いものが含まれているように聞こえた。その口調の微妙な変化に、なぜだか背筋がぞくりとした。怯えにも似たその気持ちを押さえつけ、ぼくは改めて先輩に視線を向けた。
「……ぼくは、やっぱり、東が好きです。その自分の気持ちに気づいて……これ以上先輩と付き合うことは……」
 できないから。そう言いかけたぼくの言葉は、先輩の笑い声にさえぎられた。
 先輩は本当におかしそうに身をふたつに折って笑っている。
「なんだ」
 くつくつと笑いを収めきれないまま、先輩はぼくを見上げた。
「そんな理由か」
「そんなって……!」
 思わず声を荒げかけて、ぼくを見る先輩の目の色にぼくは続く言葉を呑んだ。先輩の黒い瞳は今まで見たこともないほど、意地悪な……いや、意地悪を通り越した悪意に近いものすら含んで光っていた。
「高橋が東を好きなのは、もう最初から変わらないじゃないか。一度でも高橋の気持ちが東じゃなく俺に向いていたことがあったか? そんな今さらなことを持ち出されても、別れの理由にはしてやれないね」
「…………」
 ぼくはなにか言おうとして口を開き、声を発することもできないままにまた閉じた。そんなぼくの様子を、先輩は意地の悪い笑みを浮かべてじっと見ている。
「……もしかして、高橋は本当に気が付いてなかったの? 自分がずっと東を好きなこと」
「ぼくは……」
「ふうん? 高橋、鈍い鈍いと思ってたけど、人の気持ちだけじゃなく、自分の気持ちにまで鈍いんだ?」
 言われている内容もひどかったけれど、それより先輩の声に秘められたどす黒い悪意に傷ついて、手足がすうっと冷たくなっていく。
「可哀想に。その様子じゃ、ほんとにわかってなかったね。自分がずっと東を好きなことも、そもそもあそこで俺がちょっかい出さなきゃ、おまえと東は別れることになってなかったことも」
「え」
 目が丸くなった。
「そうだよ」
 先輩はおだやかにうなずく。
「あの日、俺はわざとおまえの学校に行ったんだよ。その前のメールもね、語学でおまえと東が同じ講義を受けてる直後を狙って送ったの。返事がなかったから、チャンスだと思って行ってみたらさ、東もガキだね、すぐに挑発に乗っちゃって。あれだけ怒ってたら、冷静に話なんか出来なかったろ。頭冷やせば、自分達が別れる必要なんかどこにもない、ただちょっとお互いのことが好きすぎて、だからつらくなってるだけだって、気がつけただろうにね」
 つめたく冷えた手が、細かく震えだす。
 なに、それ、なに? けれど、口から出たのは別の疑問だった。
「先輩……まさか、東を訪ねたのも……」
「ん?」
「東の……友達に聞きました。東の馴染みの店に、先輩が来たって……」
「ああ、」
 先輩は笑いながらうなずいた。
「なかなか楽しい店だったよ」
「まさか……それも、東を傷つけるため……? 先輩、東になにを言ったんですか? 東、その後、大喧嘩して腕の骨、折ったって……」
 あはははは! 先輩の笑い声が響いた。妙に明るい笑い声が、冬の陽に揺れる花々の上を流れる。
「骨折? 最高だね! 俺が手を出していたら傷害罪なのに、勝手にケンカしてくれたんだ!」
「先輩!」
 抗議を込めてぼくは声を上げた。
「そんな、そんな笑うの、やめて下さい!」
「どうして?」
 黒い瞳を細めて、先輩はぼくを見つめた。
「憎い恋敵の不幸を喜んじゃいけないか? 悪かったね、あいにく、それほど俺も人間ができてないんだよ」
「先輩……」
「そうそう。俺が東になにを言ったか、聞いてたね。教えてあげようか」
 黒い悪意を秘めた笑みを浮かべて、先輩はもたれていた柵から身を起こした。触れない程度にぼくの耳元に口を寄せて来る。
「別にたいしたことは言ってないんだけどね。東ももう全部知ってることばかりだし」
「東も……知ってること?」
 不安が一度に胸に広がった。先輩は小声で続けた。
「そうだよ。高橋がどれだけ可愛いか、どれだけ色っぽい声を上げるか……どれだけいやらしく腰を振るか、俺は話しただけだよ」
「……!」
 思わず一歩、飛びすさるように先輩から離れた。まさか、本当にそんなことを!?
「あれ」
 先輩は変わらぬ笑顔で。
「どうしたの、そんな顔して」
 おもしろがるような口調で。
「そんなたいしたことじゃないだろう? 俺は東も知ってることを言っただけじゃないか」
 ぼくの反応をはかるようにぼくを見つめて。
 先輩は次の言葉を口にした。


「本当のことをなにも知らない人間なら、腕を折るよりひどいショックを受けたかもしれないけどね」


 ゆっくりと、先輩の言葉が胸の中に広がった。
 なにも知らない人間なら。
 ひどいショックを。
「あーあー。なんて顔をしてる」
 先輩の手が優しく頬を撫でて行く。
「本当にそんなひどいことはしてないんだけど」
 そう言いながら、先輩はジャケットの内ポケットを探ると携帯を取り出した。
 フリップを開き、いくつかキィを押している。
「……ほら。これは東にも見せてないよ」
 示された画面を見た瞬間、自分の顔色がさっと変わったのがわかった。血が、一瞬で引いた。
 裸で、膝を折り、喘いでいるぼく。
 男の手に乳首を弄られ、いやらしく顔を歪めているぼく。
 深々と男のモノを咥え込んでいるお尻。
 先輩がキィを押すたび、目を覆いたくなるような画像が出てくる。
「どうする? 動画もあるけど?」
「い……いつの間に……」
 肩でなんとか息をしながらぼくは声を押し出した。
「いつの間に……?」
「いつの間って。おまえとセックスしてる間に」
 平然と答えて、先輩は携帯をたたんだ。それをかざすようにして、ぼくを見る。
「どうする? お母さん、大怪我したばかりなんだろう?」
「……脅迫……するつもりですか……」
「さあ? それはおまえ次第だと思うけど」
 先輩はにこりと笑う。
「仲良く付き合っている恋人同士が、自分達のエッチ写真を撮るぐらい、普通にあるだろう? それが二人の甘い思い出の証になるか、人に見られたら困る弱みになるのか……それはその恋人関係次第じゃないか?」
 ぼくは自分の足元を見つめた。なぜ、こんな話になる? なぜ……。
「ぼくは……ぼくは、東が好きです」
「最初に言ったろう? 東のことを忘れられないのは知ってる、それでもいいからって。イエスと言ったのはおまえだよ、秀」
 そうだ。ぼくだ。先輩の交際申し込みに、うなずいたのは、ぼくだ。
「……東が、好きです」
「最初から、わかってた」
「東が、好きです」
「別れない」
 ゆっくりと視線を上げれば、今日初めて、笑みのない先輩の顔がそこにあった。
「俺は、おまえと別れないよ」





 地下鉄に乗っている間に、先輩が「そうだ」と口を開いた。
「携帯のデータはパスワード付きでパソコンにも入れてあるから」
 会話はそれだけだった。
 
 
 
 
 
 シャワーを浴びているあいだも、不思議と涙は出なかった。
 自分が情けなくて、腹立たしくて、それだけでも泣けてきそうだったけれど、涙は出なかった。
 髪の雫をバスタオルで押さえながらバスルームを出ると、先輩はベッドサイドの明かりで本を読んでいた。以前にも見たことがある、黒いセルフレームの眼鏡。
 ぼくの姿を認めると、先輩はゆっくりした動作で上掛けをはぐり、床へと脚を下ろした。
「おいで」
 両脚の間を指さされ、ぼくは床に膝をつく。
 目の前で、パジャマのズボンが下へとずらされる。
 後頭部に置かれた手がうながすままに、ぼくはゆるく熱を持ち出している先輩の股間へと顔を寄せた。

 
 

 

                                                       つづく






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