ガッコやめちまお。
高校二年の夏の終わり、俺は決めた。
ガッコ、やめる。
隣校のヤツらとの喧嘩が原因で、俺は停学をくらった。駅前で派手にやっちまったからしょうがねんだけど、面倒だわ、腹は立つわ、なんだか阿呆らしいわ、俺はあっさり退学を決めたんだ。
ゲーセンまわりでダチとツルむこと覚えて、俺の欠席日数はもう落第が近いとこまで来てたしな。街中で一人になりゃ、俺たちが制服のままタバコふかしてても文句も言えず見て見ぬふりするキョーシらが、学校って枠の中ではいばり散らして、
やれ髪の長さだ、タイの締め方だ、細かいことばっかガタガタ抜かしやがるのに、嫌気が差してもいたし。
俺はあっさり学校やめるって決めたんさ。どーせ親も、おれがサボリきめた時と同じに、ちょっと説教風なこと抜かして終わりだろーよって思ってよ。
ところが、だ。
学校から俺の退学届けを受理したとか連絡が来やがったその晩、俺は親父に呼び付けられた。でん、と胡座かいて座った親父の前に、冷や酒の入ったコップがないのを見て、俺はちょっと驚いた。酒を飲んでない親父を家で初めて見たからだ。
「亮太」
親父は酒で潰れたダミ声で俺を呼ぶと、いきなり手を突き出して来た。
「金、返せ」
飲んでねえのに酔ってやがんのかクソ親父、と俺は思った。けど、ちがったんだ。
「高校入る時に払った、おめえ、入学金、今すぐ耳そろえて払いやがれ」
目をぱちくりさせてる俺に親父は言った。
「おりゃあな、おめえにやってる小遣いやおめえにかかる金はしょうがねえと思ってる。そういう金も出すのが親になったモンの務めだからな。けどな、亮太、おりゃあ、親の務めでおめえの高校の入学金を払ってやったわけじゃあねえ。あれはな、
おめえに投資したんだよ。おめえが『高校卒業』って資格を取れるようによ、投資したんだ、わかるか」
むっと来た俺は言い返した。
「投資ぃ? 知るかよ、ンなの……」
おめえらが勝手に産んどいて、やれ勉強しろの高校は出ろの言うから俺は進学したんで、いまさらそれが高校卒の肩書に投資したんだとかぬかされても知るかよって、俺はとうとうと続けるつもりだったんだが。
「亮太!」
すんげえ勢いで怒鳴りつけられて俺は我知らずヒッと息を飲んですくんだ。
これはな、なにも俺が弱虫だからじゃねえ。 俺の親父は大工の棟梁なんてやっててよ。現場仕事の人間の気の荒さっつうか、一癖二癖ある大工どもを束ねてやってく押しの強さってか、そういうのがあるわけよ。でっかい目をむかれてよ、
野太い声で怒鳴られてみ。誰でもすくむぜ。
もういい年だろうによ、日に焼けて赤銅色した肌に、腕も腹も筋肉がちゃあんと盛り上がってやがる。仲間内じゃあいい体格が自慢の俺も、見かけ倒しの肉の付き方なのを自覚してるから、いまだに親父と殴り合いたいとは思わねえ。
「てめえ、何様のつもりだ!」
低く親父がすごむ。俺はごくりとツバを飲み込んだ。
こんなふうに親父にどやしつけられるのは、小学校以来じゃねえか。俺が学校サボりまくっておふくろが親父に泣きついた時にも、短く刈り込んどくしか手がねえ親父譲りの剛毛を俺がパツキンに染めた時にも、親父はなにも言わなかった。
けど、それが親父の無関心のせいだろうってタカをくくってたのは間違いだったらしい。 「明日からもな、ウチでおまんまが食いたけりゃ、50万、耳ぃそろえて払いやがれ。さもなきゃ今すぐ荷物まとめて出てけ。スジを通さねえ奴を、
このウチに置いとく義理はねえ。わかったか!」
親父にそうタンカ切られて、俺はこくこくとうなずいていた。
せびりゃ金くれてたおふくろも、その日を境にビタ一文くれやしねえ。ちぇ。バイト先どうすっかなあ。どうせだったら、時給がよくてラクな仕事がいいよなあ。
そんなことを考えながらブラブラ街を歩いてた、その時だ。
俺はすごい美人に会った。
俺は一瞬で目を奪われた。
「その人」は歩道沿いに暖簾を下げてる店から、青いバケツを手に出てきて。
夏の終わりの熱にほこりっぽいその歩道に、ぱっぱっと打ち水して。
店の前の街路樹の根元に転がった空き缶を、その白い手ですっと拾い上げて。
そして、クルッと回ってまた店の中に戻ってった。
その人の姿が消えてからも、俺はほけっと口を開いて突っ立ってた。
美人だった。
すらりと細身、色白で、ふわんと柔らかく額にかかる栗色の髪、でしゃばらない高さの鼻筋がきれいに通った鼻、柔らかに弧を描いた眉に、これも絶妙なラインの目。そう、そうだ、目!
どっちかっていうと、あっさりと静かな造りに見える顔の中で、
その目がすんっげえ印象的なんだ。そんでもって、口。全然ぼてっとしてないすっきりした唇は男にしとくのはもったいないほどにきれいな桃色……
って、え !?
男!?
もしかして、俺、男に見惚れてました !?
うわああっ! 大野亮太、一生の不覚!
俺はがしがしと自分の頭を掻いた。
けど……。
美人だった。
別に好きだとかなんだとか言うんじゃなきゃきれーな顔をきれーと思うのはかまわねえんじゃねえの? うん、そうだよな。
俺は無理矢理にそう結論づけた。
ほんと……美人だったよなあ。
その人がはいってった店は、障子作りに黒塗りの格子がはいり、入り口に「漁火」と白抜きされた絣の暖簾がかかる和風な造りの居酒屋だった。
もう一目、その人のきれーな顔を見たくて、入り口前をうろうろしてた俺は、格子の間に貼られた一枚の紙に気づいた。
バイト急募
夕方三時から夜十二時まで 時間応相談
時間給850円から(夜間手当有り)
居酒屋 漁火
俺はぐっとコブシを握り締める。
おっし! 決まりだぜ!
「あのー」
引き戸を開けて、俺は店の中に声をかけた。 店の中は、外から見た店構えより広かった。入って右手がカウンター席、左側がテーブル席、奥は座敷になってる店内は、
飛騨民芸調にまとめられてて、黒光りのする柱や垂木、漆喰っぽい白壁が落ち着ける。
和紙に堂々とした筆使いで料理や酒のお品書きが書き連ねられて壁に貼ってあるのも、なんかおしゃれで、俺はなかなかいい職場じゃねえかとうれしくなった。
その上、カウンターから、
「はい」
と返事をしてくれたのが、あの人だったりしたもんだから、うれしさ倍増ってやつだ。
「あーおもての張り紙見てー」
俺はそれで店に入って来た理由を説明したつもりだったんだけど。
その人は、その綺麗な顔を俺に向けたまま、何も言わない。
居心地悪くなって、俺は言葉を継いだ。
「……あー、その、バイト募集ってやつ」
「君、この店で働きたいの?」
俺はしっかりうなずいて返した。なのに。
「悪いが君は雇えない」
その人はきっぱりすっぱりそう言うと、話は終わりとばかりに俺に背を向けた。
……え? え、なんでだよ!
俺は焦った。
いきなり「雇えない」ってな、納得できない。
「な、なんでだよ。俺、もう18だぜ? なんで雇えないんだよ!」
俺は必死に噛み付いた。ひとつ年ごまかしちまったけど、かまうか。半年後にはちゃんと十八になるんだから、そう大きいウソじゃねえ。
でもその人は振り向こうともしてくれない。 「おいっ……!」
短気な俺が大声出しかけた時だ。
「どうした、タクト」
低いけど張りのある声がして、奥から豆絞りに作努衣姿の、この店の主人らしい男が出て来た。主人と言っても年のころはまだ三十代も前半だろうって感じなんだけど。豪気な男ぶりがいい雰囲気の人だった。
「店長……こちらがバイト希望でみえたんですが、今、お断りしたところなんです」
タクトって呼ばれた美人さんが、そう説明する。
「だからなんで雇ってもらえねえんだよ!」
俺は大声出した。
ぎろって感じに、タクトが振り向いた。
「店に入って来て、『すみません』の一言もない。『おもてのバイト募集を見て来ました。こちらで働きたいのですが』それぐらいの口上も言えない人間を、客商売に雇えるわけがないだろう」
う。
い、言われてみりゃあその通りだ。
「それに君、まだ高校生じゃないのか? うちでは高校生のバイトは雇えない」
「あ。お、俺、高校生なんかじゃねえよ! もう高校やめちまってんだから」
美人さんのキツイにらみと言葉に押されてたけど、俺はあわてて言った。
「中退か、おまえ」
作努衣姿の店長さんが笑いながら声をかけてくれた。
俺はしっかりとうなずいた。
「『はい』なら『はい』って言いな。うなずくだけじゃあ、タクトが言うようにここじゃ勤まらないぞ」
「あ。はい。……すんません!」
俺はきちんと返事して頭まで下げてみせた。なんか意地でもここに雇われたいって気になってきてた。
「……中退かあ……なあ、おまえと同じだな、タクト」
え、と俺が上げた目の先で、タクト……さんがぷいと横を向いた。
「僕はこんな礼儀知らずじゃありませんでした」
「ふん。ならおまえがしっかり仕付けてやんな」
……え。て、ことは?
「名前はなんて言うんだ?」
店長さんに聞かれて、俺は背筋をぴんと伸ばして答えた。
「大野。大野亮太、です」
「亮太か。年は」
「じゅ、じゅうはちです」
「じゃあ、三年まできて中退したのか」
突っ込まれて俺はしどろもどろになった。
店長さんはそれを豪快に笑い飛ばした。
「まあいい。ガタイもでかいし、ツラもそこそこフケてる。問題ないだろ」
「店長!」
せっかくの店長の言葉に、鋭く突っ込んだのはタクト、さん。店長はまあまあと手を振った。
「明日この時間に履歴書持って来な。ちゃんと親御さんの承認ももらって来いよ。未成年じゃあ夜中まで働いてもらうわけにはいかないからな、店の仕込みを三時から手伝ってもらおうか。
上がりは十時だ。時給は八時までが850、それからが900、それでいいか」
俺はいいですいいですとうなずきかけて、
「は、はい。いいです。ってか、それでお願いします。よ、よろしく!」
慣れない言葉に舌をかみそうになりながら、頭を下げたんだった。
そうして俺はその居酒屋「漁火」で働くことになって、俺が見惚れちゃった美人さんは関 拓人という名前だとか、俺と同じに高校中退してこの世界に入って、年は22だとか、
地下鉄で二駅のアパートに住んでるとか知ることができて……ついでに。
美人は性格きついって定説通り、
けっこうキビしい人なのも身をもって知ることになったんだ。
初日早々からしごかれた。
「戸が開く。客が入って来る。一歩でも店内に踏み入れて下さったら、もうそれはうちの大事なお客様だ。『いらっしゃいませ!』ほら、やってみろ」
急にンなこと言われてもなあ。
「い、いらっしゃ……」
「声が小さい」
俺は今度は天井に向けて大口を開いて叫んだ。
「いぃらっしゃいませえっ」
「怒鳴るな。客を追い返すつもりか」
だってよ。
「いいか、愛想と威勢がこういう店には必要なんだ。愛想よく、元気よく、ほらやってみろ」
愛想、元気、愛想、元気。胸の中で繰り返しながら、俺は腹から声を出した。
「いらっしゃいませ!」
「うん。今のはいい感じだ」
ようやく合格もらえたと思ったら、
「ボケッとするな。次はトイレの掃除の仕方」 「げえ、トイレまでやるんすか」
「トイレの管理で店のレベルが知れると思え。手を抜くな!」
柄付きブラシを握り締めて、涙がにじんで来た俺……。
ま、その分、駅前からの目抜き通りに面したこの居酒屋をこの年で切り盛りしてるだけあってなかなかの人物らしい店長、黒川 道郎さんがどっしりとかまえてて細かい人じゃないんで救われた。店長は近くのマンションに、
きれいな奥さんともうすぐ二才になるお嬢ちゃんと住んでて、こどもの話になると、途端に目が細くなるところが笑える。
あとはやっぱりバイトで大学生の岡本さん。この人はちゃんとハタチを越えてるんで、夜の七時にはいって閉店まで手伝ってく。いまどき銀縁の眼鏡なんか掛けててちょっとオタクっぽいけど、まあ悪い人じゃなさそうだ。
夕飯は店が混み出す前に、ちょいちょいと店長があつらえてくれるんだけど、これがけっこう、うまい。おふくろには悪いけど、やっぱプロの腕はちがうわって感じ。
だから、まあ、バイト先としては悪くないかなって俺は思ってたんだけど。
ある日、まだ席についたままの客に、
「お勘定」
と言われて、
「じゃあレジのほうへ」
そう答えて拓人さんにゲンコツくらって、さすがにムッと来た。
「すいません、こいつ、物知らずで」
拓人さんは客に軽く頭を下げると、カウンターの裏でチェックしてるそのテーブル分の伝票を持ってレジに行き計算だけ済ませて、また客のテーブルに戻ってきた。
「六千円です」
「じゃあこれで」
「では一万、お預かりします。領収書は?」
「あー、今日はいいわ」
俺は唇突き出して、その客と拓人さんのやりとりを見てた。
俺もさー、拓人さんに監督されながら、いちおー「らっしゃいませぇ!」「ありやとやしたー!」の挨拶、人数の確認、席通し、突き出しと酒の出し方、注文の受け方、灰皿の交換、皿の引き方、なんて一通りは覚えたつもりだっただけに、
拓人さんのやり方がスマートなのはわかるんだけど、
腹が立ったんだ。 頭に藍地のバンダナを鉢巻きにして、白いTシャツに黒のミニエプロンっていう『制服』がすごくよく似合ってる拓人さんは、ありがとうございましたー!って気持ちのいい大声で客を送り出すと、むっとした顔の俺を裏に引っ張ってった。
「いつもマニュアル通りの応対をしてればいいってもんじゃない。それから客の前で不機嫌な顔を見せるな。基本だぞ」
俺は自分のバンダナをむしりとると地面に叩きつけた。
「るっせんだよ! いちいちよ! えらっそうに、グダグダ抜かすな!」
自慢じゃないが俺はガタイがいい。身長は180超えてるし、ウェイトだってある。親父には及ばなくても、親父譲りの迫力があるんだろう、たいていの奴は俺が怒鳴ればビビる。
だけど。俺より頭半分背は低くて造りも華奢なくせに、拓人さんはひるまなかった。拓人さんの二重に切れ上がった瞳が、俺をまっすぐに見つめる。少し茶のかかった瞳が、ネオンのライトにきらめく。赤みがきれいな唇をぎゅっと引き締めて、拓人さんは俺を見つめる。
「……言いたいことはそれだけか」
本当は耳に心地いい甘さのある声が、低くなってそう言った。
「教えてもらえるうちが花だと、知らないか? 知らないなら覚えとけ」
言うだけ言ったとばかりに、拓人さんはくるりと背を向ける。
「や……やめてやる、こんな店!」
拓人さんの背中に向けて俺は毒づいた。振り返った拓人さんの目が冷たい。
「やめたきゃやめろ。バイトの代わりはいくらでもいる。いいか? バイトの代わりはいくらでもいるが、客の代わりはいないんだ。一度来ていやな印象を持ったら、その客は二度と来ない。……その意味がわからないなら……おまえ、客商売で二度とバイトはするな」
俺は……俺はグウの音も出なかった。
腹は立ってたけれど。
拓人さんはこの仕事にプライド持ってる、俺は一人、裏口の前で思った。
拓人さんは……むやみに口うるさいわけじゃない、居酒屋での商売をよく知っているから、俺にいろいろ注意があるんだ。
居酒屋「漁火」が、店長の親父さんが展開してる店のひとつだと教えてくれたのも拓人さんだ。店長の親父さんは昔から本業の魚屋をやりながら仕出し屋も兼ねていて、そこで料理修行した店長と店長の弟さんが資金を出してもらって、
それぞれ市内に出した店が「漁火」と「大漁」なんだって。今でも店で使う魚は全部、親父さんの店から仕入れてるそうで、魚の目利きが選んでるもんだから、刺し身のうまさなんか定評があるんだとも。だからうちには酒や肴のうまさがわかる大人の客が多くて、
そういう店の味と雰囲気を愉しみに来てくれるお客が多いのはこういう商売では大きな強みなんだと、拓人さんは教えてくれた。
えらっそうなんじゃない、無駄に怒ってるわけじゃない、ひとつひとつが大事なことだから、拓人さんはそれを俺に教えてくれてるんだ……。
きっと俺……ここでやめたら、ほかのバイトもだめだろう。そう思った。
俺は地面のバンダナを拾い上げてほこりを払い、店の中に戻った。
「いらっしゃいませ!」
ちょうど入って来た客に声を上げた。カウンターに入ってた拓人さんがちらりと横目でこっち見て……え。にこっと……笑った……?
初めて見た拓人さんの笑顔はものすごいインパクトだった。怒り顔の冷たいきれいさが、いっぺんに鮮やかであったかいきれいさに変わって……。ちらっと一瞬だったけど、ヘラァとほっぺたの力が抜けそうな気がするぐらいだった。
「亮太、8番、灰皿かえて」
「あ。はいはい」
「『はい』は一回!」
「はい!」
うわ。やべ。見惚れてたよ。
開店準備は、昨夜のうちにざっと片付けられてる店内を、きれいに掃除するところから始まる。角を丸く掃くな、雑巾はきっちり絞って使え、こまめにすすげ、いつも通りに、俺が耳からこぼれるほどの拓人さんの注意を受けながら掃除してたら、
ぽつっと店長が言った。
「おい、拓人、あんまヒイキかますんじゃねえ」
拓人さんは見事な無表情で、
「なんのことですか」
聞き返した。
「岡本にも亮太の半分でも仕事教えてやれ」
「あ」
と俺が口を出したのは、拓人さんの言うことなら素直に聞けるようになってはいても、やっぱりちょっと不公平感があったせいだった。
「そういうヒイキなら、俺もいらないっす」
拓人さんはすっと目を伏せてカウンターを拭きだした。
「別に……ヒイキのつもりはないですよ。岡本君は亮太の半分で仕事を覚えてくれるだけです」
あのー拓人さん、それって、もしかして俺がバカってことですか。
ツッコミたかったのをこらえたのは、なんだか空気が冷たくなった気がしたせいだ。……まあ、いいか。拓人さんに声を掛けてもらえるのは、たとえそれがお小言でも、ちょっとうれしくないわけでもないもんなあ。
そんなこんながあっての初めてのバイト料は、やっぱいいもんだった。
「お疲れさん」
そう言いながら店長が渡してくれたバイト料の入った袋を俺は押し戴いた。
「おう。今時の高校生はバイト料で親にプレゼントなんてすんのか?」
袋の中をのぞいてる俺に、店長が聞いてきた。
「えー、そんなこと、しねっすよ」
俺は答えた。
「それにうちは親に借金があるんで、右から左っす」
その時、野菜を刻んでた拓人さんの手が止まった。あれ?
でも次の質問はまた店長からだった。
「借金? 親御さんのか?」
「あ。ちがいます」
俺は説明した。
「俺が親に借金あるんす。高校辞めるなら、ちゃんと入学金だけは返せって」
「ほー」
店長がなんとも言えない声を出した。
「そりゃあ亮太も苦労だなあ。いまどきにしちゃあ、きつい親だな」
「そう! そうなんす!」
俺は勢いこんだ。だけど、それまで黙ってた拓人さんが静かに言ったんだ。
「僕は亮太の親御さん、すごいと思うよ。いい意味でね。ものすごく大事なことを亮太に教えてくれようとしてると思う」
店長が横で軽く肩をすくめた。
「そういうのはな、ちゃーんと本人の腹のうちに収まるように納得させるんじゃなきゃ、親のゴリ押しになるんだよ」
拓人さんはちゃんとまっとうなことを言ってる、俺はそう思いながら、俺に加勢してくれてるみたいな店長の言葉に大きくうなずいてた。
「うちの親は無茶なんすよ。勝手っていうかね、怒鳴ればこっちが言うこと聞くと思って」 「そうかあ」
店長がしんみりした声で受けてくれた。
「亮太の親は大工だったな。うちの親父も魚屋でな、気の荒いの荒くないの。俺も何度か衝突したり家出したりしたもんよ。そうすっと親もようやくちょっと聞く耳もってくれるだろう。そこまでしなきゃ駄目なんだよ」
そうっすよね、と俺は力いっぱい同意を示した。
「おう、亮太。困ったことがあったら、いつでも俺んとこ、転がりこんできな。この店の二階、前は拓人が住んでたんだが、こいつ、出ていっちまってよ。今はあいてるぞ」
へぇ、それは初耳だった。
住み込みでバイトってのも、なんかわくわくするような気がして俺は、
「はい。そん時はお願いします」
って頭を下げてた。
拓人さんはもうなんにも言わないで、ただキャベツを刻む包丁の音だけが響いてた。
次の日。俺はCDあさりに街に出た。
昼下がりのショッピングモールはけっこうな人出だったけど、その人込みのなか、俺の目はすーっと一点に吸い寄せられていた。
……どうしてこの人の回りは、そこだけいつも空気の色がちがうんだろう、どうしてこの人はこんなに際立ってるんだろう……俺は不思議な気がする。店の前で打ち水してたこの人に、一瞬で目を奪われたように……同じ店の中でも、
俺は気づくとこの人を追ってる。どうしてなんだろう。
どうして……こんな人込みの中でもこんなにかんたんに、俺はこの人を見つけちゃえるんだろう……。
気が付くと、俺の足は目と同じくらい正直に、人込みに見え隠れしてる拓人さんに向かって一直線に歩いてた。
「あ」
俺が最後の一人をかわした時に、拓人さんも俺に気づいてくれた。
「やあ。偶然」
拓人さんの笑顔。
接客業にあるまじき。俺は拓人さんの前に突っ立って、言葉もなく、こっくりとうなずいていた。
神様。偶然に感謝します。
「買い物?」
俺はまた黙ってうなずきかけて、あわてて言った。
「CDでも買おうかと思って」
「そうか。バイト料出たもんな。でも、いいの? 借金は?」
のぞきこんで来るような拓人さんの目に、俺の心臓は高鳴る。ど、どうしたんだ、落ち着け、俺!
「あ。その、キープ、一枚分だけ」
あはは。俺の返事に拓人さんは声たてて笑った。
……あ。どうしよう、俺。すんげえ体が熱くなって来た。拓人さんの笑い声。初めて見た、聞いた。今までは、ほら、ニコッて感じの『微笑み』しか見たことなかったから。
初めて見る拓人さんの笑い顔。……今までずっと、拓人さんは綺麗、としか思ってなかったけど、もしかして、もしかして、拓人さん……かわいい?
自分で思ったことに、俺は焦った。ご、五コも年上の人が可愛いわけないだろ!
「あ。あの、拓人さんは?」
「僕? 僕は学校帰り」
拓人さんが学校? え、と聞き返した俺に拓人さんは、
「調理師免許を取りたくて、料理学校だよ」
そう説明して、肩に下げたリュックの口を開けてテキスト類を見せてくれた。
「へえ! すごいっすね! 夜は『漁火』で働いて昼は学校っすか」
感心した俺に、拓人さんはふと顔を伏せた……ようにみえた。
「……ほんとうにやらなきゃいけない時に、怠けちゃったからね、僕は」
だから今頑張ってるんだって意味に聞こえたけど……でも、聞き返す前に拓人さんはその綺麗な顔を俺に向けた。
「アイスぐらいおごろうか? お茶でもしてく?」
してくしてくしてく! 俺は十回以上も首を振った。
なんだか薄桃色した柔らかい雲に包まれてるみたいに、ほわんと楽しくてうれしい時間だった。
駅前の繁華街を抜けて、少し脇に入ったところにあるオープンカフェに、拓人さんが連れてってくれた。空はさわやかな秋の高さに変わってて、天気はいい、風は気持ちいい、目の前には拓人さん。
俺はずうっとニコニコしっぱなしだったような気がする。
いろいろ話した。CDの話から映画の話、あと、学校辞めた理由だとか。
「ケンカで停学くらったんす。センセーらエラソーで、うざかったし、やめちまえって」
俺が言うと拓人さんは苦笑ってんだろか、少し困ったふうに笑った。
「わからないでもないけどねぇ」
そういう拓人さんは、親の言いなりの大学受験がいやで三年の夏に家出してきちゃったんだって。
「家出っすか」
「うん」
「なんかびっくりってか……拓人さん、もっとまじめでおとなしいタイプだと思ってました」
俺の言葉に拓人さんは真顔でうなずいた。
「そうだよ、僕はまじめでおとなしいタイプだよ」
「……家出してそのまま居酒屋つとめちゃうような人間が、それ言いますか」
拓人さんは笑った。
拓人さんの笑い声は、涼やかで耳に心地いい。笑顔は……きれいで、とっても、かわいい……。
「あの」
気がつくと、俺は声に出して尋ねてた。
「拓人さん、今、好きな人とか付き合ってる人とか、いますか」って。
ふうっと拓人さんは無表情になって顔を伏せた。
あ。睫毛が長い。
「……いないよ、カノジョはいない」
その返事に、
「じゃあ好きな人とかも?」
俺はかぶせて問い返してた。
うん、と拓人さんは小さく、けどしっかりとうなずいた。
「好きな人もいないな」
俺はそん時。おっし!ってテーブルの下でコブシを握り締めた。
握り締めちまって。自分でもあわてた。
なにが『おっし!』なんだ、俺? なにを俺は『おっし!』ってガッツ燃やしてんだよ?
その日、遅刻ギリギリに拓人さんと「漁火」に駆け込んでからも、俺はずっと考え込んでた。なにが俺は『おっし!』で握りコブシになってんだよって。
おかげでその日は客の注文の取り違いやら皿割りやらつまんねえポカばっかやって、たんびに拓人さんに叱られた。
答えはその晩の夢にあった。夢は俺が意識してなかった答えを、俺にしっかり突き付けてきたんだ。
夢の中で。
俺はぎゅうっと拓人さんを抱き締めてた。細い、細い腰。ふわふわした栗色の髪が鼻先をくすぐる。
「初めて、初めて会った時から、俺、こうしたかった。ずっと、ずっとこうしたかった。一目惚れなんだよ」
俺の腕の中で拓人さんは顔を上げる。
「僕は男だよ? 五つも年上だよ? それでも?」
「い、いいです、もちろん! ほ、ほかの奴ならヤですけど、俺、俺にとって拓人さん、特別なんです、ほんとです!」
「……亮太……」
桜色した唇が、やわらかくほぐれて俺を待っていた。
「拓人さん……! 拓人!」
俺は拓人さんの唇に唇を寄せて……。
「わあああっ!」
叫んで俺は飛び起きた。
心臓が冗談じゃなく、跳ねてた。
どうしよう、と思った。
どうしよう。夢の中の言葉は、全部、俺の本心だ。
だってよ……俺の胸は……夢の中で自分がしようとしてたことを嫌がってドキドキいってんじゃなくて、それがうれしくて……とってもうれしくてドキドキいってて、それどころか、
なんでそこで目覚めちゃうかなって自分に腹さえ立つほど、先を惜しいと思ってんだから。
ああ。
俺はまぶたを閉じると浮かぶ拓人さんの影に謝った。
すんません、拓人さん。惚れてます……。
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