次の日、俺はなるべくしわの少ないカッターを選んで着込み、朝ごはんの後の茶を飲んでる親父の前に、正座して手をついた。
「親父、頼みがある」
親父はうろんそうに俺を見やった。
「……なんでぇ。朝っぱらからよ」
俺はぐっと頭を下げた。
「頼んます。俺に百万、貸してください!」
「…………」
「…………」
はあ、とため息つくのが聞こえた。
「……おめぇはよう……こないだ8万返していい気になってんじゃねえのか。てめえ、まだ42万残ってんだぞ」
「返す! ちゃんと働いて、返すから……頼んます!」
俺は畳におでこを擦り付けた。
「……おぅ、顔あげろい。簡単に土下座なんかすんじゃねえ。男が安くなる」
親父はタバコに火をつけると俺をにらんだ。 「百万、どうすんだ」
「人助け……いや、身受けしたい人がいるんだ。そ、その人……百万あれば自由になれるんだ。親父、頼む! 百万、貸してくれ!」
「……惚れてんのか」
俺はあごが胸につくほど深くうなずいた。
「……美人か」
迷わず俺は、もう一度うなずいた。
「け。色気づきやがって」
親父はふーっとタバコの煙を噴き出した。
「……ま、いいだろう。血迷ってサラ金なんかに手ぇ出されちゃあ、後が厄介だ。おう、亮太。きりきり働いて、きっちり返せよ」
俺は天にも上る心地で返事した。
「返す、絶対返す。色もつけてやらあ」
羽がはえて飛んできそうな俺に、おやじが目の前の畳をとんとんと叩いた。
「へ?」
「もっかい座れ、ちっと話がある」
座った俺に、親父がぐっと身を乗り出してきた。
「亮太。話によっちゃあ、その百万、返さねえでいいっつったら、おめえ、どうする。その前の50万もチャラだ」
「……うまい話には裏があるってよ。なんだよ、親父、気味のわりぃ」
怪訝そうな俺に親父は言った。
「大学いかねえか、亮太」
「なんでぇ、また先行投資ってやつかよ」
「まぁ……投資っていやあ投資だけどな……俺の夢だ。
俺はな……おめえに大学行って、建築ってのを勉強してもらいてえのよ。俺は大工として、自分の腕に自信もある、たたきあげてやってきた経験もある。大工仕事ってのはな、単純に木を組み合わせて釘うちゃ終わるってもんじゃねえのよ。家建てるなら、その土地を見て、地面を見て、風を考えて、建材の性格を読んで、仕事するのよ。でもな……近ごろじゃあ、大学出の、机の上でしか勉強してねえ奴らが、現場知らずに設計やら指図やらしやがる。愚痴じゃねえ、そういうのも時代ってやつだからよ。
俺はな……おまえに俺の後を継いでほしいと思ってる。けどな、単純に大工を継いでほしいんじゃねえ、俺はおまえに、ちゃんと木材や土のことがわかる建築屋になってほしいのよ。おめえがそういう建築屋になってくれたらよ……俺は百万が二百万でも惜しくねえのよう……」
――そうか。親父はそんなこと思ってたのか。
初めて聞いた親父の『夢』に、なんとなくジンと来るものを覚えながら、俺は答えた。
「へっ! そりゃ夢がデカすぎらあ。大学どころか俺は高校中退してんだぜ?」
「大検とかっつうのがあるって、かあちゃんが言ってたぞ。……まあな、無理は言わねえよ。
けどな、亮太、一度、ちっと考えてみろ。将来ってやつをな。もしおめえがほかに夢があるってんなら、それに向けて頑張れ。けど、なにもねえならな……ちっと俺が言ったのも考えてみろや」
親父はそんなふうに締めくくった。
なんだかなあ……でっかい宿題もらっちまったぜ。
三時ぴったりに、
「おはようございます!」
俺はいつも通りの大声で、『漁火』の戸を開けた。
カウンターの中にいた店長も、テーブル席の間を掃いていた拓人さんも、驚いたみたいに俺を見る。
「きのうは無断欠勤して、すんませんでした!」
がばっと頭を下げた俺に、店長が平然と声をかけてきた。
「きのうのデバガメはおまえだろう。まだここで勤められんのか」
俺はぎゅっと店長を見上げた。
「勤めます」
「平気なのか」
「……平気、じゃないっす。俺、拓人さん、好きですから。腹立つし、いやです。でも、だからって尻尾まいて逃げんの、もっといやっす」
言い切って俺は、銀行の帯封のしてある百万をカウンターの上にバン、と置いた。
ぎろって感じに店長が鋭い目になって俺をにらんでくる。
俺も、ぐっとにらみ返した。
「拓人さんの借金の残り分です。だから、だからもう、拓人さんに手ぇ出すの、やめてください!」
「亮太!」
あわてて、睨み合う俺と店長の間に入ってきたのは拓人さん。
「おまえは……なにやってんだよ、どうしたんだよ、この金!」
「俺の金です。……大丈夫です、ちゃんとスジ通してある金です。やばくねっすから」
拓人さんに変なふうに誤解されたくない。俺はなるべくおだやかに説明した。
店長がははん、と笑う。
「親の金だろ。これだからガキはな。親のスネかじっといてでけえツラしやがる。亮太、親の金で、俺から拓人を抱く権利、買い取ろうってかい」
俺はきっぱりと首を横に振った。
「俺はそういうゲスなマネはしません。俺はちゃんと拓人さんに、この金、返してもらいます。全部、返してもらったら、そしたら、俺、拓人さんに俺と付き合ってくれって頼みます」
「気の長い話だな。あげくに拓人に振られることもあるわけだ」
「あります。……しかたないです、そうなったら。……でも、俺、一生懸命、拓人さん、口説きます。俺と付き合ってくれって。俺、頼みます」
ほーお、と店長が感心したように声を上げた。
「惚れられたもんだな、拓人。どうする」
拓人さんがカウンターに乗った札束のブロックを手に取った。
その金を、拓人さんはじっと見つめてる。
「……どうする、拓人」
店長の声の調子が、変わった。深くて……重い声。俺はどきりとして店長を見上げた。そこに立つ……黒川道郎という男を。札束を握る拓人さんを、じっと見つめる、その眼差しを。
その眼差しには。俺には到底かなわないなにかがある気がした。
「どうする」
尋ねる店長の深い声は……威圧的でもない、からかう響きもない。
そうなんだ……一度は一緒に暮らした、その過去が、この二人にはあるんだ。
きのうだって、拓人さんは本気で抵抗してはいなかった……。
もしかしたら拓人さんは俺に百万を突き返してくるかもしれない。俺は身震いした。そうだ……拓人さんもまた、店長と切れるのをためらうかもしれないんだ。
拓人さんの手がのろのろと動いた。
俺はその手の行き先を見たくなくて、一瞬、目を閉じたけど。
「……いいのか?」
確かめる響きの店長の声に、目を開けた。
拓人さんはその札束を、店長に向けて差し出していた。
「……道郎は、ずるかった。自分は結婚して……なのに、僕のこともほうっておいてくれなかった。お金のことを持ち出して……僕を縛り付けてた。でも僕も……ずるかった、いやらしかった。道郎を許せない、もう終わりだって言いながら……きっぱり道郎を拒絶することもできなくて……求められたら、いつも身体は喜んでた。だけど、もう……今度こそ、全部きれいに終わりにしよう。終わりにしようよ、道郎」
「……潮時か」
店長は呟いて拓人さんの手からお金を受け取った。
二人は札束を中に、じっと目を見交わしてた。言葉はない、ないけど、これが二人の『終わり』なんだ。そう思った。
「……お世話に、なりました」
そう言って拓人さんは、礼儀正しく腰を折った。……なのに!
「ちょっと待てや」
なんで店長、そこでストップいれるかな。
「まさか店まで辞めるなんて言い出すんじゃないだろうな」
俺は思わず拓人さんと顔を見合わせた。
「頼むぜ、おい。拓人がいなきゃこの店、まわらねえだろうがよ。ああ、そりゃおまえが自分の店を持ちたいってのはわかってる。それまでにもうちょい使えるのを、俺も育てとくつもりじゃいるさ。けど、今すぐやめられちゃあ困る」
「それは……」
「おいおい、ガキじゃねんだから。俺だって節度は知ってる。アッチのことはアッチのこと、仕事は仕事だ。やめられちゃあ、困る。おまえだってすぐにほかの仕事が見つかるとは限ってないだろ」
そ、それはそうかも。俺と拓人さんの一瞬の迷いを店長は目敏くつかんだ。
「おし! 決まりだな。……心配するな、もうおまえを困らせるようなことはしない。約束する」
しみじみと深い声で、店長は拓人さんに約束した。なんか、ちょっと信じられるかなって思える、そんな口調。
でもさ。
ちょいと目線を俺に飛ばした店長は、アゴしゃくって言ったんだ。
「亮太、おまえは辞めていいぞ」
「い?」
「バイトの代わりはいくらもいるからな」
「や、辞めません! 俺も絶対辞めません!」 俺は叫んでた。い、いくらなんでも拓人さんと店長を、二人だけにしとけるもんか!
* * * *
一年が過ぎた。俺は居酒屋『漁火』で働きながら、拓人さんが開く店を俺が設計・施工するっていう夢を見るようになって。親父に借りた150万はちゃんと返しながら、年が明けたら大学受験なんてのに挑むことにしてて。
そして、今日。
今日のこの給料日でもって、拓人さんは俺に百万の全額を返し終わる。
ああ……長かった。長かったこの一年余。ものすごい忍耐と辛抱強さでもって、拓人さんに指一本触れない不文律を守ってきたこの一年余。
俺、自分がすっごい大人になった気がする。うん。自分がこんなに我慢強く、しかも紳士でいられる人間だなんて知らなかった。俺ってけっこうエライよ?
しかし! その辛抱も忍耐も、今日で終わる。
今日こそ……俺は想いのたけを拓人さんにぶつけて……受け止めてもらうんだ!
店長から受け取るバイト料の入った袋にニヤけてしまったのは、もちろん、そのうれしい想像のせいだった。
なのに。なのに、店長が……。
「水差すつもりはないが」
なんて小声で言い出すんだ。
「浮かれとるようだから、教えといてやる」
へ?
「拓人はけっこう、むずかしいぞ。手こずるのは覚悟しとけ」
……へ?
俺がその店長の御託宣の意味を噛み締めたのは……その日の深夜。
給料日のお約束で、俺は拓人さんのアパート前の公園で、拓人さんを待つ。ブランコで小さくギーコギーコやってると、拓人さんが駆け足でやってきて、
「ありがとうね」
ってにっこり笑いながら、袋から無理のない金額を出して渡してくれる。
今日はその最後の日。
拓人さんはいつもの挨拶だけじゃなくて、俺の手をぎゅっと握ってうつむいた。
「ほんとうに……ほんとうに、ありがとう」
「……俺が、好きでやったことっすから」
「……なんて言ったらいいのか……バイトの君にここまでしてもらって」
――え。違和感。なんか今、距離感がすんげえずれたみたいな気が……。
「ほんとうにありがとう。お父さんにもよろしく伝えてください。それじゃ」
そ、それじゃ、じゃないでしょ、拓人さん!
思わず俺は拓人さんの手首をつかんでた。
「覚えてくれてますよね、拓人さん。俺との約束」
拓人さんの瞳が大きく不思議そうに開いた。……俺はその表情に不吉なものを覚える……。 「俺、拓人さんから全部返してもらったら、ちゃんと交際申し込むって言ってましたよね? 拓人さん、俺と付き合ってください」
「え。……あれ、本気だったの?」
拓人さんの返事に俺は脱力しかけた。
「ほ、本気に決まってるじゃないすか! そんな誰が冗談で男に交際申し込みますか!」
「そうだよ、男相手だよ。まさか亮太、本気だとは……冗談だよね?」
俺は思いきり首を横に振る。
「本気っす。マジ100%っす」
「でも、そんなこと急に言われても……」
「ぜ、ぜんっぜん急じゃないでしょうが! い、一年も前からですよ! い、一年も前から宣言してあったのに……!」
「あれはあの場の勢いじゃなかったの? だいたい亮太、そんなこと、とっくに忘れてるんだと僕は思ってたよ」
俺はくたくたとその場に座り込んだ。……いや! へたってる場合じゃない! 一年の余、この日を楽しみに俺は生きて来たんだ!
「……キス」
「え」
どきりとしたように拓人さんが一歩後ずさった。
「キス、させて下さい。キスもいやなら、俺、あっさりあきらめます!」
俺は拓人さんに歩み寄って、ぐっとそのからだを抱き寄せた。
「……りょう……」
なにか言いかけた拓人さんの唇に、唇を重ねた。
夢にまで……冗談じゃなく、夢にまで見た……拓人さんとの口づけ。
拓人さんの唇はしっとりと柔らかくて、俺は性急に吸い上げる。
でもやっぱり、焦りがよくなかったんだろか……軽く離して、さらに深く唇を重ね合わせて……ついばむ動きにゆるんだ拓人さんの口の中に舌、入れようとしたら……ガチ。歯が当たった。
ぷ。
拓人さんが吹き出した。
「……ごめん、亮太」
拓人さんが俺の胸を押しながら笑う。
「いやじゃないよ、いやじゃないけど、なんか弟とキスしてるみたいだ」
お、弟 ?
「挨拶のキスならしてあげられるよ。おやすみ、亮太。風邪ひかないようにね」
弟、弟、弟……その言葉のショックから立ち直れない俺の頬に、ちゅっとキスを落として、拓人さんは行ってしまった。……なんだか妙に軽い足取りで。
俺は次の日、ヨロヨロと『漁火』に出勤した。
俺の顔色に、店長がにやりと笑った。
「だめだったろう」
俺はすがるように店長を見上げた。
「ど、どうすりゃいいんですか……俺、もう泣きたい……」
「気長にやれ。気長に。一年待ったんだ、気は長いほうなんだろう?」
「長くないっすぅ! この、この一年は地獄でしたぁ!」
泣き崩れる俺。
「勝手に地獄にしとったんだろ」
は? と俺は顔を上げる。……な、なんですと?
「おまえな、百万、俺に突っ返した時の拓人の顔、見なかったのか」
店長がなにを言い出したのかわからない。
「み、見てましたけど……?」
「見てたけど、意味がわからなかったか。ガキだな、とことん。あの時から拓人はおまえにほだされとっただろうが」
「……え、えっ、ええっ!」
驚く俺に店長は軽く肩をすくめて見せて、
「あれもわかってなかったんじゃあ、この一年、拓人がおまえにコナかけてたのも本気で気づいてなかったな」
なんて。とんでもないことを言う。俺はもう、口をぱくぱくやるしかなくて。
「分割払いだとか言って、キスのひとつも毎月しときゃあよかったのよ。待ちぼうけくわされた拓人はむずかしいぞ。当分、スカシ食わされるのは覚悟しとけよ」
そう言っておかしそうに声立てて笑う店長……。その時、戸が開いた。
「おはようございます。……あれ、亮太、どうしたの」
俺をのぞきこむ拓人さんの綺麗な顔。きれいで……きれいで……その整いすぎた表情に――俺を振ったにしては微塵も影のない表情に――俺は店長の言葉が真実なのを知った。
「た、拓人さん! 拓人さん! 俺、俺、拓人さんが好きです、ほ、本気ですから!」
なりふり構わずすがりついた俺に、拓人さんは振り向いて……花がこぼれるようににっこりと笑った。
「僕も亮太がだーい好きだよ。はい、店の前、掃いてきて」
ほうきとちり取りを手に呆然とたたずむ俺の肩を、店長がポンと叩いた。
「がんばれや、青少年」
ああ……オトナの世界って奥が深いのかも……。
俺はめげずに頑張り続けることを、固く自分に誓ったのだった。
了
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