裏切りの証明<1>
 

 





 好き合っていればいいと、思ってた。
 互いに想い合ってさえいれば、それで大丈夫なんだと、思ってた。
 好き合ってさえいれば、と……ぼくは……





「アイツら……」
「えーうそぉ」
 ひそめた囁き声が後ろから聞こえてくる。……気にするな、気にするな。ぼくは自分に言い聞かせる。
 階段状になった大教室。二百人ぐらいなら楽に入りそうな講義室で、噂されてるのがぼくたちのことと限るわけじゃない。……そう思おうとするんだけど。
「やだぁ男同士で……」
 気のせいかもしれない。だけど、確かにそう聞こえた。イヤな汗がどっと背中に噴き出す。
「どうした?」
 隣に座る東が顔をのぞきこんで来て、ぼくは余計に慌てる。
「ご、ごめん! ぼく、前のほうの席に移るから……!」
 バタバタとテキストを重ね、ぼくはカバンを抱える。立ち上がろうとしたところをぐっと東に引っ張られた。
「ここでいいだろ、別に」
「でも……」
 東の目が怒ってる。
「勝手に言わせとけ。気にするな」
 低く吐かれた台詞に東も同じ声を聞いていたと知れる。そうだ、いちいち気にしていても仕方ない。……だけど……。背中に刺さる視線が痛い。腕に食い込む東の手が痛い。
 東とのことをサークルでカミングアウトして数週間。仲のよい友人たちの態度は変わらなかったけれど、いやでも耳に入ってくる他人の囁き声にぼくの神経は疲れてきていた。





 学校を出て人ごみにまぎれるとほっとした。
 誰もぼくのことを知らない。ぼくと東のことを知らない。二人で並んで歩いていても指さされることもない。
「俺、今日バイト。寄ってく?」
 東に誘われて東のバイト先に寄るのも、ぼくにとってはいい気晴らしだった。
 東がバイトしてるのは大通りから一本引っ込んだ、住宅街の中にある喫茶店で、立地条件はそれほどいいわけではないだろうけど、店にはいつ行っても必ずお客さんがいた。コーヒーとちょっとしたおしゃべりを楽しみに来る常連さんたち。調度や店構えの洒落たその店には、店長の人柄のゆえだろうか、友達の家のリビングのようなくだけた心地よさがあった。
 もっとも、常連さんの中には店の雰囲気を気に入ってるばっかじゃなくて、東目当てかなってカンジの女の子も多かったけれど。
 樫の木の、傷がそのまま風合いになってるカウンターに席を取って、ぼくはマスターに挨拶する。
「いつものでいい?」
「はい、お願いします」
 ぼくがコーヒーをもらってる間に東はデニムのエプロンをつけたウエイタースタイルになって出てくる。トレイを手に軽快な動きでテーブル席を回る東はちょっとカッコいいと思う。
 見るともなしに、そのすらりとした立ち姿を見ていたら、
「最近、やんちゃはしてない?」
 マスターにそんなふうに声を掛けられた。
「え?」
「東君。ワルさしてない?」
「あ、はい。大丈夫です」
 あわててうなずいたら、マスターは口ひげの下の唇をちょっとほころばせる。マスターと東は、東が中学の頃からの知り合いだってぼくは聞いていた。
「えっと…東って昔、そんなワルだったんですか?」
 聞くとマスターは大きくうなずいた。
「そりゃあもう。やんちゃだったよ」
「不良?」
「不良不良」
 うん。高校でも東の素行は決して褒められたものではなかったから、中学時代もそれはそれなりだったんだろうなあって思う。
 これはこっそり東の昔の「武勇伝」を聞かせてもらおうかなとぼくがカウンターに身を乗り出しかけたところで、
「なに人の悪口言ってんだよ」
 後ろから東に軽く小突かれた。
「悪口じゃないよお、別に」
「マスターになに聞いても本気にすんなよ。このヒト、嘘つきだから」
 カウンターの上を手早く拭きながら東が言う。
「おや。いつわたしが嘘をついた?」
「アンタにだけは、俺、不良なんて言われたくない」
「じゃあ次からは優等生だったと言ってあげよう」
「ほらみろ。嘘つきじゃん」
 ぼくは思わず吹き出してしまう。
 東とマスターはいっつもこんなふうだ。軽妙な掛け合い。東は決してマスターのことを褒めないけど、なんていうんだろ、変な言い方だけど、すごくなついてる気がする。もともと東は人付き合いが上手で、誰とでも気軽に仲良くなれちゃうキャラなんだけど、マスターにはもっと深いところできちんと信頼とか好意を持ってる気がする。
「マスター、この前のCDさぁ、」
 東がマスターに話しかける。ふと、東はマスターにあまえてるとも言えるのかなって思った。ベタベタしてるわけじゃなくて、気を許してるというか、そんな感じ。
 雰囲気が藤 竜也を思い出させるマスターは、もう四十が近いらしいけれど、スリムでシャレててカッコいい人だ。日焼けした精悍な印象の顔に静かな笑みを浮かべる、経験豊かな大人の男。
「高橋君ね、東君があんまり手を焼かせるようだったら、わたしに言いつけにいらっしゃい」
「だから! 俺の悪口言うなってば!」
 二人のやりとりにぼくは声たてて笑う。――ぼくは、その喫茶店でマスターと東の話に加わりながらゆったりと過ぎる時間が、決して嫌いじゃなかった。





「元気でた?」
 夜道を歩きながら、東にぽつっと聞かれた。
 え、と思う。
「……言いたいヤツには言わせとくしかないと思うんだ。こっちが堂々としてればどうせすぐ飽きるだろうし」
 気にしてるの、気が付いてたんだ……。うれしいのと申しわけないのが半々で胸の内に湧いてくる。
「……ごめん。自分でカミングアウトしといて……」
 いいよ。
 言葉の代わりだろう、東はぼくの手をきゅっと握った。
 強くなりたいと思う。東のように堂々と胸を張っていられない自分が情けない。
 ……でも……。
 東のマンションが近い。ぼくは一度ぎゅっと握り返した東の手を放した。明るいところで手をつなぎ続けている勇気はぼくにはなかった。
 東がちらりとぼくの横顔を見る。
 ごめん、ごめん、東。だけど……。
 気詰まりな空気が漂いかけた、その時だ。
「よう」
 マンションのエントランス前の植え込みから、のっそり黒い影が立ち上がった。
「久しぶりだな、洋平」
 ロビーの照明を背負って顔もよく見えない男がそう言った。
「……タケシ?」
 東が目をすがめた。ゆっくり近づいてきた影が、向き合ってはっきり容貌まで見えるところまで来ると、東の眉間にかすかにしわが寄った。
「おまえが帰るの、待ってた」
 タケシと呼ばれた男がそう言うと、東の眉間のしわがまたぴくりと深くなった。
「はあ? なにストーカーみたいなマネしてんだよ」
「おまえが連絡よこさねーからじゃん。ケータイの番号まで変えちまうし」
「一年以上も前のこと、いまさら言うか?」
 東が呆れた口調で肩をすくめる。
「おまえが大学受験なんて、誰が本気にするよ? すぐに飽きて帰ってくると思ってたらさー」
 ……話からすると、東の昔の遊び友達? そう言えば、高校にも東の夜遊び仲間とかいて、ぼくと付き合いだしてから、東、そいつらからも付き合い悪くなったとか言われてたけど……。
 タケシはピンピンと跳ねさせた髪を毛先だけオレンジ色に染めてて、鼻にも耳にもピアスをつけ、じゃらじゃらアクセサリーをつけていた。顔は悪くない。と、不意にこっちを見たタケシとばしっと目があった。
「あー。コイツがおまえの今のカノジョ?」
 カノジョ。確かにそう言った。
「ウワサだぜー? おまえが清純派の美人連れて歩ってるって。はー、聞いてたより美人じゃん、実物」
 東がぐいっとぼくの腕を引いた。背中にかばうようにして立つ。
「……帰れ。蹴るぞ」
「なあなあ、」
 タケシは東の低い声での宣言が聞こえなかったのか、馴れ馴れしく東に顔を近づけた。
「カノジョいてもいーからさー。また遊ばねえ? なあ、洋平、俺のカノジョになってくれよ」
 一瞬、頭が混乱した。カノジョがいてもいいから、俺のカノジョになってくれ? えっと、それはつまり……。
 頭の中に、矢印がそれぞれ別の頂点に向かってついてる三角形が浮かぶ。……え?
「……蹴る」
 今度は宣言というより単なる前置きだった。
 たわんだ東の背中がぼくの腕に当たったけれど、これはさほど痛くない。
「うぎゃっ!」
 痛かったのはタケシのほうだろう、東の脚は見事に垂直に上がって、タケシの顎にハイキックを食らわせていた。叫び声とともにタケシの躯は後ろの植え込みへと倒れこむ。
 それにしても、この至近距離で顎にヒットするって……東、すごい。
「昔馴染みだから、手加減してやった。今度つまんねーことぬかしたら、顎くだく」
 植え込みに倒れて呻いているタケシに向かってそう告げると、東はぼくの腕を引きながら、すたすたとエントランスに入っていく。
「お、俺はあきらめねーぞ!」
 後ろからタケシが叫んでいた。





 東からは昔の遊び仲間だと聞いた。
 「昔からさー、アイツ、俺にカノジョになれなれうるせーんだよ」とも。
 「おまえとこんなんなる前は、ほら、いろいろ悪さもしてるじゃん、俺」とも。
 そうかと思った。
 昔の、遊び仲間。悪さしてた、仲間。
 「気になる?」と聞かれた。
 ううん、とぼくは首を振った。
 昔の遊び仲間。
 うん。わかるよ。それだけのことだろ? うん。全然平気。
 ……本当に、ぼくは平気だったんだ。
 
 
 
 
 
 ポン、と肩を叩かれた。学校行く途中の、駅の雑踏の中。
「ここだったらつかまるかと思ってさ」
 振り返るとしゃきしゃきしたオレンジ色の髪が見えた。
「……えっと……タケシ、だっけ? ホントにストーカー?」
 ついそう聞いたら、やめろよ、とタケシは唇をとがらせた。
「ちょっとアンタと話がしたかっただけじゃん。W大しかわかんなかったからさーここなら会えるかと思って待ってたんだよ」
 すぐに話は済むからと言われて、タケシと一緒に駅前のコーヒースタンドに入った。東に怒られるかなと思ったけれど、顎の下にデカイ湿布を張ってるタケシはどこか憎めなくて。
「洋平に聞いた? 俺のこと」
「……昔の遊び仲間だったって」
「あーそーなんだよなー」
 タケシはタメ息をつきながら、コーヒーにフレッシュと砂糖を入れた。
「アイツは遊びなんさ、いつも。本気になった俺がバッカみてえ」
 ……あれ? ぼくは違和感に首をひねる。
 遊び。うん。東もそう言った。だけど……なんか今、ビミョーに遊びのニュアンスがちがってなかったか?
 ぼくの違和感にはおかまいなくタケシは話を続ける。どこか甘酸っぱい口調。
「やっぱさー本気になると全部欲しくなるじゃん? 遊びでもさ? 我慢できなくて仕掛けたら、ベッドから蹴り出されてさー」
 コーヒーを口に運ぶつもりだった手が途中で止まってしまった。
 ……遊びって……遊びって……!
「俺もネコは勘弁してほしくてさー。それになんつーか、やっぱ方向がちがうじゃん? 俺はアイツを泣かしてみたいわけで、俺が泣かされたいわけじゃないわけよ。な? わかるだろ?」
 ……わかる。わかりたくないけど、わかる。東が昔、このタケシとナニをしていたか。ネコっていうのが、同性同士の性行為の際に受け身に回るほうだということも、ぼくは知識として持っていて、だから、タケシの言うことはよくわかる……。
 カップを持つ手がふるふると震えだして、ぼくはなんとかこぼさずにカップをソーサーに戻す。
「でさ。アイツがどーしても、絶対、ネコは我慢できないっていうならさ、俺もあきらめようがあるわけよ。でもさぁ」
 タケシはもう溶けきってるだろうフレッシュと砂糖をまだぐるぐると混ぜている。
「相手によるっつーんなら、俺でもいいじゃねー?とかさ、思っちゃうじゃん?」
 だんだん話がわからなくなって、ぼくはただ、冷えていく自分のコーヒーを見つめる。
 ――相手によるって? なにが……?
「アンタとはどう? アイツ、ネコもやる?」
 どういう意味だ? どういう……?
 話が見えない。
 混乱していたぼくはわかる部分にはやたら正直に反応してしまって、小さく首を横に振っていた。東とぼくの間で、ベッドの中で役割交代はなかったから。
「あーやっぱな。やっぱあの人相手だけか」
 あの人?
 ぼくは顔を上げた。
 そんなぼくの顔を見て、でもアンタはえらいよなと、タケシは本当に感心したように言った。
「こないだ覗きに行ったらさ、今でもマウンテンに行ってんだよな、アイツ。アンタも一緒に連れてさ」
 マウンテン。東のバイト先の喫茶店の名前。
 なんでここでその店の名前が……? 
「なあ? アンタは平気? 自分にはヤラさせてくれない相手が、ヤラせる相手と一緒にいてさ?」
 たださえわかりにくいところに、使役動詞が変な活用しながら続いて、ますますわけがわからない。ヤラさせ……? ヤラせ……?
「もしかして、俺の国語ヘン? あれ? ヤラさせ、ヤラせせ……?」
 首をひねっていたタケシは、まあいいやと顔を上げた。
「とにかくさ、」
 薄いけれど形のよい唇が動くのを、ぼくはぼうっと見ていた。
「アンタ、平気かって聞きたいんだよ、俺は」
 わからないわからない。……わかりたくない。でも、耳をふさぐことも出来なくて、ぼくはぼうっとしたまま、タケシの唇が動くのを見ていた。
「洋平が柴さん、ああ、マウンテンのマスターね、あの人にだけは抱かれるわけじゃん? でも、アンタは洋平に抱かれてるだけなんだろ? なあ、そういうのって平気なん?」
 ぼくは口をきくこともできなかった。




                                                          つづく





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