裏切りの証明<2>
 

 




     *     *     *     *     *     *     *     *  


 小さい頃からよく言われた。
「ホント、おかあさんにそっくりねー」
 おかあさんは女で、自分は男だったから、洋平はそう言われるといつも、
「似てないよ!」
 反論したけれど。でも、本当は嬉しかった。それはわあっとこみあげてくる嬉しさとはちがって、こしょこしょと脇をくすぐられるような嬉しさ。
 幼い洋平は母に似ていると言われるのが好きだった。
 そのまま思春期に入っていたら、しかし、洋平も普通の少年と同様に、親に似ているといわれることに反発し、軽い嫌悪すら抱くようになっていたかもしれない。が、洋平が10歳の年に母美保は亡くなってしまっていて。
「おまえ、ますます美保さんに似てくるなあ。生き写しってほんとにあるんだなあ」
 父の学生時代からの友人にそうしみじみと言われ、
「うっせ。おれは男だっつぅん」
 口をとがらせ反論しながらも、中学生になった洋平は、やっぱりどこかうれしかったりしたのだ。
 女顔なのはイヤだったが。
 もう二度とそのぬくもりに触れることのできない母が、それでもまちがいなく自分と繋がっているのだと、確かめられるような気がして。洋平はうれしかった。





 母が亡くなってから洋平は父と二人暮らしになった。父は洋平が小学校の間は仕事をセーブしてくれていたが、忙しい商社勤めでそうそう無理がきくわけもない、洋平が中学に上がる頃から、出張だ残業だと、家にいる時間は少なくなった。
 それでも父が十分に自分を大事にしてくれているのはわかっていたから、洋平にはなんの不満もなかった。親の帰宅が遅いおかげで、夜も遊べるのはありがたかったし。
 中二の秋だった。
 その日、父親は海外勤務になる同僚の歓送会で遅くなると言っていた。それならと、洋平は友達とカラオケで騒ぐことにした。少々おふざけも過ぎて、家に帰ったのは12時近かったが、それでもまだ父は帰宅していなかった。
 自分も遊んできたことを咎められないことにほっとしつつも、ふと洋平が感じたのは寂しさだった。
 小学校の間は。
 父は忙しい仕事をやりくりして、それでも夕飯は一緒に取れるようにがんばってくれていた。付き合いの酒はできるだけ断り、仕方なしに出掛ける時にも洋平が寝る時間までには帰って来てくれていた。なのに……。
「……アホらしい」
 ふと感じた寂しさを、洋平はそんな言葉で片付けた。小学生のガキじゃない、一人にしておいても大丈夫だから、とうさんも遅くなる。ガキみたいなことをグズグズ考えてないで、さっさとシャワーを浴びて寝てしまおう。
 パジャマを着て濡れた頭をタオルでがしがし拭いていると、インターフォンが鳴った。とうさんなら自分で鍵を開けて入ってくるはずだけど……? 不審に思いながら魚眼レンズをのぞけば、やはり父が立っていた。
「おかえり、とうさ……」
 タオルを頭から垂らしたまま、ドアを開けながら洋平は普段通りにそう言ったのだが。
 父の瞳がいっぱいに開いたと思った、次の瞬間、
「美保っ!」
 洋平は父の胸に思い切り抱き締められていた。うわ、と思ったのは母の名前とともに抱きつかれたのに驚いたせいもあったが、抱きついてきた父親がモロに酒臭かったせいだった。
 こいつ、すげえ飲んでやがる。
「美保ぉ、美保ぉ」
 すりすりと思い切り頬を寄せてくる成人男性の体に押されて、洋平はよろよろと玄関の壁に押し付けられた。
「ちょ、とうさん……!」
 必死に押しやろうとするが、息子を愛妻と間違えた父親の抱擁の腕はゆるまない。
「ずーっと、ずーっと会いたかったんだ、美保ぉ……」
 泣きそうな、でも、甘い声が、耳元でささやく。
 今度、うわ、と思ったのは耳に触れたその息と鼓膜を震わせたその声が、もう覚えのあるくすぐったさを背中に走らせたせいだった。
 いや、それはマズイだろ。洋平は即座に自分にツッコむと、
「ちょっと待てって!」
 なんとか酒臭い父親の腕から逃れようと身をよじった。が、それがかえってまずかったのか。
「……美保」
 アルコールにとろんと蕩けて、焦点のあやしい瞳で、父親に間近からじっと見つめられてしまった。
「ぼくは君が好きだ。ずっとずっと君だけだ。ぼくには君だけなんだ」
 そのセリフは墓に向かって言ってくれ。
 ふだんだったら、洋平はそう父親に言い返していただろう。
 だが……。
 肩に回った腕の力強さ。酔いに乱れながらも、見つめてくる瞳の真剣さ。
「…………」
 知っていたつもりで、わかっていなかった事実に、声が出なくなった。父は男で、母は女だったんだ、と。年上の女の子に手ほどきされてセックスを知った時、自分が産まれたということは、父と母もコレをしたのかとぼんやり思いはしたけれど。それはあくまで頭で思ったことであって、こんなふうに……父が男であることを、抜き差しならないところで思い知らされるのとは全然ちがって……。
「美保……」
 父のささやきはいっそうの甘さを帯びた。その顔がありえないほど近々と寄せられてくる。
 心拍が異様に速く大きくなった。
 ――キスされる!
 そうわかっていたが、動けなかった。
 自分を抱き締める腕の強さ、見つめてくる視線の熱さ、呼ぶ声の甘さ……。全身が細かく震えてくるような気がした。心臓のドキドキが喉元までせりあがってくる。
 あと、ほんの数ミリで唇が触れる……しかし、その刹那。
「阿呆!」
 叫んで洋平は思い切り膝を跳ね上げていた。
 急所に当たったのか、
「う」
 小さく一声呻いて、父はその場にうずくまった。
「クソ親父! てめえの女と息子、間違えてんじゃねえよ!」
 顔が火を噴くほどに熱くなっていたが、洋平は思い切り叫んだ。
 クソ親父クソ親父クソ親父!!
 どれほど胸の中で繰り返しても収まらなくて、洋平は玄関で倒れた父をそのままに自分の部屋へと引き上げた。
 風邪でもなんでも勝手に引け! 馬鹿野郎! そう毒づきながら。





 翌朝、玄関から毛布を巻きつけて現れた父親は二日酔いのひどい顔をしていたが、もう完全に父親の顔に戻っていた。
「あー……ゆうべは呑みすぎたよ。どうやって帰ってきたのか、全然覚えてない」
「……水飲む?」
「ああ、頼むよ」
 大きいグラスに冷えたミネラルウォーターをなみなみとついで、洋平は黙って父親に差し出した。
 洋平の不機嫌を読み取ったのか、
「悪かったよ。毛布かけてくれて、ありがとう」
 父親は殊勝にそう言った。
 もし父が。『毛布をかけてくれたのは洋平か?』と聞いてきたら。『いや? かあさんだろ』と答えてやろうと意地悪く思っていた洋平だったが。本当にすっかり昨夜の記憶をなくしているらしい父親に、意味のないすね方をしていても仕方ないような気がした。
 それでも、
「……もし、かあさんが生きてたらさ、」
 洋平は言わずにいられなかった。
「ああいう飲み方は怒るんじゃね? ムチャすんなって」
「ああ、」
 父親はほわんと笑った。
「……そうだな、美保ならきっとそう言って怒るな。……自分はムチャばっかしててもな」
 父の視線が限りない愛しさをはらんで、テーブルの上にも置いてある母の写真に向けられる。
「……親父、ホントにおふくろのことが好きなんだな」
「え?」
「なんでも! おれ、出かけてくるから!」
 やってらんねえ、と洋平は思った。
 父親が母親にベタ惚れだからと言って……なぜ、自分がおもしろくないような……寂しいような気さえするのか……考えたら、やってらんねえ、と。





 ……おかあさんにそっくりね……
 でも、おれは、美保じゃない。
 


     *     *     *     *     *



 おなかのあたりがどんより重くて、気分が悪い。
 わかってる。体調のせいじゃない、さっきタケシに聞かされた話のせいだ。
 東が、マスターと?
 なぜか嘘だとは思えなかった。『なあ、あんたは平気なん?』本当に不思議そうだったタケシ。
 その顔は嘘を言ってるようには見えなかった。
 東が、マスターに抱かれてる?
 『あんたは平気なん?』
 平気なわけがない。
 気分が悪かった。最悪だった。
 学校には行ったけれど、東と顔を合わせたくなくて、教室にはわざと遅れて入った。一番後ろの席に座って、チャイムより早く教室を出た。ランチタイムはキャンパスの中でも一番遠くの学食まで足を伸ばした。
 一人できつねうどんを食べ終わり、午後にひとつ残っている語学だけは東を避け切れないだろうからサボろうかと考える。
 ――本当のことを東に確かめなくちゃいけないと思う。思いながら……ぼくはそれが怖かった。『洋平が柴さんにだけは抱かれてる』タケシの言葉を思い出すだけで、こんなにドス黒くてイヤな気分になるのに。もし、もし、それが本当の本当だったら? ぼくは東を許せるだろうか……?
 頭に浮かんだ、その疑問の恐ろしさに背中が震えるような気がした。
 もし、もし本当だったら? ぼくは東と今まで通りに……?
「なんで避ける」
 恐ろしい疑問に寒気すら感じていた時だった、後ろからいきなり肩をつかまれた。
「わ!」
 思わず声を上げて振り返ったら、剣呑に目を釣り上がらせた東が立っていた。
「あ、あず……!」
「探した」
 東は不機嫌に言うと、ぼくの隣の椅子にどかっと座った。
「なんでこんなとこで一人で食ってんだよ」
 ……君に会いたくなかったから。
 たぶん、正確に顔に出たんだろう。チ、と舌打ちの音が聞こえた。
「誰かにまたなんかイヤミ言われたのか」
 ぼくはゆっくり首を横に振る。確かに、ゲイだって噂がぼくは怖い。周りの目が怖い。だけどそれだって、東と二人ならだんだんと乗り越えられるような気がしていた、けど……。
「……タケシと会った」
 ようやく思い切ってぼくは顔を上げた。
「え」
 東が驚いたように目を丸くする。
 こんなふうに切り出すつもりじゃなかったけれど、口が勝手に動いた。
「東、モンブランのマスターに抱かれてるって、本当?」
 瞬間、東の瞳に動揺が走った。
「聞いたんだ、タケシに」
 たたみかけるように言葉を重ねたら、
「それ、ちがうから」
 東がうわずった声を出した。
「付き合ったとか、全然、そんなんじゃねーし、第一、そんなの……」
 ちがう、と言いながら。そんなんじゃないと言いながら。東の表情と口調は、ぼくに東の言葉を信じさせてくれなかった。
 ぼくはぎゅっとこぶしを握った。
「……場所、変えよう、東。話したい」





 結局、ぼくも東も午後の講義はさぼってしまった。
 人気のない昼下がりの児童公園でぼくたちは向かい合った。
「……タケシに、なんて聞いたんだよ」
 ブランコの柵に腰掛けて東が口を開いた。その声は心なしか、いつもより気弱そうに聞こえる。
「……東が、マスターに抱かれてるって」
 ブランコに腰を下ろしたぼくは少し東を見上げて答える。
「それに……東はタケシとも遊んでたって。……関係があったって、聞いた」
 東の視線が横に流れる。
 いつも、堂々としてて。強気で。東がなにかに臆してるところなんて、ぼくは見た覚えがなかった。
「タケシは……本当のこと、言ったんだね……」
 それはほとんど確認だった。
 東はゆっくり深呼吸した。
「……ひとつ、ちがう。マスターのことは……もう過去形だ」
 視界がぐらりと揺れたような気がして。ぼくはあわててうつむくと、ぎゅっと目を閉じた。
 過去形。過去形。東は、マスターに、抱かれてた。
 東が認めた事実に、頭と胸のなか一杯に真っ黒のタールみたいなものを流し込まれたような気がした。
「過去形って……いつの話?」
 喉が押し潰されてるみたいな変な声になりながら、ぼくは尋ねた。
「いつ、東、マスターに抱かれてたの」
 柵を握り締めてる東のこぶしに白く関節が浮いた。
「……もう……昔の話だから。……それに……付き合ってたとか、恋人とか、そういうんじゃなかったし」
 その返事に、ぼくはカッと来た。
「なに、その昔の話って。昔って、ふつー、十年とかそれぐらい前のことだよねえ? なに東、小学生の時にマスターに抱かれてたって言うの。それ犯罪だろ。マスター変態じゃないか! それになんだよ、付き合ってたんでも、恋人でもないって! 東、援交でもしてたの。マスターに買われてたとでも言うの!」
 毒のある言葉が次々にぼくの口から出た。
 止まらなかった。止めたいとも思わなかった。
「便利だよね、昔って言えば済むんだから。昔の話だ、昔のことだ、昔、むかし、むかし……」
 がっと東が地面を蹴った。
 普通ならきっとぼくはそこでびびって口をつぐんだろう。だけど……どうしても収まらなかった。ぼくの中に流れ込んできた真っ黒いタールは、べたりとぼくの内側に付着して、重く、臭く、ぼくを中から染めていく。
「いつ? 東。昔っていつだよ」
「……中二のときだよ」
 苦々しい声が答える。
「一回だけ?」
「…………」
 答えない東に、ぼくは重ねて問う。
「マスターとは一回だけ?」
「…………」
 東は自分の指の甲をぐっと噛んで、いまいましげに中空を睨み、答えない。答えないのが答えだった。
「……東、マスターのことが好きだったの」
「……中二だったって、言ってるだろう……。俺は……ガキで……まだ、なんもわかってなくて……」
 途切れがちな東の言葉に、ぼくはそれでも追い討ちをかけずにはいられなかった。
「なにもわかっていない子どもを、マスターが騙したの? 東は騙され続けたの?」
 東がぼくを見つめた。
 不思議な瞳だった。
 哀しげでもあれば……怒ってもいて……そして、揺れていた。
「……マスターは、俺を騙してない。……俺は、ガキだったから……その時の自分の気持ちを、恋なんだと思い込んでた。だけど、それは俺がおまえを好きになったのとは全然ちがう。俺はガキで、マスターのことを好きだと思って、マスターに抱かれてたけど、それは……」
 聞きたくなかった。
 ぼくはぼくが尋ねたことに東が答えているのをわかっていながら……両手で耳をふさいだ。
「聞けよ、秀!」
 東がぼくの腕をつかもうとする。
「聞けってば! 俺はガキだったんだ! どうしようもなく! マスターは大人で、俺の相手をしてくれてただけなんだ! 秀! 俺が本当に好きになったのは、おまえだけ……!」
「離せよ!」
 ぼくは東の腕を振り払い、叫んだ。ドス黒くて重いものが、喉元まで込み上げてきていた。
「じゃあどうして今でもマスターといるんだよ!」
 ぼくは勢いのまま、その黒いものを吐き出し、東に浴びせた。
「昔だとか! ガキだったとか! いいよ、それならそれでいいよ! でも、今でも東、マスターと一緒にいるじゃないか! ぼくに……ぼくに一度も話してくれたことないじゃないか!」
 ああ、そうだ。
 叫びながら、ぼくはぼくの中に渦巻いていた黒いものの正体を知る。
 これは、嫉妬だ。
 ぼくは東の鳶色の瞳を見つめる。哀しげで、苦しげな、瞳を見据える。
「……東……今までずっとあの店でバイトしてて……ぼくもマスターと会ってて……なのに、今まで話してくれなかったのは……」
 そうだ、これは嫉妬だ。そして、ぼくが怒っているのは……。
「それは、ぼくに対する裏切りじゃないのか……?」
 ゆらり。大きく東の瞳が揺らいだ。
 そして。ゆっくりその目が伏せられた。





                                                          つづく





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