裏切りの証明<3>
 






 まだ、腕を東につかまれているような気がした。
『裏切ってない!』
 街の雑音の中、東の声が聞こえるような気がした。
『俺はおまえを裏切ってなんかない!』
 一人で帰りたいから、と立ち上がったら、東は行かせまいとぼくの腕をつかんで叫んだ。
『言えな……言わなかったのは、悪かった。けど、ちがう、それは隠そうとかそういうんじゃなくて……』
 東の手を振りほどいて帰ろうとしたら、腕に跡がつくほどきつく握られた。
『言わなかったのは、もう昔の話だから! もう、俺にもマスターにも終わった話だったから!』
 俺にもマスターにも。そう、二人にとっては。
 もう聞きたくなくて顔を背けたら、東は本気で怒ったようだった。
『じゃあいちいち全部、おまえに報告すればよかったのか! マスターと寝てた! タケシともヤッてた! セイヤとケンジとも遊んだ! 名前聞いてない相手のことも言うのか!? 高校の時寝た女の名前も全部聞きたいのかよ!』
 ちがう! そんなこと聞いてない!
 ぼくと付き合う前の東がかなり遊んでたのは、ぼくだって知ってる。ぼくはそれを責めてるわけじゃない。ぼくは……ぼくが、許せないのは……。
 腕を振りほどいて背中を向ける間際、東の傷ついたような表情が見えた。
 でも、ちがうんだ、東。ぼくが許せないのは……。





 もしかしたら――東は知らないのかもしれないと思った。
 マスターと話してる時、自分がどんな顔をしているのか。
 本当に心を許してるんだと思える、くつろいだ自然な笑顔。少し乱暴だけど、親しみのこもった物言い。
 知らないから……気づいてないから……あんなことが言えるのかもしれないと思った。
 裏切りじゃない、とか。昔の話だ、とか。……本当には好きだったわけじゃない、とか。
 自分がマスターとどんな顔で話してるか、東はきっと気がついてない。
 だいたい……本当に終わってることなら……どうして東は今もマスターの店でバイトなんかしてるんだ? なんで……今まで一言も、マスターとのことをぼくに話してくれなかったんだ?
「バカみたいだ……」
 思わず呟きが漏れていた。
 バカみたいだ、バカみたいだ、ぼくは。
 何も知らずに……疑いもせずに……東とマスターと一緒になって笑ってた。東が「昔」、抱かれてた人の前で、バカみたいに笑ってたんだ。
 店にいる時も。東がマスターのことを話す時も……そうだ、マスターに教えてもらったって言って、東が紅茶を淹れてくれたり、簡単な食事を作ってくれた時も……ぼくは何も知らないまま、嬉しそうに笑ってたんだ……。東を抱いた人に、東が教えてもらったことを、ぼくは何も知らずに、喜んで……。


「赤だぞ!」
 力強い手にぐっと肘を引かれた。


 爆音上げて、バイクが歩道に引き戻されたぼくの鼻先をかすめるように走っていく。はっと顔を上げれば通りの向こうの信号は赤、スクランブル交差点は車の流れに満ちている。
「蒼い顔して信号無視か。おまえ、意外とベタなキャラなんだな」
 ぼくは慌ててぼくの腕を引いてくれた人を振り返る。ぼくより少し年上の感じの男の人が、口調は冗談めかして軽かったけれど心配げな眼差しでぼくを見ていた。
 浅黒い肌。南方系の、彫りの深い、でも、親しみやすさを感じさせる顔立ち。
 ゆっくりと記憶の中から制服姿だった頃の姿が浮かび上がってくる。
「あ……河原先輩?」
 高校時代の先輩だった。ぼくが一年生だった時に三年生だった、河原先輩。
 先輩は軽くぼくの肩を叩いた。
「街中で泣くなんて、ドラマしてるなあ、高橋」
 言われてぼくはやっぱり慌てて目をこすった。
「な、泣いてません!」
「そういうことにしておいてもらえるとありがたい。俺は18歳以下の可愛い女の子しか、慰めたことがないんだ」
「な、慰めなんかいらないです! 泣いてませんから、ホントに!」
 ああ、なんてカッコ悪い。
 強く否定してから、ぼくは俯いた。こんな、街中を歩きながら涙ぐむなんて。知らない間に涙が滲んでるなんて。……東のことを思って、こんなに揺さぶられるなんて……。
「……慰めてはやらないけど、コーヒーぐらいつきあってやろうか?」
 河原先輩は軽い調子で言って、ぼくの顔をのぞきこんできた。
「俺、後輩には優しくする主義だから」
 そう言うと、先輩はぼくの返事を待たずに、
「あ。スタバあるじゃん。あそこでいいな?」
 少し先にあるコーヒーショップに向かってすたすたと歩き出した。
 
 
 
 
 
「にしても久しぶりだよなあ。高校卒業からだから、三年ぶりだっけ?」
 通りに面した二階の窓際にぼくたちは並んで座った。
 先輩がふざけたようにぼくの頭を撫でる。
「大きくなったなあ、高橋。高一のときはまだ子ども子どもしてたのに」
「……先輩は変わらないですね」
 冗談なんだか本気なんだかわからないセリフをぽんぽん言うところは、ホント、先輩変わらなくて。ついそう言ったら、先輩は、え、と身を乗り出した。
「変わらない? うそ。カッコよくなってない?」
 こんな気分でなかったら、ぼくは噴き出してたかもしれない。
「先輩は昔からカッコよかったですよ」
「もしかして憧れの先輩だった?」
「……ごめんなさい、憧れてはいませんでした」
「ヤロー」
 とても笑う気分じゃないと思っていたのに。ぼくは先輩のペースにつられて、つい笑顔になっていた。
 本当に河原先輩、変わらないなと思った。河原先輩はぼくが一年生でクラス委員になった時、生徒会で副会長を務めていた。会長の富永先輩とはすごくいいコンビで、頭が切れてリーダーシップがある代わり、少し独善的だったり、とっつきが悪い感じの会長を、河原先輩が人当たりのよさでうまくフォローしていて。『コイツは真顔で冗談を言うから気をつけろ』なんて富永先輩が言うことがあったけれど、ぼくたち一年生にとって、河原先輩は話しやすくて頼りがいのある、いい先輩だった。
「そう言えば、高橋は今なにやってるの」
 詮索っぽくはなく、先輩に聞かれた。
「大学生やってます、W大で。先輩は?」
「俺も学生、R大でバケ学やってる」
「すごいですね。二次試験に数学あるところなんて、ぼくは絶対無理です。もしかしたら、富永先輩も同じ大学ですか?」
「あいつはK大。おまえもガーディアンと今も一緒?」
「ガーディアン?」
 先輩の言ってることがわからなくて聞き返した。先輩は、ほら、と手を振った。
「背の高い。高橋と一緒に委員やってた。なんて言ったっけ、ほら……」
「……山岡大輔……ですか?」
「そうそう。テニス部も一緒だったろ、おまえたち」
 ぼくはようやくうなずく。ここで大輔の名が出てくるとは思わなかった――
「山岡はなんかおまえの保護者っぽかったろ? あいつがいつも目を光らせてたおかげで、高橋にアプローチしそこねたってヤツも俺の周りにはけっこういたんだけど」
「え、なんですか、その話……」
 笑ってごまかそうと思ったけど。口の端が引きつった。大輔がいたおかげ? でも、大輔は……。
「泣いてたのは山岡のせい?」
 突然。
 さっきまでのおちゃらけた口調とはちがう落ち着いた声音で聞かれてぎくりと来た。
「話したくないなら話すな」
 先輩は窓の外に視線を遊ばせてコーヒーのカップを口に運ぶ。
 その表情は、きっとぼくが真剣に打ち明ければ真剣な色になり、ぼくが笑ってごまかせば笑って流してくれるんだろうと思える、優しい無関心で……。
「……話したかったら……話してもいいんですか?」
 ぼくは尋ねていた。
 
 
 
 
 
「……大輔は関係ないんです……。ぼく、今、……付き合ってる人がいて」
 口をつぐんで静かな横顔を見せている先輩に、ぼくは話し出した。
「その…人が、前に付き合ってた相手がいて……ぼくは全然知らなかったから、その人ともぼくは仲良くしていて……」
 知っていたら、ぼくはあんなに無防備に『マウンテン』で笑えていたろうか。
「全然、教えてもらえてなくて……。終わったことだとか、昔のことだとか、そんなこと言われても……だったらどうして今も一緒にいるのか、わかんないじゃないですか……」
 先輩は片腕で頬杖をつくと、小さくタメ息をついた。
「『友情はしばしば恋愛に終わる。だが、恋愛が友情に終わることはない』っていう昔の人の言葉があるんだって。んでも、けっこう上手に恋愛を友情に落ち着けちゃってるケースも見るからなあ。もしかしたら、ホントに高橋がつきあってる相手とその昔の相手は、もう終わってるのかも、だよ?」
 ぼくはきつく手を握って窓の外を見つめる。
「……高橋が許せないのは、」
 先輩の声がゆっくりと続く。
「もしかしたら、二人の間が終わってないかもしれないこと? それとも、二人の過去を隠されていたこと?」
「全部」
 考えるより先に答えがこぼれていた。
「全部」
 マスターに東が抱かれていたことも。そのマスターの元で今も働いていることも。二人の間にかつて通っていた感情も。今も通っている感情も。それを今日の今日まで知らされなかったことも。知らないままにぼくが過ごしていたことも。全部。全部だ。どうして、と思ってしまう。どうして、どうして! ぼくはなにひとつ、納得できていない。
「全部かあ」
 先輩は呟くと、柔らかな目でぼくを見た。
「高橋、その相手のこと、すごく好きなんだ」
 ぐっと喉の奥に大きなかたまりが込み上げてきた。
 ぼくは急いでうつむく。でも、パタパタ、涙がテーブルにしたたり落ちた。
「すっごい好きな相手だからさ、昔のことまで許せないんだよ。全部、許せないほど、高橋はその相手が好きなんだよ」
 先輩の手がぼくの背中をぽんぽんとたたいた。
「……よしよし」





 時間にしたら短かったと思う。
 ぼくは必死に嗚咽をこらえ、すみません、と先輩に頭を下げた。
「きょ、今日知ったばっかで……まだ、自分でも整理できてなくて……」
 謝りかけていたら、
「あ!」
 先輩が大声を上げた。
「ダメじゃん、俺。高橋、いくつ?」
 突然、年齢を聞かれてぼくは乾ききらない目を見張った。
「え。19、ですけど」
「うわあ。二重にダメじゃん! 19才の男なんか慰めちゃったぜ、俺」
 なんだか。
 怒りたいんだか、笑いたいんだか、もっと泣きたいんだかわからない、不思議な衝動がぼくの身内に湧いた。
「……先輩。失礼です。泣いちゃったのは悪かったですけど、でも……」
「高橋!」
 先輩はぼくの肩に手を置くと、ぐっとぼくの顔をのぞきこんできた。
「いいか。内緒だ」
「は?」
「お互いの名誉のためだ。泣いたことも慰めたことも、なかったことにする。いいな? 人に聞かれてもあれは目にゴミが入ったと言い張るんだぞ?」
「誰が聞くんですか、そんなこと」
 言い返しながら、ぼくはぼくが笑っていることに気が付いた。
 ――笑ってる。笑えてる……。
「……先輩、ありがとうございました」
 ぼくは心から言って、頭を下げた。



 





                                                          つづく




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