裏切りの証明<4>
 






 その晩、ぼくは寝られなかった。
 眠りは浅くて切れ切れで……苦しくて。何度も寝返りを打っている間、ぼくは夢なのか、ぼくの不安が形になってしまったのかわからないものを見た。夢にしては生々しく、想像にしては脈絡のない、夢想。
 眠れぬ夜の狭間にぼくが見たのは――マスターに抱かれている東だった。
 東の引き締まった白い躯に、うっすらと毛に覆われた褐色の腕が巻きついていた。反り返る上体。後ろから回された腕。東の眉はかすかに寄せられていて。そして、その東の首筋にマスターが顔を埋めていて。
 東の腕が上がった。その腕はしなやかにたわんでマスターの頭を抱え込む。東が横を向く。かすかに開いた唇。顔を上げたマスターがその唇に舌から触れていく。唇が深く重なって……突き上げられたみたいに、東の腰が揺れて……。
 たまらなく、重苦しくて嫌な気分で、朝、ぼくはベッドを出た。
 そんな夢を見てしまった自分が嫌だった。夢で見たものが嫌だった。
 だけど……。
 のろのろと洗面所に向かいながら、ぼくは思う。
 夢なのか想像なのか……とにかくぼくの頭の中で東はマスターに抱かれてた。けど……それは「今の」東とマスターだった。
 東は中二だったっと言っていた――。ぼくは高校に入学した頃、初めて東を見かけた頃を思い出す。まだ口をきいたこともなかった、友達でもなかった。東はよく先生にも怒られてて派手で、だからぼくは東と同じクラスになる前に、もう東の名前も顔も覚えていたけど。四年前の東。今よりやっぱりまだ顔立ちは幼い感じだったと思う。体型も華奢で、背だって今ほど高くなかったと思う。それよりまださらに二年も幼い東って……。
 冷たい水を思い切り顔に浴びせたけれど、気分は全然よくならない。
 東とマスターが関係を持っていて、ぼくはそれを知らなかった。その衝撃に加えて、もうひとつの事実がじわりじわりとぼくを内から蝕んでいくような気がした。
 東は、中学生の時、マスターに抱かれてた……。
 
 
 
 
 
 きのうと同じ、教室の一番後ろの席で講義を受ける。終わったら、誰より早く教室を出る。
 やっぱり一人で学食にいたら、メールが来た。
『話がしたい』
 東からだった。
 返信のしようがなくてほうっていたら、5分もたたないうちに次が来た。
『頼む。話がしたい』
 頼む、の文字が目に飛び込んできた。短い言葉。たった二文字の言葉。でも、その短さに東の必死さがにじんでいるように思えて。
 ぼくはゆっくりと返事を打ち出す。
『少し時間がほしい。考えたい』
 すぐに返事が来た。
『待ってる。待ってるけど、どれぐらい待てばいい?』
 少しってなんだよ、二日? 三日? いつになったら、おまえ、俺と話してくれるんだよ。
 メールの文字の向こうから、東の声が聞こえるような気がした。
 ぼくは少し迷ってメールを打ち返す。……今日は水曜だから……。
『来週の日曜、連絡する』
 また速攻、返信が来た。
『来週? 待てない』
 むっと来てすぐに打ち返す。
『待つって言ったろ!』
 今度は少し間があった。
『じゃあ、リミット来週の日曜で待つ。毎日待ってる。寝てる間も便所の中でも待ってるから』
『便所の中でまで待たないでほしい』
 思わずツッコみ返したら、やっぱりすぐに返信が来た。
『待ってる。ずっと、待ってるから』
 待ってる、ずっと。胸に響くその言葉を噛み締めながら、ぼくは携帯を閉じる。
 東。
 君の必死さを、想いを、ぼくは受け止めたいと思う。
 だけど……。
 目を閉じて浮かぶのは……白いうなじを反らしてマスターと口付ける東の横顔だった。





 花があったら、花びらを一枚一枚むしっていたかもしれない。
 話したい。話したくない。聞きたい。聞きたくない。
 ぼくは気持ちを決めかねて迷った。
 どうやって東はマスターと知り合ったのか。どうして……そういう関係になったのか。
 ぼくは以前、ぼくと付き合い出すようになる前の彼女や彼氏のことを東に聞いたことがあった。
「んー。それなりにちゃらんぽらんに。それなりにたくさんと」
 東はそう言ってた。
 じゃあマスターも、そういう「それなりにちゃらんぽらんに、それなりにたくさん」な相手の一人だったんだろうか。
 ぼくがどうしても引っかかるひとつはそこだった。
 東は確かにぼくと付き合い出してからはぼくに……その、一筋でいてくれたと思うけれど、その前にはずいぶんと遊んでいた。高校時代に東と関係があると噂された女の子は、ぼくが知ってるだけでも五人は下らない。だけど……そこは東もさすがに気をつけて隠していたんだろうけれど、東が男ともつきあえる人種なんだっていうことをぼくが知ったのは東に初めて迫られた時で。東が関係を持った男性のなかでぼくが会ったことがあるのは、マスターとそのことを教えてくれたタケシだけだ。――これはどういう意味だ?
 だいたい……。そこでぼくはぞくっとくる。東、マスターとも遊びだったのか……? ほかの人と同じように、遊びの相手? でも……。
『俺はガキで、マスターのことを好きだと思って……』
 東はそう言ってた。
 好きだったって。
 ガキだから勘違いしたといいながら、でも、好きだったって……。
 好きだった相手。抱かれてた相手。今もバイト先の店長として親しくしている相手。
 東に聞きたかった。
 どういう付き合いだったのか。どういう気持ちだったのか。今はどういう付き合いなのか。
 目の裏に、のけぞる東の白い裸体がちらつく。今よりもっと細くて小さな躯で、東がのけぞる。……どういう顔で? 東……どういう声で……マスターに抱かれてたの……? もしかしたら、今でも……?
 聞きたくて。聞きたくなくて。
 ぼくは迷い続けた。
 
 
 
 
 
 その日、ぼくは十日ぶりに東の家を訪ねた。
 ドアを開けてくれた東は、ちゃんとメールで行くよって伝えてあったにも関わらず、ぼくの顔を信じられないものを見るように見つめてきて。
「……!」
 無言だった。ぼくはまだドアの外側に立っていた。けど東は裸足のまま下へと踏み出して来て。ぼくは東に抱き締められていた。





 ぎゅって。
 苦しいほどに強い腕の力だった。
 ぼくの顔は東の肩口に押し付けられ、上半身はぴったりと密着するほど強く、抱き締められた。
 ドアはまだ開きっぱなし。同じ階の人が出て来たら、なんと思うだろう?
 そう思いながら、でも、ぼくを抱き締める腕の強さがそのままこの十日間の東の不安を伝えてくるようで……ぼくは身をよじることもできなかった。
「……来てくれて、ありがとうな」
 細い声がいつになく気弱げで。
「……来るって言っただろ」
 ぼくはゆるく東の背中に腕を回した。





 話に来たんだと言おうとしたけれど。
 唇を唇で塞がれた。
 話さなきゃいけないだろと言おうとしたけれど。
 すがるような瞳で見つめられたら、なにも言えなくなった。
 東は何かを確かめたがっていて。
 ぼくはそれを拒めなくて。
 ぼくは東の部屋で東のベッドで、東に抱かれた。
 それは……不思議なセックスだった。今まで何十回となく、ぼくは東とヤッて来たけれど……。
 東の手はぼくの躯の上を滑りながら、どこか遠慮がちだった。跳ねのけられるのを怖がっているように、ぼくがどんな反応をするのか、心配するように。なのに、行為を続けようとする意志は強固で。
 そしてぼくは……そんなことは本当に初めてだったけれど、ぼくは、東の腕の中で……どこか、醒めていた。東の愛撫にぼくの乳首は硬くなったし、ペニスもたらたらと先走りの露を滴らせた。東に穿たれて、はしたない声も上がった。だけど……。快感は躯の浅い部分で起こり、それはぼくの深くを、いつものように麻痺させ酔わせ、ぐしゃぐしゃにしてしまうことはなかった。怯えながら強く抱き締めてくる東の腕の中で、ぼくは震えながら醒めていた。
 ぼくの気持ちは尊重してくれながら、強気と余裕でコトを進める東はどこに行ったんだろう。
 心も躯も全部東に明け渡して、頭の中が真っ白になるまできつい快感に酔い痴れてしまうぼくはどこに行ったんだろう。
 そんなセックスは初めてだった。
 それでもぼくたちは、表面上はいつもと変わらないように躯を重ねた。行為を続けた。東がぼくの中で爆ぜ、続けて東の手の中でぼくも爆ぜた時、ぼくは正直ほっとした。東も小さく吐息をつき、ぼくは同じ安堵をその息遣いの中に聞き取った。
 ぼくたちは二人して、表面上だけはなんの破綻もなく、ぼくが東を受け入れるその行為を終えることができたのを喜んでいたんだった。





「バイトは辞めたから」
 並んで横たわりながら、東はそう切り出した。
「…………」
 ぼくは何も言えなかった。辞めることはなかったんじゃないかと言えればよかったのかもしれないけれど、東がもしもマスターの店でのバイトを続けていたらと思うと、たまらなかったから。
「言ってなかったけど、マスターにもちゃんと今、パートナーがいるから」
 うん、ぼくは枕の上で小さくうなずいた。
「本当に、俺とマスターはもうなんでもないんだ。でも、もっと早くにきちんとおまえに伝えておかなかったのは悪かった。ごめん」
 いいよ。ぼくはそう言おうとして……でもやっぱり言えなかった。
 東の瞳が切なげに細くなったけれど、やっぱり言えなかった。
 聞きたくて。聞きたくなくて。
「……俺はあの頃、本当にガキで……」
 ぼくはうつぶせになると枕に顔を埋めた。
「すぐる」
「……もういい」
 くぐもった声でぼくは言っていた。
「もういい」
 本当は全然よくなんかなかった。どうしてどうしてどうして! ぼくの内部は真っ黒になったままだった。
 だけど……。
「……ごめん」
 東の指がぼくの髪を梳いていく。
「でも、俺が本当に好きになったのはおまえだけだから。それは絶対絶対、本当だから」
 うん。
 自惚れなんかじゃないと思う。東は本当にぼくのことを好きでいてくれると思う。だからそれでいいじゃないかと思う。それで納得しなきゃいけないと思う。
 ――どうしてマスターと……。
 口を開けばしつこい非難の言葉がこぼれそうで。聞きたくないことを尋ねてしまいそうで。
「もう、いいんだ」
 東の指にゆるく髪を梳かれながら、ぼくは自分に言い聞かせていた。
 

 





                                                          つづく




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