裏切りの証明<6>
 






 ――東だって……。
 ――東だって……。
 ずっと、そればかりを思ってた。





 目覚めてすぐ、慌ててベッドから出た。急いで服を着た。
 夜の間は照明のせいか淫靡な雰囲気だった部屋が、曇りガラスの小さな窓越しのぼんやりした光に、暗く沈んで見える。
 先輩が身じろいだ。
「……ん、おはよ……」
「お、おはようございます……」
 ベッドの上で半身起した先輩が大きくあくびして、枕元に備え付けになってるデジタルをのぞきこみ、いい時間だなと呟く。
 その剥き出しの肩、胸……。
「高橋、朝メシどうする? 外で食う?」
 先輩の視線がこちらに向けられた時が限界だった。
「え、あ、そう……」
 ぼくは不明瞭に返事して、慌ててバスルームに駆け込んだ。ばたんと閉めたドアを背に、ずるずるとその場に座り込む。
 口元を押さえた。手がぶるぶると震えた。
「……どうしよう……」
 声もなく呟きが漏れた。
 ぼくは、先輩と、ヤッてしまっていた。





 朝早いからとかなんとか言い訳にならない言い訳をして、ぼくはホテルを出るなり駆け出そうとした。
「高橋」
 先輩に手首をつかまれて、心臓が喉元までせり上がるかと思った。
「駅、こっち」
 反対方向を指差されて顔面が焼け付く。
 もう顔を上げることもできなくて、先輩と肩を並べて両側ホテルの建ち並んでいる通りを行く。
 なにやってるんだろうと思った。ぼくはいったいなにをやったんだ。
「……そういう顔をされると、」
 それまで黙っていた先輩が、おもむろに口を開いた。
「すごく悪いことをしたような気になるな」
 ぼくは弾かれたように顔を上げた。先輩が笑いを含んだ目でぼくを見下ろす。
「ようやく目が合った」
 そう言われて。
 なんと返していいかわからなくて、ぼくはまたぎこちなくうつむく。
「ホント、そういう顔されると、」
 先輩が繰り返した。
「悪いことしたなって気になるけど、逆にもっと悪いこと、したくなるよな」
「え……」
「冗談」
 冗談……と言われても。笑える冗談ではなくて、ぼくはもう自分の足元ばかり見て歩いた。
 ようやく大きな通りに出た。通勤や通学の人たちが駅の入り口に吸い込まれて行くのが車の通りの向こうに見える。
「い、いろいろすいませんでしたっ! 失礼しますっ!」
 ぼくは先輩にがばっと大きく一礼すると、駅に向けて駆け出した。
 なんだかもう……いたたまれなくて。





 電車に乗って、学校の近くまで行って、モーニングやってる喫茶店に入って、ようやくぼくは大きく息をついた。
 改めて、なんてことをしちゃったんだろうと思う。
 美味しそうなキツネ色のトーストが運ばれて来てもタメ息ばかりで食欲が出ない。
 ゆうべは……。
 ぼくは自分に対して懸命に言い訳する。
 ゆうべは、飲んでいたし。東がマスターのところに行っているというのが、苦しくて、重くて、一人になりたくなくて。それに……いいじゃないかって思ったんだ。東はマスターとずっと付き合いがあったことをぼくに隠してた。タケシやそれ以外の男たちとも遊んでいた。
 東だって。東だって。たくさん、遊んでた。ぼくを、裏切ってた。
 だから。
 部屋に向かう途中のエレベーターで、先輩に唇を寄せられて、受け入れた。シャワーを一緒に浴びようと言われて、うなずいた。
 東だって、ほかの人ときっとこんなこともしてた。そう思ったから、シャワーの水流の中でさっきのキスとはちがう、ディープなキスを仕掛けられても拒絶しなかった。
 東だって、東だって……マスターにこんなこと……。だから、ベッドの中で先輩の褐色の躯がゆっくり覆いかぶさって来た時に逃げなかった。脚を抱え上げられた時にも、先輩のものがソコに押し付けられた時にも……。
 その生々しい熱さを思い出して、躯がぞくりと震えた。
 飲んでた。東はマスターの所に行っていた。東だって遊んでた。
 言い訳はいくらでも出来る。だけど……。


 なんてことをしちゃったんだろう……。


 ぼくは唇を噛み締めて俯いた。





 その日、東は必須科目にも語学にも出て来なくて、ぼくはホッとするのと苛立つのと、両方の気分を一度に味わった。自分でも自分の気持ちをどっちに持っていけばいいのかわからなかった。
 昼過ぎに東から携帯に連絡があった。
 ちょうどキャンパスを学食に向かって歩いてるところで、東専用のメロディで携帯が鳴り出した時にはどうしようかと思ったけれど……。一度、大きく深呼吸して、ぼくはフリップを開いた。
「俺だけど。勝手して、悪かった」
 東は開口一番そう言った。
「もう斎場……葬儀会場のほうに落ち着いたから。俺、通夜にも出るつもりなんだけど、その前に一度家に戻るんだ。……秀、会って話がしたい。来てくれないか?」
 ぼくは携帯を手に、ぎゅっと目を閉じた。
 ――会いたくない。話もしたくない。
「頼む、秀。今から六時まで、時間あるから」
 ちがう。……会えないんだ、話せないんだ。
「すぐる……」
 電話の向こうで東が黙り込む。
 顔の見えない、息遣いの感じ取れない電話での沈黙はひたすら重い。
「……頼む。きちんと話したいんだ」
 東の真剣な声。重くて、必死な、東の声。
「……三時に、行くから……」
 ぼくはようやくそれだけを答えた。





 東がどんな顔でぼくを迎えてくれたのか、ぼくは知らない。顔を上げられなかったからだ。
「座って」
 ソファを指し示す東の声は硬かった。東はソファとは直角の位置に置かれたスツールに腰掛けて、
「……ゆうべは、本当にごめん」
 そう口を切った。
「でも、マスターにとって、弟さんはホントに特別な存在だったから……放っておけなかった」
 ぼくは何も言えずにうつむき続ける。
「……おまえが怒るのも仕方ないと思う。マスターとのことを黙ってたのも、悪かった。何度かおまえに話そうと思ったんだけど……おまえに気持ち悪がられて軽蔑されるんじゃないかと思うと、言い出せなかった」
 え、と思った。気持ち悪いって? 抱かれていたことが? 疑問に思わず顔を上げたら、こちらを見ていた東と目が合った。静かで、何事かを思い決めたような東の瞳。
「もう、全部、話す。それでおまえに気持ち悪がられて嫌われても、仕方ないから」
 前置きに、ゴク、喉が鳴った。
「俺、母親が小四の時に死んでるじゃん」
 マスターとの話のつもりだったから、突然おかあさんのことが出て来て、ちょっと驚く。
「もう、先月でかあさんが死んで9年になるんだけどさ、おやじ、いまだに新しいパートナーとか見つける気なさそうでさ、ホント、いまだにおやじの中には美保しかないんだよ」
 それは……ぼくも知っている。東のおとうさんは帰って来たら一番におかあさんの写真に挨拶するし、話の中にも『美保はね、美保がね』ってまるで生きてる人のことのようによく出てくる。
「それはそれでさ、息子としては多少アホらしくても、まあ、ほほえましいっつーか、笑えることなんだけど」
 うん、東は時々、『いい加減にしろ、写真にキスとかしてんじゃねーよ!』って怒るけど。でも、東が芯からそれを嫌がっていないのは、顔を見たらわかる。
「……けどさ……俺も最初からはそうは思えなかったっていうか……」
 東の表情がすっと沈む。視線がぼくから外れて床へと落ちる。東は膝に肘をつき、組み合わせた手の上にあごを乗せた。
「かあさんはさ、もちろん、おやじのことが好きだったんだろうけど、それでも洋平洋平って俺のこと可愛がってくれて……俺は寂しいとか一度も思ったことがなかった。かあさんが死んだ後は、とうさんだってちゃんと俺のこと気にかけて、いろいろ大変だったけど、男手ひとつで育ててくれて……」
 東は居心地悪そうに身じろぎした。
「でも……とうさんの一番は俺じゃなかった。……今だったら、それでもとうさんはちゃんと俺のことを大事にしてくれてるって思えるし、それでいいって思えるんだけど……あの頃の俺はまだガキだったから……それが我慢できなかった。俺は俺のことを一番に考えてくれる人が欲しかった。中学に入って、カノジョとか出来てセックスして……でも、俺が欲しかったのは、そういうんじゃなくて……」
 大きくひとつ深呼吸すると東は顔を上げてぼくを見た。
「……軽蔑していい。俺は……とうさんが美保を愛したように、誰かに愛されたかったんだ」





 気持ち悪いとは思わなかった。――とうさんが、美保を、愛したように。
 ただ、そうだったのか、と思った。そうだったのか……。
「俺は14で……まだガキで……なにもわかってなかったから……ちょっと優しい言葉かけてくれる年上の男のところにホイホイついてって……」
 マスターはその頃東が通っていた、ちょっとあやしいライブハウスの常連で、東の顔を見るたび、中学生がこんなところに来ちゃいけないとか説教していたそうだ。その日、様子のおかしい東をマスターは見ていたらしい、ヤクザまがいの男の部屋に連れ込まれたところに助けに来てくれたのだと東は言った。
「でもさ、その時の俺としては、それは余計なお世話なわけじゃん。今なら、あれは寂しくて焦れてたんだってわかるけど、その時は、なんで取り上げるんだよって腹が立って。
 ……かあさんは神様に取り上げられた。とうさんはかあさんに取られっぱなしだ。代わりをようやく見つけたのに、今度はあんたが取り上げるのかって……食ってかかった」
 東は小さく笑いかけて、またつらそうに目線を落とした。
「……マスターもあの頃、まだ若くてさ……本人に言ったら、きっと今でも若いって言うだろうけど……すんげえ怒っちゃってさ」
『取り上げるってなんだ、俺はおまえを助けてやったんだぞ!』
『だからそれが余計なお世話だっつってんだよ!』
 東は叫びながら、連れて行かれたマスターの家で暴れたそうだ。手当たり次第にそこらにあるものを掴んでは投げ、蹴り倒していたら、マスターが力ずくで止めようと抱え込んできて……。
『離せよっ!』
『いい加減にしろっ! そんなに男にケツを掘られたいのかっ!』
『ケツぐらい、いいだろっ!』
 ケツぐらい、いい。誰かにしっかり抱き止められて、おまえがいい、おまえが一番だって言われたい……。
「それでさ……マスターも仕方ないと思ったんだろうな。俺はマスターが離してくれたら、さっきの男のとこに戻る気だったし。すんげえイヤな顔してたよ、『じゃあ俺でいいのか』って」
 ぼくは膝の上で握った自分の手を見つめた。
 そんなふうだって、知らなかった。東とマスターがそんなふうに始まったって、知らなかった。
「……どうして……もっと早くに……」
 教えてくれなかったんだっていう言葉までは出なかったけれど。東には通じたようだった。
「……あんまりさあ、カッコいい話じゃないじゃん? その頃はわかってなかったけど、結局俺はおやじに可愛がってもらいたかったのを、そんなふうにヨソでごまかそうとしてたわけじゃん。それってなんか、気色悪いっていうか、情けないっていうか……おまえに言ったら軽蔑されるだろうなって」
 でも、それは、でも……。誰かの一番になりたかった、おとうさんがおかあさんを愛したように、誰かに愛されたかった。それは確かにちょっと倒錯的な気がしないでもない動機だけど。でも、わかる気がした。誰だってきっと、誰かに思い切り愛されたい。
「それから一年くらいかな……マスターと肉体関係があったのは。俺はしっかり舞い上がってさ。べったべたにマスターに甘えて、いい気でいたんだ。ところがさ、」
 ある日、長いこと入院していた弟さんが戻って来たのだという。
「もうさあ、全然ちがうんだよ。目の色とか声とか。マスターにとって一番大事なのはこの人だって、すぐわかった」
 弟さんはマスターとは15も離れていて、その頃、二十歳そこそこだったらしい。
「これがさあ……線の細い華奢な人でさあ。髪とか目の色が薄くってさあ」
 あ、と思ってぼくは顔を上げた。東が苦笑いしていた。
「その頃なんて、俺も15じゃん。まだちっこかったし、細くてさ。はっきり言って、弟さん、俺に似てるわけよ。もう俺、ブチ切れてさあ、あんたの本心はわかった! 俺は弟の代わりだろうって叫んで暴れて」
 マスターは慌てなかったらしい。
『そうだ。俺は仁史が可愛い』
 しっかりうなずいて。
『確かに仁史にぶつけられないものをおまえにぶつけたことがないとは言えない。だが、俺はおまえ自身のことも可愛いと思っている』
 暴れる東を両肩抑えることで止めて、マスターは静かに言ったそうだ。
『洋平。俺には仁史が一番だ。いや、一番というより、特別なんだ。あの子を傷つけずに大事に守っていくのが、俺にとっては最優先だ。……暴れるな! 聞け! 俺と仁史は血は繋がっていない、しかしそれでも、家族に家族を超えたものを求めちゃいけないんだ!』
『な……あんた言ってることめちゃくちゃ……』
『ああ、めちゃくちゃだ。俺にとって仁史は特別だ。俺はおまえが可愛いし、恋もする。だが、誰も仁史以上の存在にはならない。いいか? それはいけないことなんだ』
 たぶん、付き合っていた一年の間に、マスターは東の抱えるコンプレックスに気づいたのだろうと東は言った。
『おまえがおやじさんに愛されたいのはわかる。わかったから、俺はこの一年、おまえに付き合った。……ああそうだ、俺もおまえを利用しながらな。だがもう、ここまでだ。おまえも気づけ。おやじさんの代用に愛してもらおうとするな。それを続けたら、おまえは俺と同じになる。もうやり直せなくなる』
 不思議なんだけど、と東は言った。
「ああ、そうかって思ったんだよ。こういうことを続けたら、俺はおやじから離れられなくなるのかって。なんか妙にすとんと納得できたんだ」
 誰かを自分から好きになれと、マスターは東に言ったのだと。
『愛されたいばっかなのは子どもなら当然だがな。おまえももう高校生だ。愛されるのを求めるばっかなのは卒業しろ。……おやじさんから卒業しろ』と。
 その後、マスターはにやりと笑って付け足したそうだ。
『だいたい、おまえ、元はネコじゃないだろ。それほど後ろがヨクもないなら、もうネコはやめておけ』って。
「え、ヨクないの?」
 と聞いてしまったのは場の勢いで。東は難しい顔で横を向いた。
「……おまえみたいになったことは、一度もない」
 どういう意味だろう、と考えた瞬間に理解して、ぼくは真っ赤になった。
「東っ!」
「いや、まあ、だからさ、」
 東は前髪をかきあげながら、苦い口調で話を戻した。
「俺もマスターも、しっかりみっともないんだ。本当は。……だから、おまえにどうしても今まで話せなかった」
 そうと聞けば。
 好きだと思っていた、と東が言った意味も、もう終わっていると言った本当の意味も、抱かれていた意味も、ぼくに言い出せなかった意味も、ぜんぶ、全部、わかる。
「秀」
 東はぼくの足元へと膝をついた。下から見上げられる。
「俺はおまえが好きだ。マスターとのことをおまえが許せないのはわかる。怒るのもわかる。だけど……俺はおまえが好きだ」
 東の言葉が痛かった。胸に痛かった。――だけど、ぼくは、ぼくは……。
 君を裏切った。
 昨夜のことは、もう取り返しがつかない。
 東の視線を受け止められなくて、ぼくは痛いほどに唇を噛んで目を閉じた。
「秀。……やっぱりダメか? 気持ち悪いか?」
 ちがう、ちがう、そうじゃない。
 ぼくは懸命に首を横に振る。
「じゃあ……」
 東の声が不自然に途切れた。
 とたんに硬くなった東の気配に、ぼくは目を開いた。
 東はソファの横に置いてあるぼくのカバンを凝視していた。
「あ……」
 思わず声が漏れた。……ゆうべは、東の家に泊まるつもりで……いつもキャンパスに行く時のナイロンバッグではなく、着替えとテキスト類を入れたスポーツバッグをぼくは持って来ていて……今日もそのまま、ぼくはそのスポーツバッグを持ち歩いていて……。
「……おまえ、ゆうべ、ここに泊まってなかったよな……? 一度、夜中に電話したけど誰も出なかった……」
 喉が干上がっていく……。
「秀」
 さっきまでとはちがう、きつい口調。東の視線がまっすぐにぼくを射る。
「ゆうべ、どこに泊まった?」

 

 
                                                       つづく




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