裏切りの証明<7>
 






 褐色の瞳が、まっすぐに食い込む鋭さでぼくを見つめる。
「どこに泊まった」
 その視線に縛られて、なにも考えられなくなった。
「……き、きのう…帰りに、こ、高校の時の先輩に会って……」
「高校の先輩? だれ?」
 揺らがない東の視線がきつくて。
「……河原先輩」
 ぼくはバカ正直に答えていた。東の瞳が意外そうに大きくなった。
「河原?って……生徒会やってた?」
「そ、そう。ぼくらが一年の時、三年の……」
 とたんに。東の緊張がふっとゆるんだ。
「あの河原か。タラシの」
「タ、タラシ?」
「あいつ、女に見境なかったろ。生徒会やってた女であいつが手出してなかったの、いないぐらい」
「へ、へえ……」
 知らなかった事実にほかに言葉が出なかった。
「で? あいつと会ってどうしたんだ」
 東の目に、ついさっきまでのキツイ光がないことにほっとして……、
「偶然会って……呑んだんだ。先輩の友達も一緒に」
 ぼくの口からはするりと嘘が出ていた。
「友達?」
 東がまた怒気をまとう。
「まさか富永じゃないよな? 河原と一緒に生徒会やってた」
「ち、ちがうよ。河原先輩と富永先輩は大学も別だって……」
「ならいいけど……富永には気をつけろよ。あいつはあいつで、男相手に見境ないから」
「え、そ、そうなの!?」
「あの頃はおまえのそばには山岡がべったりだったから、手の出しようがなかっただろうけど」
 河原先輩は大輔のことをガーディアンと呼んでいた。ゲイの友人がいるとも言っていた。……それはこういうことだったのか。当時は思いもしなかった事実に驚く。
「で、」
 再び東の視線がぼくを見上げてきた。
「一緒に呑んで、どうしたんだ」
 ためらいは一瞬だった。
「先輩と一緒に、先輩の友達の部屋に泊めてもらった。飲み過ぎて終電もなくなったから」
 さっきの嘘が勢いなら、今度の嘘は確信犯だった。
 東がぼくの言葉の真偽をはかるようにじっとぼくを見つめてくる。
 ぼくはぼくの言葉が事実だと言い張るために東を見つめ返す。
 心臓がドキドキいった。でも、目はそらせない。もうぼくは嘘をついてしまった。目をそらすわけにはいかなかった。
 先に視線を外したのは東のほうだった。
「……ゆうべは、おまえを放り出して出かけて……本当に悪かった」
 ぼくは息を飲んだ。
 もう一度、静かに謝罪の言葉を口にした東が、ぼくの膝に頭をもたせ掛けてきたからだ。
 覚えのある柔らかな重みと、ジーンズ越しに伝わってくる、もう馴染みきった温かさ。
「……ごめんな……」
 東がぼくの膝の上で呟く。
 無防備にぼくの膝に乗せられた東の頭。ぼくはなにも言えなくて。そっと東の髪を指ですくう。その自分の指先がかすかに震え出すのが見えた。
 たまらなくてぼくはぎゅっと目を閉じる。
 ……ごめん。ごめん。東、ごめん。
 ぼくは、君を、裏切った。





 その、東の家から自分の家に帰る途中、切符を買おうと財布を出して。
「あ」
 小さかったけど、思わず声が出た。
 ゆうべ、呑みに行った店でも、その……ホテルでも、ぼくは一円も出していないことにいまさら気づく。
 自分から呑みに行きたいとか言っておいて。
 帰りたくないとか言っておいて。
 もしかしたら、これはずいぶんと失礼なことじゃないだろうか。
 どうしよう……。
 悩みながら家に帰って、ぼくは携帯を開いた。
 一回目に街中で偶然会った時に、先輩とは携帯のナンバーを交換していた。
 かけようか、どうしよう……。
 呑みに連れて行ってもらった店で、ぼくは何杯ジョッキを空けたんだっけ……先輩は『呑むばっかじゃよくない』って食べるものも取ってくれたから……一体いくらかかったんだろう? 店を出る時には、もう先輩が会計を済ませてくれていて……ああ、いくら酔っていたとはいえ、どうしてあの時に『ぼくも払います』ってちゃんと言わなかったんだろう。
 ……ホテルを出る時も。どうしようどうしよう、なんてことをしちゃったんだって、そればっかりで。先輩の顔を見ることも出来なくて。……払わせちゃった、全部。
 ぼくは呻いてベッドに倒れこむ。
 付き合ってくれた先輩に、さんざん散財させて、ありがとうの一言も言ってない……。
 だからと言って……。
 きちんと清算してもらうために、もう一度先輩に会うのか? 自分から連絡を取って、会ってくれって言うのか?
 先輩の息遣いやぼくの肌の上をすべっていった指の感触がまざまざと甦る。
 ぼくは唇を噛んだ。
 もう一度、先輩に会う? ――会えるわけがない。
 先輩のナンバーをしばらく見つめて、ぼくは携帯を閉じた。





 そのままだったら、ぼくは先輩に対して申し訳なさを抱えたまま、でも自分から先輩に会おうとはしなかっただろうと思う。
 次の日、ごくごく自然な調子ではあったけれど、
「そういえば、おまえ、河原とずっと付き合いあったのか?」
 東に聞かれて。
「へえ…すんげえ偶然だな。立て続けに二度も会うなんて」
 そう言われて。
 疑われているのかもしれないと思った。勘付かれているのかもしれないと。
 やましさから、ぼくは落ち着かなくなった。
 東と一緒にいる時に、もしも、もしもまた、先輩に偶然会ってしまったら?
 あの朝、ぼくは逃げるように先輩と別れてしまった。もちろん先輩は『帰りたくない』と言ったぼくにつきあってくれただけのことで、『あれはなんの意味もないことですよね』なんて、わざわざ言う必要はないんだろうけれど……でも……。もしも、もしも東が先輩に会うようなことがあったら……? 先輩に会って、なにかを確かめたいと思ったら……?
 ぞっとした。
 なんとかその日はやりすごしたけれど……3日、もたなかった。焦りにも似た感情に突き動かされて、ぼくは先輩に電話をかけた。
「はいはい?」
 数回のコール音の後、気さくな感じの先輩の声が響いた。
「……あの……た、高橋です……」
 意を決して自分からかけておきながら、そこから言葉が出てこない。
「へえ」
 先輩の声が笑いを帯びた。
「まさか高橋からかけてくれるとは思わなかった。うれしいなあ」
「…………」
「大丈夫大丈夫。うれしいって言っても、深読みしなくていいから」
 ますますなんと答えていいかわからない。あの、とか、その、とか、口の中でもごもごしてしまう。先輩が短く笑い声を上げた。
「だから、大丈夫だって。わざわざかけて来たのはなにか用があるからだろ? 俺に会いたがってる、なんて誤解はしないから、ほら、安心してちゃっちゃっと用件言ってみ?」
 そう水を向けてもらって、しどろもどろになりながらもようやく、一度会ってきちんと自分の分を払いたいことや、話がしたいということを伝えられた。
「義理堅いなあ、高橋」
 先輩はちょっと呆れたようだったけれど、
「んー。しばらく実験が立て込んでてまとまった時間が取れないんだけど……悪い、こっちの学校まで来てもらえるか?」
 そう言ってくれて、なんとか待ち合わせの時間と場所を決めることができた。午後の早い時間にキャンパスの一角での待ち合わせっていう、後ろ暗いことを感じなくてすむ条件にほっとする。これ以上、東に対してやましい部分を作りたくなかった。
 それでも……当日、東に『先輩に会いに行く』って本当のことは言えなくて。新しいバイトの面接に行くという東に、『かあさんに用事を頼まれてるから、ぼくはまっすぐ帰るよ』と言ってしまった。先輩に会いに行くとは、どうしても言えなかった。
 ごめん、ごめん、東、ごめん。
 用事があるだけだから。
 先輩と急いで話して、急いで帰るから。
 胸の中で何度もそう繰り返して、ぼくは教えてもらった目印の藤棚目指してR大のキャンパスをぐいぐい歩いた。
 C棟の裏にあると聞いた藤棚はすぐに見つかった。先輩に聞いたとおり、藤棚の周りには芝生が広がり、秋の日差しを浴びてごろりと横になっている人がいたり、藤棚の下のベンチで本を読んでいる人がいたりした。けど……。
 先輩の姿が見当たらない。まだ来ていないのか、そう思って藤棚を回り込もうとしたときだった。
「こら。シカトすんな」
 先輩の声がして。
 慌てて振り返ったら、ベンチで本を読んでいた、よれよれの白衣にメガネをかけた人が顔を上げてこっちを見ていた。
「え! 先輩!?」
「……その驚かれ方、ちょっと傷つく」
 仕方ないと思う。
 河原先輩は高校の時から制服着ててもなんかおしゃれで……この間だって、トラッドっぽいけど襟元のデザインがちょっと変わってて、それがアクセントになってるポロシャツに、リーバイスのジーンズを上手に合わせていた。
 だけど、今は。
 もともとクセ毛らしくて軽くウェーブのある髪はくしゃくしゃになり、髭は中途半端に伸び、白衣も染みがあったり焼け焦げがあったりで。その上に、黒のセルフレームの眼鏡なんかかけてるもんだから、印象ががらりとちがってしまっている。
 ぼくは思わずまじまじと先輩の姿を見つめてしまう。
 いつものスキのない先輩とはちがう、小汚いけど、男っぽさは増したみたいな……。
 ぼくの視線に先輩はニッと笑った。
「実験はいったら、いつもこんなもんだよ。寝る時間も不規則だからコンタクトはつらくてさ、眼鏡にしてるの」
 ようやくぼくははっと気づいて、
「あ、す、すいません! お忙しいのに……」
 急いで頭を下げた。そして、
「これ……」
 と、あらかじめ五千円札を入れておいた封筒を差し出した。
「うーん」
 先輩はがしがしと頭をかくと、
「せっかく持って来てもらってあれなんだけど、それさあ、とっておいてよ」
 そう言った。
「ああいう流れでワリカンって、俺のルールに反するの」
「でも……!」
 ぼくの反論を先輩は手を振ってさえぎった。
「だから、とっておいてって言ってるの。高橋の気がすまないっていうなら、この次さ、ごはんでもおごってよ」
「で、でも……」
 『この次』という言葉にぼくはうろたえる。ぼくはもう、この前のことはなしにしてほしくて、だから、次なんてのもなしのつもりで……。
「高橋さ、」
 先輩がおだやかな表情でぼくを見上げる。
「今日の用事はそれだけ? 自分の分を払いたかった、それだけ?」
 改めて先輩に聞かれて。ぼくはうつむいた。先輩におごらせっぱなしが申し訳なかったのは本当だけど、でも、話したかったのは……。
「『この間の夜のことは、なかったことにしてほしい』」
 あ。言いたかった通りの言葉を先輩に口にされて、ぼくは顔を上げた。
 先輩はにっこり笑っていた。
「顔に書いてあるよ」
「ご、ごめんなさい。か、勝手なことばっかり……」
「勝手だとは思わないけど、」
 先輩はそう言うとゆったりと足を組んだ。
「なかったことにするなら、ひとつ、条件がある」
 きゅっと胃がちぢんだような気がした。条件? あの夜のことをなかったことにする、条件? どんなことを言われるんだろうと思うと、すっと手足が冷える気さえして……。
「ああもう」
 先輩が小さく笑った。
「そんな泣きそうな顔されると、ほんっと、俺が悪いみたいだ」
 そんなことないです! ぼくは慌てて首を横に振る。
「心配しなくてもいい。そんなむずかしい条件じゃない。俺になかったことにしてほしいなら、高橋もあの夜のことはなかったことにしろ。それだけ」
 ……え。目を見開いて先輩を見つめた。先輩はもう笑ってなかった。
「五日前、俺たちは街で偶然会った。おまえは付き合ってる相手のことでウサを晴らしたくて、俺と一緒に呑んだ。俺たちの間にあったのはそれだけだ」
「…………」
「だからさ、」
 先輩は目元を和ませてぼくを見た。
「俺とおまえは元通り、高校の先輩と後輩っていう、それだけ。なにもなかったんだから、俺とおまえは今まで通りだ。……いいか?」
 なにもなかった。今まで通り。なにもなかったことにしたいなら、なにもなかった状態に、ぼく自身も戻ること。
 ぼくは眼鏡越しに、先輩の黒々と輝く瞳を見つめた。優しい光がそこにはあって。
「いいか? 意識してガチガチになるのはもう終わり。話す時に視線をそらすのももう終わり。……高橋がそれを守れるなら、俺も守るよ。俺たちの間には、なにもなかった」
 居心地の悪い思いでぼくは目を伏せた。……先輩の言うとおり、あの朝からぼくは先輩のことを意識しまくりで……どうしようどうしようって、そればっかりで。でも……先輩になにもなかったことにしてほしいなら、ぼくも同じにならなきゃおかしいはずで……。
「どう? むずかしい?」
 先輩の問いかけに、ぼくは思い切って顔を上げた。
「……と、時々は、その……思い出して、わあっとなっちゃうかもしれないですけど、忘れます、ぼくも。な、なんにもなかったように……」
 と、先輩は躯をふたつに折って、くつくつ笑っている。
「先輩?」
「いや、悪い……」
 先輩はまだ笑いの収まりきらない顔で、
「高橋の付き合ってる相手って、高橋にめろめろじゃない? 心配でほっとけないって言われたことない?」
 突然ヘンなことを言い出してきた。
「め…めろめろ、なんてことはないと思います……ほ、ほっとけないっていうのは、近いこと言われたことがあるけど……」
「やっぱりねえ」
 先輩はなにか納得したようにうなずくと、立ち上がった。
「ま、とにかく。俺とおまえは一緒に酒を呑んで、おまえはその礼に今度ステーキをおごりたい、と」
「ステーキですか!」
「ステーキだ。……ただし、オージービーフで勘弁してやる」
 先輩の変わらない軽口。数日振りに重い気分が晴れたような気がして、ぼくは小さく笑っていた。





 もう研究室に戻らなければならないという先輩と一緒に、C棟の入り口に向かって歩いた。
 と、一番耳慣れたメロディで携帯が鳴った。東だった。
 どうぞ、と先輩に目顔で促されて、ぼくは迷いながらも携帯を開く。
『秀? 俺、いま、面接終わったんだけどさ』
「あ……どうだった? バイト、とれそう?」
『ああ、うん、その話もしたいしさ、帰り、おまえんち寄っていいかなって思って』
 ぼくは少し慌てる。
「え、今ちょっと、用事頼まれて、外、出てて……」
『長くかかりそう? 俺がそっち行こうか?』
「あ、ううん。小一時間で家に戻れると思う。……東は? うん、うん、じゃあ後で」
 携帯を切って、ほっと息が漏れる。……嘘は、何度ついても慣れない。
「悪い、高橋」
 後ろから先輩が申し訳なさそうに声をかけてくる。
「あ、はい?」
「今ちょっと聞こえちゃったんだけど……今の電話の相手、あずまって言ってた?」
 瞬間迷ってから、ぼくは小さくうなずいた。
「そうです……」
「その東って、もしかして、東 洋平? 高橋とは同学年の?」
 ぼくは観念してまたうなずく。
「先輩…東のこと、ご存知なんですか……?」
 半ばおそるおそる尋ねた。
「ご存知もなにも……あのコマシだろ?」
「コ、コマシ?」
「あいつ、女に手、早かったろ。ちょっとキレイな女であいつがヤッてなかったの、いないぐらい」
 なんだろうと思った。この激しくデジャブる会話は。
 だけど、デジャブったのはそこまでで……。
「ふうん」
 無精ひげの浮きかけたあごを撫でて、先輩はぼくの顔をのぞきこんだ。
「で……もしかして、東が高橋の付き合ってる相手? 許せない過去の」
 図星さされてぼくは、先輩の顔を見つめて固まった。



 

 
                                                       つづく




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