裏切りの証明<9>
 





  
   
 キスした時、ほかの男の人と舌を絡めたのがバレるんじゃないかと思った。
 躯を重ねた時、ほかの男の人を受け入れたことがバレるんじゃないかと思った。
 だいじょうぶ、そんなことあるはずない。そう思おうとしたけれど……東の冴えた瞳には、くっきりと先輩の手の跡が見えてしまうんじゃないかと……。
「その気にならない?」
「え……ううん。そんなこと、ない」
 ぼくは東と抱き合ったけれど。
 先輩と一夜を過ごしてしまう前にもあった、セックスの時の微妙な引っかかりは、もうはっきりと気まずさにまで育ってしまっていて……。
 ぼくの躯をまさぐる手を止めて、東が顔を上げる。
 もの問いたげなその視線を受け止めかねて、ぼくは目をそらしてしまう。
「イヤなら無理すんなよ」
 東がそんなふうに言ったこともあった。ぽつりと落とされたその言葉の意味がわかった時には、東はもう躯を起して、ベッドから出ていて。
 ちがう、ちがうんだ、そうじゃない。
 ぼくはそう言いたいのに……『なにがちがうんだ?』問い返されるのが怖いばかりに、なにも言えなかった。
 このままじゃいけない気がした。このままじゃ、ダメな気がした。
 でも……。
 東になにを言えばいいのか、なにを言わなきゃいけないのか、考えるのがやっぱり怖くて。東と一緒にいたいのに、一緒にいるのが怖くて。
 しっかり考えなきゃいけない、向き合わなきゃいけない。そう思いながら……ぼくは東からも自分からも逃げた。
 その反面……でもぼくは、河原先輩とはよく会うようになった。
 先輩と一緒にいる間は、なにも考えずにすんだから。先輩の軽口に笑っている間は、悩んでいるのを忘れられたから。
 約束通りに食事に行った。試写会のチケットが当たったからと映画に誘ってもらった。身体を動かしたいからとテニスに誘われた。
 ぼくは先輩からの誘いを断るべきだったんだろうか。
 でも、どの誘いも……『親しい先輩後輩』なら当然の範囲の中のことで……。『なにもなかった』先輩と後輩なら、断るのがおかしいような誘いばかりで……。
 もしも、先輩が冗談にでもキスなんか迫ってきたら、きっとぼくはそれきり先輩と会うのをやめてしまっただろうけれど……先輩からそういうセクシャルなアプローチは一切なくて。本当にあの一夜はなにかの勘違いだったんじゃないかとさえ思えて来て。
 ぼくには先輩からの誘いを断る理由がなく、先輩と過ごす時間は、ただおだやかに楽しかった。





 そんな日々の中。じりじりと。見えないところでなにかが溜まっていた。





 その日、東は一限目からぼくの隣に座っていた。もう学校で東がぼくに声を掛けてくることはめったになくなっていたんだけど……「この前のノート見せて」って自然な顔で東はぼくの隣に来て、ぼくはそれを拒めなかった。
 一限目はなにごともなく過ぎた。
 次の時間は第二外国語の独語で、校舎を移らなければならなかった。
 その途中だった。
「ゆうべさ、携帯かけたんだけど」
 なにげない、でも、芯になにか堅いものがあるような口調で東が切り出した。
 ギクリと来た。
 昨夜は……先輩に誘われてライブハウスに遊びに行っていた。ビートルズのコピーバンドばかりが出演するというライブで、コミックバンドではないはずなのに、もういい年のおじさんたちが衣装までビートルズのマネをしてるのがおかしくて、ぼくはたくさん笑って……。
 ライブハウスを出た時に携帯に着信があったのに気がついたけれど、見慣れない番号だったから、そのままにしてしまっていた。
「あ、ごめん……マナーモードにしてて忘れてて……履歴に東の番号なかったから……」
「充電切れちゃってさ、人の携帯借りたんだけど。なに、秀、マナーモードにしなきゃいけないようなところに行ってたの」
「こ、講義の後、戻すの忘れてて……」
「夜の10時まで?」
「…………」
 思わず足の止まったぼくを、ゆっくりと東が振り返る。
 中庭に面した外廊下。柱の間を区切って射し込む日差しに、東の瞳が光る。
「きのうの夜、どこに行ってた」
 低い問いかけ。
「……ど、どこも……」
 東の口元が笑みの形に歪んだ。実際、東は笑いたかったのかもしれないけれど……それはひどく寂しそうな表情にしかならなかった。
「……おまえも嘘がつけるんだなあ」
 胸を、抉られたかと思った。
「タケシがさ、渋谷でおまえを見かけたって。ちょっとカッコいい男とおまえが一緒だったってんで、アイツ、喜んで飛んで来てさ。まだ別れてねーよってボコって追い返したけどな」
 まだ、別れてない、『まだ』。確かに東はそう言った。
「おまえ……」
 東がさらになにか言いかけたその時、ジーンズの後ろポケットに入れてた携帯が鳴った。
「ああ、それ」
 着信音を聞き分けた東があごをしゃくる。
「メール来たんじゃね? 見てみたら?」
 見るわけにはいかなかった。ゆうべはライブハウスのあと、軽く呑んで……『明日、1限から講義なんですよぉ』ってぼくは先輩に話してて。メールはきっと、『きちんと間に合ったか』って先輩からで……。
「……見ないの? ……見なくてもわかるってか?」
 携帯を手に取ることもできず、固まっているぼくに、東がすっと近寄る。ジーンズのポケットからするりと携帯が抜き取られた。
「ほら。やっぱりメール来てるよ。……おまえ読めないなら、代わりに俺が見てやろうか」
「……東」
「ついでに履歴も見といてやろうか? きのうの着信も消しておいてやるよ」
「……東」
 ぼくは震える手を伸ばす。
「携帯、返して」
 東は閉じたままのぼくの携帯をもてあそぶ。
「……なあ。俺の携帯、見せてやろうか? すっきりしてるぜ? メールも履歴も」
「東。……携帯、返して」
 自分の声が細かく震え出すのがわかる。
「……夜さあ、おまえんち電話すると、」
 珍しいものでも見るように、ぼくの携帯を表にしたり裏にしたり眺めていた東がどうでもいいことのように言う。
「おまえのかあちゃん、必ず言うのな。あら、一緒じゃなかったのって」
「……東!」
 耐え切れなくて、ぼくは少し大きな声を出す。
「なに?」
 でも、それはあっさり東に切り返されて。
「夜、おまえのウチに電話しちゃいけなかった? ああ……もしかして、俺が探るようなマネしてたって言いたいわけ?」
 ぼくは首を横に振る。ちがう、そうじゃない……!
「だよな。ちがうよな。おまえが俺に言いたいことはほかにあるよな」
 東が笑うような泣くような、ゆがんだ表情でぼくを見る。
「……なあ。ちゃんと言えば? ほかに好きな相手ができましたってさ」
「ちがう……!」
 叫んでぼくは激しく首を横に振った。
「ちがう! そんな……」
「じゃあ、これ見ていいのか?」
 携帯をかざされて、ぼくは凍りつく。
「は」
 東が短く笑った。
「つまんねえとこだけ、正直だな」
 毒々しいものが潜んだ口調でそう言うと、東はぼくの携帯を両手で開いた。そして、そのまま。ぐっと東の指の関節が白く浮いて。
 バキッ!
 プラスチックの割れる嫌な音が響く。ぼくの携帯は東の手の中で、逆向きにたたまれる形になって、折られていた。
 東はそれを軽く廊下の隅へと放り捨てる。
 ――今まで。東が怒ったことは何度もあった。口より手の早い東が他人を殴ったり蹴ったりするのも、何度か目にしたことがある。だけど……ぼく自身に暴力を振るわれたことは今までなくて……ああ、そういえば一度、時計を投げつけられたことがあるけれど……。でも、こんなふうに……暴力的な形で怒りを向けられたことはなくて……。
 あらぬ形に折り曲げられ、光の消えた携帯の残骸に、すっと手足が冷えた。
 よほどショックな顔でもしていたのだろうか。
「携帯壊されましたって優しい河原先輩に泣きつけば?」
 吐き捨てるように東が言った。
「……ど…して……」
 震えをこらえながら東を見れば、やっぱり東もどこか痛いのをこらえているような顔をしていて。
「ちょっと東南アジア入ってるみたいな、エスニックなハンサムだってな。あいつは昔から口がうまいから、優しく慰めてもらえるだろ」
「…………」
 ちがうと言いたかった。そうじゃないと言いたかった。でも、声が出なかった。
 東はそんなぼくにもう何も言おうとはしなくて。
 くるりと背を向けてすたすた歩き出す。
 遠くなるその背を見つめていたら、輪郭がどんどん滲み出した。
 ぼくは慌てて俯いて、壊れた携帯を拾い上げた。
 




 なんでこんなことになったんだろう。なんで……。
 
 
 
 
 
 もう、ダメなんだろうか……。
 東と別れると思っただけで、世界が暗くなるような気がするのに。
 それでも、ダメなんだろうか。
 ぼくはまだガラガラに空いている学食の隅で一人、考えた。
 先輩とのことは誤解だ。そう言い切れればいいのに……ぼくは先輩との間に「なかったことにする」ようなことを抱えている。ぼくは胸を張って、やましいことなんか何もない、先輩とは本当にただの先輩後輩として遊んでいただけだとは、言えない。
 でもだからって、このまま、東に誤解されたまま、ダメになるのはイヤだ、それだけはイヤだ。
 ……はっきり、告げるしかない。
 堅く組み合わせた手を、さらに歯で噛みながら、ぼくはようやく決意する。
 告げるしかない。あの一夜のこと。
 告げて、そして……?
 背中にぞくりと冷たいものが走った。
 東はぼくを許すだろうか……? もし、許してくれたとして……ぼくたちは今までのようにつきあえるんだろうか……?
 マスターとのことをずっとぼくに黙っていた東。マスターが大変だった時に、マスターの元へ駆けつけた東。それがつらくて、それがいやで……ぼくはあの時、先輩とホテルの入り口をくぐってしまったんじゃなかったのか?
 ぼくは……。
 罪悪感の向こうにあるものを初めて見つめた。
 ぼくは、納得しているのか? 本当に? 東とマスターとの馴れ初めも、東が今までぼくに沈黙を守っていた理由も。全部? ぼく自身は納得して、許せているのか……?
 そして、東も。
 先輩に抱かれたぼくを許すだろうか。あの夜のぼくの気持ちを、東は理解するだろうか?
 ぼくたちは二人して、お互いを理解して、許しあえるんだろうか……?
 組み合わせた手が、白く冷えていた。
 告げた先。ぼくたちは……。
 不安でいてもたってもいられないような気がした。





 ――それでもやっぱり、東と話さなきゃいけない。
 ようやくそうぼくが思い決めたときには、学食はもうお昼を求める学生たちで込み始めていた。
 東はこの時間、大教室のはずだから……。
 ぼくは慌てて立ち上がった。
 東が場所を移す前につかまえたかった。
 学食を走り出て、ぼくは東が出てくる確率の高い出入り口を目指した。
 次々に人が出てくる扉の前で、荒い息をつく。
 ここまではすれちがわなかったはずだけど……。カフェテリアでお昼を取る予定にしていたら、こちらの扉からは出てこない。どうしよう……行き違ったんだろうか。
 不安に一歩踏み出したときだった。
「ああ、いたいた」
 ぽんと軽く肩を叩かれて、ぼくは飛び上がるほど驚いた。
 振り返れば……。
「せ、先輩!?」
 やあ、と手を上げて笑顔の先輩が立っていた。
「ど、どうして……!」
 もう半ばパニック気味なぼくの声はものの見事に裏返った。
「全然ケータイつながらないだろ? なんかあったかと思って、近くに来たついでに寄ってみた。広いから会うのは無理かと思ったんだけど」
 にこやかにそう言いながら、でも、あわてまくっているぼくの顔色に先輩は気づいたようだった。
「……なにかあった? まずいタイミング?」
 まさに先輩がそう言い終わった瞬間だった。
「あんた、ここの学生じゃねーだろ」
 これ以上ないバッドタイミングで、東の低音がぼくの背後から響いてきた。
 


 

 
                                                       つづく



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