冷たく乾いた空気の中をバスが走り去っていった。
水蒸気混じりの白っぽい排気ガスを吐き出しながら、ゆるいカーブの向こう側に消える後姿を見送る。
なんとなく空を見上げ、ため息をつく。ほわり、と白く揺らぎ、すぐに薄らいで消える。
ああ、冬なのだ―――今更ながらに思う。
あの頃はまだ、ようやく夏の始まりが遠慮がちに訪れようとしていたというのに。
あれからいくつもの月日を重ねて、私はこんな処にまで辿り着いてしまったのだ。
頭を廻らせて辺りを見る。
寂れたバス停の他は何もない、殺風景な道路。低く連なる冬枯れの山。海沿いの狭い平地にへばりついた小さな町。
あとはただ、鉛色の空と海が広がるばかりだった。
こんな処にまで、と重い気分で再び思った。
どうして私が。今更ながらに、そうも思う。
だが、それらは結局全てただの泣き言だった。
海の方から吹き付けてくる風に、私はコートの襟を立てて掻き合わせた。キャンバス地の重いザックを担ぎ直す。
私は町へと続く道を歩き始めた。
私の戦争を始めるために。
私の名は天沢郁未。母が、自分の名である「未夜子」から一字をとってつけてくれた名だった。
その母は、今はもうこの世にいない。
母は、まだ小学生だった私を置いて宗教法人FARGO宗団に入信し、六年の間帰ってこなかった。そして、ある日ひょっこり戻ってきたかと思うと、その十日後に、体中の穴という穴から血を噴き出して死んだのだ。五月の、母の日のことだった。
私は母の敵を討つために、信者を装ってFARGOの教団施設に潜り込んだ。だがそこは、私が想像した以上の、過酷という言葉すら生易しく思えるほどの地獄だった。
修行の名目で、日常的に女性信者に加えられる凌辱。MINMESやELPODと呼ばれる装置を用いて被験者の精神に直接負荷をかける、洗脳にも似た修行。暴力と死が、常に身近にある日々。
何度も挫けてしまいそうになり、時には死に直面しながら、それでもどうにか私は教祖である『声の主』を倒すことに成功した。
私と『声の主』の戦いの余波で教団施設は半壊し、家族の下に逃げ帰った信者達からの通報で、宗教法人FARGO宗団には司直の手が入ることとなった。
これで全てが終わった――私はそう思っていた。
だが違っていた。
生き残った幹部と、Class−B信者の半数以上は今もって杳として行方が知れないままであり――
教団施設からは、MINMESやELPODといった主要な機材が、何者かの手によって何処ともなく運び出されていた。
そればかりか、冷凍保存されていたという『悪魔』の精液までもが持ち去られていたらしいのだ。
FARGO宗団は未だ健在なのだ。教祖を失ってなお、『不可視の力』を作り出す技術と能力を擁したまま。
だから、私の旅も終わらない。
静寂に満ちた冬の空気の中を、私はコートの襟に顎を埋めて歩いた。
まだ昼間だというのに堤防沿いの道に人の気配は無く、車が通る様子も無い。ただ、堤防の向こうから、重苦しい海鳴りの音が聞こえてくるだけだった。
ここだけではない、ここに来る道すがらの、住宅が並ぶ通りも、商店街も似たようなものだった。
本当に、この、人の気配すら感じられない町に、FARGOの残党が潜んでいるのだろうか?
私は、ガセの情報を掴まされたのではないか?
微かに疲れを感じて、私は足を止めた。俯けていた顔を上げる。
目の前に、堤防を上る階段があった。
冬の海を見てみよう――不意に、そんな考えが頭に浮かんだ。
私は堤防の階段を上っていった。
堤防の上は海からの風がまともに吹き付けていた。
体温と一緒に、骨から肉が削り取られるようだった。
だがそのかわり、視界いっぱいに、荒々しく押し寄せる冬の海と、それを覆う鉛色の空が広がっていた。
荘厳な光景だった。
太古、海は決して人間が乗り越えることのできない領域であり、その果てには、永遠の国があると信じられていた―――そんな話をどこかで聞いたことがある。
大昔の人間がそんな風に考えたのも、頷ける気がした。
私は半ば呆然と、冬の海に見入り続けた。
(ん?)
空から、何かが私の目の前にきらきらと光を曳いて舞い降りてきた。
それは、白い羽根のように見えた。
海鳥のものだろうか。
私は手を伸ばして、指先で羽根に触れた。
その瞬間――――
世界が、白く染まった。