CROSS × FIRE

第18話 「おかあさん(3)」

とすっ。

軽い音をたてて、神奈の母親の胸に矢が突き立った。

とすっ。

もう一本、今度は肩。

彼女の体がぐらりと揺れる。

矢の突き立った根もとから、白い衣にたちまち血が滲んでいく。

一度倒れかかったあと、彼女はかろうじて踏みとどまり、顔を上げた。

軋むように首をめぐらせ、木立に潜む雑兵達にその眼を向ける。

純粋な殺意だけが湛えられた、人ならぬものの双眸を。

大気が、しん、と凍りついて何も聞こえなくなった。

音を失くした世界の中で、彼女の白い掌が宙を薙ぐ。

と、木立の中を突如として目に見えない『力』の奔流が荒れ狂い、雑兵達の体は木の葉のように宙に巻き上げられ、具足ごとばらばらにちぎれ飛んでいった。


そして、彼女はがっくりと地面に膝をついた。



「ははうえ――――っ!!」

弾かれたように母親のもとに駆け寄る神奈の姿を、私はただ呆然と見つめていた。

またか――

そう思った。

また、こうなってしまうのか。

最初に、お母さん。次に有里さん。そして良祐さん。

自分自身のものを含め、自分の周囲にある家族の絆というものを、結局私はどれ一つとして守りきることができなかった。

だから今度こそは、必ず神奈に家族の絆を取り戻させてやるつもりだったのに。

人知を超えた力さえ有していながら、なのに私はまた失敗してしまったのだ。

あるいは、自分の家族さえ守ることができなかった私には、元もと無理なことだったのだろうか。

またか――

地面に横たわる神奈の母親の姿を見つめて、私は再びそう思った。

勝手な話だった。

私の心に、決して消えることのない、思い出という名の傷痕を刻み付けるために、六年ぶりに私の元に帰ってきたお母さんも――

自らの想いを由依に伝えたあと、扉一つ隔てた『精錬の間』で、体中から血を噴出して死んでいった有里さんも――

妹を守るという大義名分のもとに、晴香の目の前で高槻に自分を殺させた良祐さんも――

死んでゆく者達は結局自分の想いだけが大切で、残された者の気持ちなど何一つ考えてはいないのだ。

そして神奈の母親も――

彼女は矢を避けることができなかったのではない。敢えてその身に矢を受けたのだ。

月光に照らされたこの空き地は、彼女がその命を終えるための、文字通りの舞台だったのだ。

悲劇は繰り返される。そして喜劇も――いつだったか、そんな言葉を聞いた気がする。

誰の言葉だったろうか、とぼんやり考えながら、私はのろのろと神奈達のもとに歩み寄っていった。



「母上っ! ははうえっ!」

倒れ臥す母親のもとで、神奈が錯乱して叫んでいた。

矢は、一本が右肩を、そしてもう一本が左胸を、深々と貫いている。手当てをしたとしても、助かる傷ではない。

「くそおっ! あんな雑兵どもの矢でっ!」

歯噛みして柳也が言う。

しかし神奈の母親は、血の気の失せた唇に穏やかな笑みさえうかべて言った。

「そなたが悔いることはありません。もとより罪に穢れしこの身は、御山の土に朽ち果てるさだめだったのですから」

ああ、そうだろうよ――聞きながら私は思った。そしてあんたは計画通り、この茶番劇の舞台の上で身を躱すこともなく矢を受けて見せたんだ。何が罪だ、何が『御山の土に朽ち果てる』だ、笑わせるな――

「母上っ!」

「なりません…決して…妾に触れては」

自分に取り縋ろうとする神奈を、母親は制止した。ここで全てを終わらせる、自分の企みに何一つ綻びを生じさせないために。

しかし彼女は理解していなかった。神奈が彼女を想う心が、どれほど強いものかということを。

「いやだいやだいやだ―――っ!!」

首を左右に振りたてて叫ぶなり、神奈は母親の肩をしっかりと抱き起こしていた。冷たくひえていく頬に、自分の頬を触れさせる。

「ああ…」

刹那、神奈の母親の顔に、絶望と歓喜の入り混じった表情が浮かんだ。

「――久しく忘れておりました…人の肌の温(ぬく)さを…我が子の頬の柔さを…」

そして、すぐにそのあとを深い諦念の色が覆う。

「逃れられぬからこその、因果でしょうか…」

誰に言うともなく呟く。その言葉には限りない哀切が込められていた。

「母上っ!」

「ならば今こそあなたに授けましょう…母から子へ…この穢れた身と共に朽ち果てるはずであった、いにしえの祝詞(のりと)を…」

母親がまっすぐに神奈の瞳を見つめ、神奈が母親の瞳を見つめ返す。

そして双方の顔から、一切の表情が抜け落ちた。見つめあう瞳に湛えられた光が、無機質なものに変化する。

詠唱が始まった。

私にも、柳也達にも、人間には理解することのできない、そしておそらくは発音することも不可能な古(いにしえ)の祝詞。

最初ゆっくりとした調子で始まったそれは徐々に速さを増していき、やがて、絶え間なく続く機械的な唸りへと変化していった。

母から子へ、またその子へ。そしてまたその子へ――気の遠くなるような太古の昔から受け継がれてきた膨大な記憶情報の全てが今、神奈へと受け継がれるさまを、私は固唾を飲んで見守った。

そして――

紡ぎ出される声がじきに可聴域を越えるかと思われる頃、ようやく祝詞は終わった。

「これが、あなたに伝えるべき全て…妾達が続けてきた、長い長い旅のものがたり…」

「母上…」

ぼんやりと母親を見る神奈に向かって、彼女はやわらかく微笑みかけた。彼女が初めて見せた、母親が我が子を見る表情だった。

「では次は、あなたの番ですよ」

「余の?」

「ええ…あなたがどのように旅してきたかを、語って聞かせてくれませんか」

「わかった――」

一度唾を飲んでから、神奈は彼女の物語を語り始めた――



社殿での暮らし。毎日が同じ繰り返し。

ところがある日、いつもにこにこ笑った顔をしている、狐の二つ名を持つおかしな女官が自分のお付きになった。

いつもべたべたくっついてきて、鬱陶しかったはずなのに、気がつくといつの間にか、笑うことを覚えていた。


そして夏のある日。

正八位の位を持っているくせに、ろくに礼儀も知らない衛士が社殿にやってきて、会うなりそいつにお尻を撫でられた。

けれどなんとも屈託のないその男のことが、気になって仕方がなくなった。


そのすぐあと、今度は奇妙な女が天から降ってきた。

不思議な術をあやつる上に、どこか柳也や裏葉と同じ匂いがするその女のことが、また気になってどうしようもなく、結局社殿で一緒に暮らすようになった。


そして気がついてみると、一人ではなくなっていた。

前よりも、もっとたくさん笑うようになっていた。


「それでな、郁未は大層強いのだが、裏葉のくすぐりにはかなわぬのだ。夜ごと明けがらすの声を聞くまで泣かされておった」

「あらまあ」


書状が来て、社殿を離れることになった。また一人にもどることになった。

悲しくて苦しくてどうしたらいいかわからなくて、来る日も来る日も誰にも会わずに寝所にこもっていたら、そこに郁未が訪ねて来た。

生まれて初めて本気で喧嘩をして、大声で泣いた。

だけど泣いたら、少し気持ちが楽になった。自分がどうしたいのか、ちゃんと気持ちを伝えられた。


雨の降りしきる出立の夜。そして、晴れ渡った夏の旅路。

「それで、郁未と二人で衣を脱いで川で水浴びをしたのだ――」

「その鳥がなんとも珍妙な面相をしておってな、余が説教をくれてやったら――」

「山の民の祭りかと思うたら、とんだばけものどもの祭りであった。みなきもをつぶしてしまい――」

自分が歩んできた旅路のことを、何一つ漏らすことが無いように、神奈は懸命に母親に語り続けた。

それを聞く神奈の母親の顔色は既に血の気を失い、紙のように白くなっていた。それでもにこにこと笑いながら、神奈の言葉に一つ一つ、愛おしそうに相槌を打っている。

「あなたは…よき友、よき随身に恵まれたようですね…」

「うむ、柳也も裏葉も郁未も、余にとってかけがえのない者達だ」

そして私もまた、神奈の物語に耳を傾けながら、これまでの旅路を思い返していた。

――そう、私達は旅をしてきたのだ。

つねに追手の影に怯え、夏の暑さや道の険しさに苦しみながら。

それでも、それは私にとっても、夏の陽射しのように眩しい煌きを放つ、かけがえのない思い出だった。

「――神奈様、御母君にお見せするものがあるのでは」

高野山に向かうあたりまで神奈が語ったところで、さり気なく裏葉が口を挿んだ。ようやく持つことのできた、母と子の僅かな語らいの時間を、裏葉が無碍に途切れさせるはずがない。つまりそれは、別れの時が近づいていることを意味していた。

「おお、そうであった――母上はこのようなものを見たことがあるか?」

神奈は懐からお手玉を取り出した。

「いしなとりの玉ですね…妾は上手にできませんでしたが」

「そうかっ、では喜ぶがよいぞ! 決めておったのだ。母上に逢えた折には是非ともこれを披露しようと」

嬉しそうに言って、神奈はお手玉を始めた。だが、中々うまくいかない。どうしても三つ目のお手玉を取りこぼしてしまうのだ。

無理もないことだった。私が知る限り、神奈が三つのお手玉を舞わせることに成功したことはない。

それに月明かりの下では手元もよく見えないだろう。涙が滲んだ目で、震える両手で、お手玉を上手くあやつることはできないだろう。

しかし神奈はお手玉をやめようとはしなかった。

「なぜ上手く舞わぬっ! 母上が見ているのだぞっ!」

涙に声を震わせながら、それでも懸命に。

なぜなら、そこに彼女の母親がいるから。優しい微笑みを浮かべて、彼女のことを見守っていてくれるから。これが、彼女が長い間望みつづけた末に、ようやく得ることのできた、母親との時間なのだから。

だから神奈はお手玉を続ける。何度とりこぼそうとも。彼女の想いが母親に届くことだけを願って。

神奈と母親の、二人だけの濃密な時間を、私は息を詰めて見つめ続けた。

やがて、

「…神奈…とても上手にできましたね」

この上なく、慈愛に満ちた声で母親が言った。

「母上、余はまだ――」

言い募ろうとする神奈に、幸福そうに微笑んで頷く。そしてふと遠くを見る表情になって――

「できうることなら……そなたと翼をそろえて飛びたかった……青く晴れ渡った夏の空を……」

そう言って彼女は瞼を閉ざし、その頬を、ひと筋、涙がつたい落ちる。

それきり彼女は何も言わなくなり、その目が開かれることもなかった。

「はは…うえ…?」

神奈の手から、お手玉が三つ、地面にこぼれ落ちた。