CROSS × FIRE

第17話 「おかあさん(2)」

祠(ほこら)の外に出ると、空を薄く覆っていた雲はすっかり晴れ、煌々と月が輝いていた。

戦(いくさ)に巻き込まれるのを避けるために、私達は登ってきたのとは反対側の斜面から山を下り始めた。

月光に明るく照らされた木立の中を、柳也が先頭に立ち、次に私と神奈、そこから少し離れて神奈の母親、そして裏葉が殿(しんがり)を務めて歩いていく。

私は神奈としっかりと手を繋いでいた。母親への想いを、たとえ少しでも代わりに受け止めてやりたかったのと、万が一、神奈が激情に駆られて母親のもとに駆け寄りそうになった時に引き止めるためだった。決して神奈を母親に触れさせるわけにはいかないのだ。

神奈は歩きながら、時おりちらちらと母親の方を振り返るが、決して母親の方から神奈に話しかけることはなかった。無言のまま、細い顔に峻厳でさえある表情をうかべて、私達の後ろを歩いている。

長い虜囚の年月を経てすっかりやつれ切っていたものの、それでも神奈の母親は威厳と気品を失ってはいなかった。髪は艶を失い、頬はやつれ、経帷子を思わせる白い衣に包まれた体は哀れなほどに痩せさらばえてはいても、彼女の双眸にはなお、凛とした意思の光が湛えられていた。

しかし、その強い意思をもってしても、失われてしまった体力まではどうしようもなかった。ただでさえ歩きにくい山道を素足で踏む足取りはいかにも頼りなく、つまづいてころびそうになることも度たびだった。それでも誰一人、彼女に手を貸すことはできないのだ。

「先はまだ長うございます。このあたりで少し休んでゆきましょう」

疲弊した母親の様子を見かねたのか、しばらく歩いたところで裏葉が言った。せめて休んでいる間だけでも、神奈と母親に言葉を交わさせようという意図もあってのことだろう。

しかし母親は首を左右に振った。

「妾(わらわ)のことは気にせずともかまいません。それよりも先を急いだほうがよいでしょう」

そう言って、頑なに足を止めようとしなかった。

確かに、彼女の言うことも道理ではあるのだ。なにしろ私達は今、戦場の真っ只中にいるのだから。それに、祠がもぬけの殻になっていることがばれて、追手がかかるのもおそらく時間の問題だろう。そうならない内に、可能な限り距離を稼いでおく必要があった。

だが、その障害になっているのは、他ならぬ神奈の母親だった。もう十年以上もまともに歩いていない、しかも肩を貸すどころか手を引いてやることさえできない人間を連れて、徒歩で戦場を突破するのは、無茶を通り越して愚挙とさえ言えた。そんな状況で、たとえ僅かな時間でも立ち止まることは、死がそれだけ近くなることを意味していた。

だから言ったのです――

神奈の母親の怜悧な表情は、私に向かってそう告げているかのようだった。

と…

「悪いが少し休ませてくれ。傷がひどく痛み出した」

突然、立ち止まって柳也が言った。そのまま返事も聞かず、すたすたと傍らの木の根元まで行って座り込んでしまう。

一瞬、神奈の顔を不安の影が過ぎったものの、すぐにその目には何ごとかを理解した光が宿った。

「おお、りゅうやどのだいじょうぶであるか」

思い切り棒読みで神奈は言い、

「まったくやせがまんするからよ」

同じく棒読みで、私。

「背にひどい傷を負っておられますゆえ、いたしかたございません」

「………」

憮然とする神奈の母親に向かって、それはもう渾身の力を込めた、最大級の得体の知れなさのにこにこ顔で裏葉が言った。なぜか私の頭に、二大怪獣対決という言葉が浮かんだ。

やってくれますね――と言わんばかりの視線を母親は柳也に向けるが、当の本人はあさっての方角を向いて知らん顔だ。こめかみの辺りになんとなく冷や汗のようなものが浮かんではいるが。

背中の傷より胃に穴が開くんじゃないかと思うような視線を、神奈の母親は柳也にしばらく送っていたが、やがてほっと溜め息を吐いた。

「傷を負っているならば仕方ないでしょう」

そう言って木の傍まで行くと、迷わず柳也の隣りに腰を下ろす。中々にいい性格をしているようだ。柳也の顔はもはや土気色と化し、じっとりとあぶら汗をうかべている。

放っておくと柳也が本当にぶっ倒れてしまいそうだったので、私達も後に続いて地面に腰を下ろした。休めるのは十分間がいいところか。その間に神奈の母親に少しでも体力を回復してもらいたいところだが、それは無理というものだろう。

私は辺りを見回して、適当な太さの潅木を見つけると、小太刀を一閃させた。返す刀で子供の背丈ほどの長さに切断する。地面に何度かついてみて強度を確かめてから、私はそれを神奈の母親の傍に置いた。

「使いなさいよ。杖があれば少しは楽に歩けるでしょう」

「…かたじけなく思います」

きょとんと私を見つめて、なぜか不思議そうな顔で礼を言い、そして彼女はひどく感慨深げに、「このような言葉を口にしたのは幾年(いくとせ)ぶりのことでしょう」と言った。

「大げさね、たかが杖くらいで」

「永きにわたる年月(としつき)の間、妾のもとを訪ね来るのは、奪うことより知らぬものばかりでした――」

神奈の母親の顔に、遠くを見る表情が浮かんだ。

「そなた達のような者が世に数多ければ、あるいは妾達のさだめも違っていたやもしれません」

「…それはちょっと考えものだと思うわよ」

私は思わず苦笑した。

「私達みたいに伊達と酔狂で生きてる人間が多数派だったら、今頃世の中滅茶苦茶だろうし」

「郁未様のような方が数多ければ、きっと楽しき世になっていたことでございましょう」

どういう意味で楽しいんだかよく判らないが、にこにこと裏葉。が、ふと表情を曇らせて傍らを見やり、そして私に目配せをする。そちらに視線を向けると、神奈がおし黙ったまま、じっと顔を俯けていた。母親と話がしたくても、何と言って話しかければいいかわからないのだ。

(いかがいたしましょう)

(いかがいたすって言ったって…)

二人して困惑した視線を交わしていると――

「神奈」

あちらを向いたまま、ぼそりと柳也が言った。

「おまえ、母君に何か言うことはないのか?」

「…!」

神奈がびくりと肩を震わせる。

さらに柳也が言う。

「おまえの母君だろう。郁未にばかり話をさせておいていいのか?」

「―――っ! 余は……っ!」

思い切ったように、神奈は顔を上げた。張り詰めた表情で、何ごとかを言おうとして唇を震わせる。そんな娘の様子を、母親は黙ったままただじっと見つめている。

「余は…」

母親に向かって何度も口を開きかけ、

「余は……」

しかし言葉が見つからず、

「………」

結局、神奈はまた黙って俯いてしまった。

この母子が打ち解けて話せるようになるまでには、おそらくはまだまだ時間が必要なのだろう。

柳也もそれ以上は何も言わず、あちらに向けた顔にどんな表情を浮かべているのかは窺い知ることができなかった。

「…そろそろ行きましょう」

しばらくして私が言い、全員が立ち上がりかけたその時。

ひゅんっ ひゅんっ ひゅんっ

矢羽が風を切る音が、すぐ近くを続けざまに通り過ぎていった。

森を隔てた向こう側で、刃同士が切り結ぶ音が聞こえたかと思うと、突然それが数を増し、津波のような怒号と共にこちらに向かって急速に押し寄せてくる。

ついに戦線がここまで拡大したのだ。

「ったく!」 「ちっ!」

歯噛みして、私と柳也は各おのの得物に手をかけながら、素早い視線を周囲に巡らせた。とにかく今は一刻も早く、この場を離れなければならない。だが、後退る背後の森の彼方からも、剣戟の音が甲高く響いてくる。どうやら私達は完全に戦線の中に取り込まれてしまったようだ。

――くそっ、どっちに逃げればいいんだ?

私と柳也が必死に考えを巡らせていると――

「こちらです」

突然、神奈の母親が立ち上がって歩き始めた。逃げ道にどこか心当たりがあるのか、原生林の生い茂る木立の奥へと、杖を手に迷いのない足取りで踏み入っていく。私達は慌ててその後を追った。

翼人の翼に刻まれている膨大な記憶情報の中には、あるいはこの高野山の地形の、ちょっとした起伏に到るそれこそ隅々までもが含まれているのかもしれない。その情報をもってすれば、今現在の戦線の状態まで窺い知るのは無理にしろ、どこに逃げれば比較的安全かという程度のことは判断することも可能だろう。

私達は太く捩くれた根が地を這う森を抜け――そして急に視野が広がったかと思うと、ちょっとした空き地に出ていた。

かつて何かが奉られていた場所ででもあるのか、平たく土を均し、下手側を崩れかかった石垣の段で囲まれたそこは、月の明るさも相まって、あたかも森の中の舞台のような光景をつくりあげている。身を隠すものは立木の一つとてなく、周囲の木立からは丸見えだ。

こんな所にいて大丈夫なのだろうか――私がそう思っていると

―――! やばいやばいやばい! 

突然、私の生存本能が金切り声を上げていた。

ここはいけないここはだめだここは危険だ――

それとほぼ同時に、

ぎりぎりぎり…

木立の間から、ギターを調弦する時のような音がいくつも聞こえてきた。

――弓!?

恐怖を反芻する暇もなく、びいんっ!と、張りつめた弦を弾く音が響く。

「伏せろっ!」

私が神奈を、柳也が裏葉を、地面に引き倒して身を伏せる。一瞬前まで私達がいた空間を、唸りを上げて矢が通り過ぎていく。その行方に視線を走らせ、

(―――っ!!!)

私は絶望が胸を満たすのを感じた。そこには、空き地の真ん中でただ一人棒立ちになる神奈の母親の姿があった。

そう、彼女の体を掴んで地面に伏せさせる者は、誰もいなかったのだ。なぜなら誰一人、彼女に触れられる者はいないのだから――

束にしたような矢が、一斉に彼女に襲いかかった。