高原の精霊・高槻

Text by ヒンクレヰ

あの十四歳の夏を、僕は決して忘れないだろう。白樺の木立をそよ風が吹き抜けていく高原で、高槻と出会った夏のことを。



その夏、僕達一家は軽井沢に来ていた。

父の知り合いが所有している別荘を、たまたま使わせてもらえることになったからだった。

そんなことでもなければ庶民もいいところの僕達一家が、一週間ものあいだ夏の軽井沢に滞在することなどありえなかっただろう。

降って湧いたような高級別荘地でのバカンスを、三つ年下の妹は友達に自慢できると喜んでいたが、僕はといえば実際のところあまり乗り気ではなかった。

この歳になれば、一日のほとんど、それこそ朝から晩までを家族の顔だけを見て過ごすのは、貴重な夏休みの浪費以外の何物でもない。それよりも、友達とプールに行ったりクーラーの効いた図書館で好きなだけ本を読んでいたほうがずっと良かった。

「軽井沢の別荘で一週間なんて、なんだかお金持ちになったみたいねぇ」

行きの列車の中で、母は何度もうきうきとした口調で言った。

僕は窓の外を流れる景色を眺めるふりをしながら、内心、母の口を塞いでしまいたい衝動を必死で堪えていた。

どうしてそんな周りに聞こえるような声で、貧乏人丸出しのせりふを平然と口にできるのか。第一それでは父の稼ぎが少ないと遠回しに言っているのも同然ではないか。

本人に悪いことを言っているつもりはこれっぽっちも無いのかもしれないが、こういう無神経な言葉を母はよく口にした。

当の父はというと、別にどうとも思っていないのか、それとももう母の言動には慣れっこになっているのか、ただ黙って柿ピーをつまみながら缶ビールを飲んでいるだけだった。

別荘に着いて荷物を解いた後、母と妹は半ばはしゃぎながら、換気のために部屋という部屋の窓を開けて廻った。

それを見ながら僕はなんだかうんざりした気分になり、散歩に行って来ると言って外に出ようとすると、「だったらついでに夕飯のお使いをお願い」と言われてさらにうんざりした気分になった。

白樺の木立に囲まれた道を、僕は一人ほとほとと歩いた。

半日以上をずっと家族と顔をつき合わせ通しだった後で、やっと一人になれたのと、高原特有の爽やかな空気のお陰で、少し気分が晴れた気がした。

だが、買い物を頼まれはしたものの、歩いて行ける距離の場所に食料品店なんてあるのだろうか。別荘に来る途中の道で、何かを売っている店らしきものを見た憶えが無い。

三十分ばかりでたらめに歩いてみたが、食料品店どころか辺りに人家さえ見当たらなくなったので、僕は仕方なく諦めて踵を返そうとした。



ふわり、と頬を撫でてそよ風が吹いた。

誰かがふっと吐息をつく声を聞いた気がして、僕はそちらに顔を向けた。



白樺の木立の中に、ほっそりとした体に白い夏服を纏った高槻が立っていた。

陳腐で馬鹿ばかしい喩えだが、木漏れ日の中に立つその姿はまるで精霊のようにさえ思えた。

それほどまでに、かげろうのように儚く見える高槻だった。

僕は呼吸することさえも忘れて、ただじっと高槻に見入った。



と、僕の視線を感じたのか、高槻がこちらを向いた。

血走ってぎらぎらした双眸が僕を見る。そして痩せこけた顔に、微かに怪訝そうな表情が浮かんだ。

僕は狼狽して、思わず「違うんです」とわけの解らないことを口走ってしまった。

「なんだとおっ!? 何が違うと言うんだぁぁぁぁっ!」

高槻は口元を皮肉な笑みで歪めて言った。

「あっ、いや…」

僕はさらにどぎまぎして口篭もった。

「そんなに緊張することはないだろうがあっ! 別にとって食べたりはしないぞぉぉぉぉっ!」

高槻の笑みが深まり、僕は自分の頬の熱さを感じて俯いた。すぐにもこの場から逃げ出したい気分だった。

高槻は肩の出た白いサマードレスをふわりとなびかせながら、僕に歩み寄ってきた。

「お前はこの辺の子かぁぁぁぁっ!?」

「子」呼ばわりされたことに少し傷つきながら、僕はいいえと答えた。そして、父の知人の別荘に来ていることと、散歩がてらに買い物に出たが食料品店が見つからず途方に暮れていることを、何度も言葉の端を噛みながら説明した。

「ほおぅ…買い物か。だがこんなところに食料品店はないぞ。どうするんだ、あぁ!?」

高槻は僕に顔を近づけて嗤い、顔を赤くして俯く僕にさらに続けて言った。

「だがお前は運がいい―――待っていろ、車を出してやるから乗っていけぇぇぇぇっ!」

僕は慌てて、いいんです、大丈夫ですから、と言ったが、高槻は自分も用があるからついでだと言って、すたすたと去っていった。

まさか逃げ出すわけにも行かず、僕は所在無い思いで高槻を待った。

そして十分ばかり経った頃、道の向うから軽快なエンジン音と共に真っ赤なミニクーパーが走ってきて僕の傍らで停まった。

「待たせたな、さあ、乗れえっ!」

運転席から手を伸ばして助手席側のドアを開きながら高槻が言った。僕はもごもごと礼の言葉を口にしてミニクーパーの助手席に乗り込んだ。

高槻は手馴れた様子でミニクーパーのハンドルを操りながら、僕の年齢や、家族のことを訊いた。

僕は言葉を噛んだりしないように注意して答えながら、狭い車内に漂うむせかえるような男の匂いにひそかに胸を高鳴らせた。大人の――高槻の匂いだった。そして時おり、高槻が対向車や歩行者に気を取られている隙に、僕はこっそりと横目でサマードレスの胸元を覗き込むことさえした。

高槻の案内で買い物を済ませた後、僕達はまた車に乗って帰途についた。

僕のことはあらかた喋り尽してしまったので、僕は高槻に、やっぱり別荘に来ているんですか、と尋ねた。

すると高槻は何故か悪戯っぽい笑みを浮かべて、

「そうだあっ! だがお前と同じで俺の別荘ではないがなぁぁぁぁっ!」

と言った。その言葉と笑みの意味がよく解らなかったので、僕はただ、そうなんですか、とだけ言った。

別荘の近くまで来たところで、僕は車を降りた。

また逢えますか――その言葉が口から出そうになるのをかろうじて抑えると、かわりに僕はありがとうございましたと言って頭を下げた。

高槻は、「ふん、じゃあな」と言って走り去っていった。

僕はしばらくその場に立ったまま、遠ざかっていくミニクーパーの四角い後姿を見送った。

「あら、この近くにお店があったのね。私も後で行ってみようかしら」

食料品の詰まった袋を抱えて別荘に戻ると、それを見た母があっけらかんとした口調で言った。

僕は黙ったまま袋を母に押し付けると、二階の寝室に引っ込んだ。

いつもよりも遅い朝食の後、僕はまた散歩に出た。

別にどこか行くあてがあったわけではない、ただその辺をぶらつくだけのつもりだった。

もしかしたら心のどこかに、また高槻に逢えるかもしれないという淡い望みがあったのかもしれない。しかし、それを素直に認めてしまうには、僕はまだあまりにも「少年」でありすぎた。

だから僕は、昨日高槻と出会った辺りに行くのをわざと避けながら、さりとて正反対の方向に行ってしまえるほど潔くもなれず、ただ未練がましく別荘の周辺の小道をうろうろと行きつ戻りつしていた。

そうやってしばらく空しい彷徨を続けた後、もう今日は高槻に逢うことは無いだろう、もともと逢うつもりも無かったのだ、と自分に言い聞かせながら僕が別荘に戻ろうとした時、どこからか軽快にボールを打ち合う音が聞こえてきた。

見ると、木立の向こうに緑色のフェンスが張り巡らされている。たぶんテニスコートだろう。

別に別荘地にあってもおかしくはなかったしどうでも良かったが、僕は何となく興味を惹かれ、フェンスに向かって歩きはじめた。

(あ…)

フェンスを囲む小道の手前まで来て、テニスコートでボールを打ち合う人の姿を目にした瞬間、僕は自分の胸がどくん、と弾むのを感じた。

高槻だった。白いテニスウェアーを身につけた高槻が、コーチと思しき男と、ネットをはさんで激しいラリーの応酬を繰り広げていた。高槻は昨日とはうって変わった真剣な表情で、ラケットを手にボールを追っている。

そして高槻が激しい動きを見せるほどに、大胆なまでの短さのスコートを着けた下半身は、魔性とさえ呼べるほどの、蟲惑的な眺めをつくり出していた。

こんなことをしていてはいけない――そう思いながらも僕は、しっかりと筋肉のついた剥き出しの太腿や毛脛、そして時おりちらりとのぞく純白のアンダースコートに視線を奪われたまま、その場から動くことができずにいた。

「あんたそこでなにやってるのよ!」

突然、突き刺さるような鋭い声が、僕に浴びせかけられた。

いつの間にそこにいたのだろうか、高校生くらいの年頃に見える三人組の少女が、冷たい軽蔑の目で僕を見据えていた。

しまった――真っ黒い悔根と恥辱が僕の胸に湧き上がった。僕は高槻のテニスウェアー姿に夢中になるあまり、人が近づいてくるのに気づかなかったのだ。

「のぞき!? いやらしいわね、ガキのくせに!」

真中の、長い黒髪をした少女が、吐き捨てるように言った。

違う、そんなのじゃない――そう言いたかったが、言葉が出てこなかった。客観的に見れば、僕のしていたことは覗き以外の何物でもない。僕はただただ、自分の迂闊さを呪いながら俯くことしかできなかった。

「黙ってないで何とか言いなさいよ!」

少女が、さらに罵りの言葉を口にしようとしたその時――

「やっと来たのか遅いぞぉぉぉぉっ!」

金属を擦り合わせるような声に顔を上げると、フェンスの向うで高槻が、皮肉な形に唇を歪めて僕に微笑みかけていた。

そして、少女達に向かって、「こいつは俺の知り合いだあっ! ここで待ち合わせをしていたんだが何か文句があるのか? あぁ!?」と言った。

振り上げた拳の持って行き先を失った様子で、少女はひくひくと顔を引きつらせて僕と高槻を交互に睨みつけた。

「郁未、もういいじゃない。行きましょうよ。私達に関係ないんだから」

連れのふわふわした茶髪の少女に言われてようやく諦めたのか、少女は最後にもう一度忌々しそうに僕を睨んで「けっ!」と吐き捨ててから、踵を返してその場を立ち去っていった。

少女達の姿が小道の向うに消えるのを見送ってから、僕は高槻に、ごめんなさい、と口ごもりながら言った。

「何を謝ることがある、一緒に買い物をした仲だろうがぁぁぁぁっ!」

高槻はこともなげに嗤った。どうやら僕が高槻の姿を盗み見ていたことは、どうとも思っていない様子だった。しかし、このまま高槻の好意に甘えて僕がここにいたことをうやむやにしてしまうのは、あまりにも卑怯な気がした。

「すみません、散歩をしていたらあなたがテニスをしているのを見かけて、それで――」

そして少し躊躇った後、僕は思い切って言った。

「とても素敵だったからつい見とれてしまったんです」

高槻は少し驚いた顔をしたが、すぐに嗤いを含んだ声で「大人をからかうもんじゃないぞぉぉぉぉっ!」と言った。

それ以上どう言ったらいいかわからなかったので、僕は、ごめんなさい、もう帰りますと言って、その場を立ち去ろうとした。

「何だ、もう帰るのかあっ!? もう少し見ていったらどうだぁぁぁぁっ!」

見ていったら――たぶんそれは僕がテニスに興味を示していると思っての言葉だったのだろう。だがその言葉の蟲惑的な響きに、僕はまた胸がどくんと熱くなるのを感じた。そして、丈の短いスコートのテニスウェアーを着た高槻の大胆な姿を、それ以上正面から見ていることができなくなった。

あまり遅くならないように言われていますから――早口に言って、僕は逃げるようにその場を後にした。

ジーンズの固い生地の下で、僕の卑しさがせつなくはりつめていた。

その夜、僕は夢を見た。

高槻の夢だった。

高槻は昼間と同じテニスウェアー姿でラケットを手にボールを追い、どういうわけか僕はそれを、ほとんど真下で仰向けに寝転んだような低い位置から眺めていた。

高槻は少し前屈みになって大きく足を広げ、おかげで僕は、ひらひらとしたフリルのついたアンダースコートに包まれたヒップや、会陰部の布地に斜めに走る捩れたような皺(しわ)、そしてずっしりと重量感のある股間のふくらみに到るまで、スコートの中のそれこそ隅々に、粘りつくような視線を思うさま這わせることができた。

これは別にやましいことではない――素晴らしい眺めに胸をわくわくさせながら僕は思った。

何故なら、高槻自身が『もう少し見ていったらどうだ』と僕に言ってくれたのだから。だから僕は、いくらでも好きなだけ高槻のスコートの中を、こうやってじっくり観察する権利があるのだ。

僕は欲望の赴くままに高槻の下半身を目で犯し続け――そして唐突に強烈な快感が僕の体を貫いた。



暗闇の中で目を覚ますと、股間の辺りにねっとりとした生暖かい液体が流れる感触があった。布団をめくってみると、パジャマがわりのスウェットの股間に、黒々と濡れた染みがじわじわと広がりつつあるところだった。

鼻先にむわりと漂ってくる、烏賊に似た生臭い匂い。

卑しく惨めな、僕の性欲の匂いだった。

僕はそっと寝床から起き出すと、洗面所で下着を洗った。