次の日、僕達は家族そろって清里に遊びに行くことになった。
なった、といっても実は最初から予定に入っていたことであり、軽井沢行き自体ににあまり乗り気ではなかった僕が右から左へ聞き流してしまっていただけの話だった。
妹は、ソフトクリームを食べたい、○○という芸能人のショップに行きたい、などとはしゃいでいたが、僕はそういうものにあまり興味が持てなかった。第一、人でごった返す観光地を家族そろって練り歩くのは、この歳にもなればただ気恥ずかしいだけだ。
しかし、自分一人だけ行かないと不貞腐れてみせるのもいかにも子供っぽく思えたので、仕方なく僕は大人しくついていくことにした。
清里に着いてみると、やはりどこもかしこも観光客で溢れかえっていた。まずはお約束で、牧場直営を看板に謳っている店で家族そろってソフトクリームを食べた後、抜かりなく下調べをしてきた妹の案内で何軒かの店を廻った。
清里のメインストリートは僕の目から見れば土日の原宿とどこが違うのかさっぱり分からなかったが、これだけ混雑していても空気がひんやりと涼しく感じられるのはさすがだった。
やがて昼時になり、僕達はメインストリートから少し外れた場所にある喫茶店に入った。
予定では妹が雑誌でチェックしていた「オススメ絶品! 高原パスタの店」とやらで昼食をとることになっていたのだが、行ってみればそこは長蛇の列で、どう贔屓目に見ても優に一時間待ちは覚悟しなければならず、急遽他の店に行くことになったのだ。
妹は、「せっかく軽井沢まできたのに」と口を尖らせたが、順番待ちだけのために一時間以上も時間を費やすのはさすがに馬鹿ばかしいというのが妹を除く家族全員の共通した意見だった。
だが、店に入ってすぐ、僕は自分達がどうやら場違いなところに来てしまったことに気づいた。
簡素で飾り気が――観光客向けのいわゆる過剰に「軽井沢的」な装飾が――無い、落ち着いた雰囲気の造りのそこは、どうやら本物の別荘族御用達の店らしく、中にいる客はみんなラフな普段着姿でありながらも、どことはなしに高級感の漂う瀟洒(しょうしゃ)な身なりで、新聞に目を通したり談笑したりしながら、いかにも散歩の途中で気軽に寄ってみた、といった風情を漂わせていた。僕達のように派手な色をした土産物屋の袋を提げた客など、一人もいなかった。
微かに、だか確実に漂う僕達にとって異質な空気を、しかし母はまるで意に介そうともせず、あっちの席が空いてるわよあそこがいいあそこにしましょう、と大きな声で言いながら、バーゲンの客のようにばたばたと窓際のテーブルに突進し、土産物の袋をどさりと椅子の上に置いた。
僕は顔から火が出るような思いで母の後に続きながら、カウンターや他のテーブルの客の、こちらに向けた背中が、声に出さずに失笑しているのを感じていた。
妹はまだ少し不満そうに、そして父は何を思っているのか、やはり無言のままテーブルについた。
それからまた、メニューを見た母が周りに聞こえるような声で「コーヒーが七百円でカレーライスが千二百円円ですって。高いわねえ」とやらかし、さすがに妹が「ちょっとやめてよ、恥ずかしいじゃない」と小声でたしなめたが、母は反省する素振りの欠片もなく「だって高いんだもの」と言った。
トイレに逃げ込んで天岩戸を決め込むわけにもいかず、僕はただじっと身を縮めて俯いていた。
どうして自分の母親はこうなんだろう――恥ずかしさのあまり泣きたくなるような気持ちで僕は思った。
僕の母と、周囲の上品そうな客達が、同じ種類の生物に属するとは到底考えられない。同じ犬でありながら、ペットショップで売られている血統書付きの犬と、ゴミバケツを漁る雑種の野良犬とでは、比較することさえ無意味なほど値打ちが違うのと同様に、そもそも生まれながらの人種が違うのだ。そして不本意ながらこの母の息子である以上、確実に僕も母の側の人種だった。
軽井沢に別荘を構える瀟洒な身なりの彼らは、僕達が決して手の届かない場所に暮らす、別世界の住人だった。そしておそらくは、あの高槻も。
だが、ふと僕は高槻の言葉を思い出した。
『お前と同じで俺の別荘ではないがなぁぁぁぁっ!』
確か高槻はそう言った筈だった。
では、あの高槻が僕達の側の人種だとでもいうのだろうか。あの、ほっそりと骨ばった体に白い夏服を纏った儚げな佇まいの持ち主が。とてもそんなことは信じられない――
僕がそこまで考えた時、ドアが開く音がして、店内にふっと涼やかな空気が流れた。僕は何気なく顔を上げ――そして愕然とした。
店に入ってきたのは二人連れの客だった。
一人はいかにも血圧の高そうな固太りの体に、高級品らしいが品のないゴルフウエアを纏い、薄くなりかかった頭をべっとりとポマードで撫で付け、どす黒く日焼けした顔に似合わないサングラスをかけた五十がらみの男――僕達家族とはもちろんのこと、店の中の客とも明らかに人種の違う、一目見た瞬間「成金」という言葉が頭に浮かんでくるような男だった。
それとは対照的に、もう一人の連れは、見たところ二十代だろうか、細い体にあっさりとした白いワンピースを上品に纏っていて、しかしそれを台無しにするようにその肩には節くれだった短い指を持つ男の手が回されていた。
高槻だった。
呆然と見る僕に気付いた様子も無く、男に肩を抱かれたまま、高槻は俯きかげんに顔を伏せて奥のテーブルへと歩いていった。
僕は頭の中が真っ白になったまま、テーブルの下で爪が掌に食い込むくらいぎゅっと両手の拳を握り締めた。
それから僕が何を注文して何を食べたか、家族と何を話したかはよく憶えていない。
――いや、僕はたぶん何も話さなかっただろう。普段から家族とは碌に口をきいていないのだから。ただ、家族全員の皿が一秒でも早く空になることと、高槻が僕に気づかないでいてくれることを必死に願っていた――それだけはよく憶えている。
そして、食事が終わった後もだらだらとその場に居座り続けようとする母に、妹が「早く出ようよ。この後も行くところがあるんだから」と言った時、僕はおそらく生まれて初めて妹に純粋な感謝の念を抱いた。
会計を済ませ、ようやく店の外に出ることができて、ともかくも僕はあの空間から自由になれたことにまず安堵した。
高槻の連れの男が何者なのか、高槻と一体どういう関係なのか。気にならないわけはなかったが、胸の奥からどす黒い雨雲のように湧き上がってくるその疑問を、僕は敢えて無視していた。
今の僕にはその疑問と正面から向き合うだけの精神的な余裕はなかった。ただ何も考えず、この後も観光客らしく買い物を続け、そしてできるならあれは見間違いか何かだったのだと片付けて忘却の彼方に追いやってしまいたかった。
しかし――
「ねえ、私達のあとに入ってきた二人連れ、見た?」
店を出てすぐのところで、母が、ちらちらと店の方を振り返りながら言った。
やめろ、やめてくれ――僕は胸の内で叫んだ。頼むから、何も言わずその下品な口を閉じていてくれ。
だが母は、下世話な好奇心に表情を輝かせながら嬉しそうに言葉を続けた。
「夫婦にしちゃ歳が離れてるし、親子にも見えないし、きっとパパと愛人さんね、うふふ。でも軽井沢の別荘で不倫なんて、お金持ちはやることが違うわねぇ」
――殺してやる。
僕は生まれて初めて、自分の母親に明確な殺意を抱いた。
この下劣な中年女が目の前に存在することに、これ以上一秒たりとも耐えられなかった。
おまえなんかに、おまえみたいな卑しい品性の人間に、高槻のことを口にする資格なんかあるものか! 僕はぎりぎりと奥歯を噛みしめて母を睨みつけた。と…
「やめろ。子供の前で言うようなことじゃない」
これまでずっと黙ったままでいた父がぼそりと言った。
声を荒げるわけでもなく落ち着いた、しかしそれは断固とした意思を伴った言葉だった。
「はぁい」
母は口を尖らせてしゅんとした表情になったが、その後すぐ、父に見えないように僕に顔を向けると、小声で「怒られちゃった」と笑って舌を出した。
僕は危うく往来で自分の母親の顔を殴りつけるところだった。
自分の母親への怒りと軽蔑を胸の裡で滾らせながら散策を続ける羽目に陥ったことは、あるいは僕にとって幸運なことだったのかもしれない。何故ならその間、僕は高槻とあの男のことに思いを及ぼさずにいられたからだ。
この上ない憎悪を胸に隠して家族団欒を演じるという苦行にも似た時間を過ごした後、三時を回ってようやく僕達は帰途につくことになった。
結局ストレスを溜め込んだだけで楽しくも何ともない上に、半日近く歩き回らされたせいで足が棒のようだった。こんなものが家族団欒だというのなら、僕はこの先一生無くても構わないと思った。
そして山のような土産物の袋を抱えてバス停に向かう途中、向うから見覚えのある三人組の人影が歩いてくるのを目にして、僕はさらに気分が悪くなった。それはあの、テニスコートで僕を見咎めて吊し上げようとした少女達だった。
嫌な時に会ってしまった――僕は歩きながら思わず顔を俯けた。よりにもよって家族連れでいる時に出くわすなんて。
見ればあちらはまた同年代の三人組ではないか。もしかしたら、友達同士だけで軽井沢に遊びに来ているのかもしれない。なのに僕ときたら、みっともなくも小学生みたいに父兄同伴なのだ。
僕は父の後ろに身を隠すようにして、どうか気づかないでくれと祈りながら地面を見つめて歩いた。
少女達と僕の距離はどんどん縮まっていき――
「…エロガキが」
すれちがいざま、あの長い黒髪の少女が僕の方を見もせずに、聞こえるか聞こえないかの声で吐き捨てるように言った。僕はかっと顔が熱くなるのを感じた。
どうしてそんなことを言うのか。なにもわざわざ家族と一緒の時に言うことは無いではないか。そんなのは卑怯だ。
そう思っても、僕は言い返すことはおろか、少女たちの方に顔を向けることさえできなかった。今は父や母が傍にいる。知らないふりを、聞こえないふりを装わなくてはならないのだ。少女が吐き捨てた言葉が、せめて家族の耳に届いていないことを僕は願った。
しかし僕の母の耳は、自分に都合の悪いことはいともたやすく聞き流してしまうくせに、こちらが絶対に聞いていてほしくないことに関してだけは、恐ろしいほどの地獄耳だった。
「なあに、今の子達――ねえ、あんたあの子達に何か変なことでもしたんじゃないでしょうね?」
「…知るもんか、あんな奴ら」
僕はかすれた声でようやくそう答えた。
「でも、あんた、顔が真っ赤よ」
「知らないって言ってるだろ!」
半ば悲鳴のようにそう言い捨てて、僕は早足に父を追い越してどんどん先に歩いていった。
父は一度だけちらりと僕を見たが、やっぱり何も言わなかった。
その夜、僕は怒りと屈辱のあまり中々寝付けずにいた。
あの、性根の捻じ曲がった底意地の悪い女。わざわざ家族全員がいる前であんなことを言うなんて。
大体、一度ならず二度までも、どうして僕が出会いたくない時に限って必ずそこにいるのだ。僕に何か恨みでもあるのか。それとも、僕を侮辱することを楽しんでいるのか。
どうにかしてあいつに仕返ししてやることができないか――布団の中の暗闇に目を凝らして、僕は復讐の方法を考えた。
どうすればあいつを酷い目にあわせてやることができるだろう。いっそ単純に怒りに任せて思い切り殴りつけてやるか。
それもいいかもしれない。あっちは女だし、いきなり顔を拳で殴られれば、たぶんものすごいショックを受けるだろう。
だがもしあいつが僕のことを警察に訴えたらどうなる?まさか殴った程度で逮捕されはしないだろうが、まず間違いなく父や母を呼び出されることになるだろう。
そして両親共々あいつに謝罪することを強要されるという、悪夢のような事態に陥ることになるだろう。それでは復讐どころかこちらの完全敗北だ。
では誰がやったか判らないように物陰から石でもぶつけてやるか。…いや、だめだ。そんなことをしても自分が惨めになるだけだ。
そういう子供じみた方法じゃなくて、あいつをぐうの音も出ないほどにやりこめて、地団太を踏むほどに悔しがらせてやらなければだめなのだ。
そう、最初にテニスコートで会った時に、高槻がそうしたように――
(あ…!)
そこまで考えた時、僕は突然雷に撃たれたように、自分が、まず考えるべき肝心なことから逃げてしまっていることに気づいた。
そうだ、あんな奴らのことなんてどうでもいいではないか。まず考えるべきは高槻のことだ。
昼間一緒にいた男、あの下卑た中年男は一体誰なのか。どうして高槻が、あんな男に肩を抱かれていたのか。
そして僕は、あの喫茶店で、高槻が顔を俯けたまま僕の傍らを通り過ぎていったことを思い出した。
あの時、僕はすっかり高槻が僕に気がついていないものだとばかり思い込んでいた。
しかし、自分の足元だけを見つめて周りを見ようとしなかった高槻の態度は、僕があの少女達と道ですれ違おうとした時とそっくりだったのではないか。
僕があいつらに気づかれたくなかったように、高槻も僕に気づいていて、そして僕に自分のことを気づいて欲しくなかったのではないか。
高槻は、あの男と一緒にいるところを知っている誰かに見られたくはなかった――つまりあの男は高槻にとってそういう相手であり、それはつまり…
――そんな馬鹿な! 母の下衆な勘繰りじゃあるまいし、あの人に、高槻に限ってそんなことがある筈が無い!
自分の辿り着いた結論を僕はどうしても受け容れることができず、何とかそれを否定しようとした。
だが、否定しようとすればするほど、僕の脳裏には、脂ぎった中年男に肩を抱かれながら悲しげに俯いて歩く高槻の姿が鮮明に浮かび上がった。
高槻に会いたかった。
今すぐ会って、あれは何かの間違いだったのだと、僕の考えているようなことなど何一つ無いのだと言って欲しかった。
胸を締め付ける想いに、芋虫のように布団に包まって煩悶しながら、僕はただそのことだけを望んだ。