翌朝、僕は朝食を終えるのもそこそこに散歩に出かけた。
テレビの天気予報で言っていた通り、空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうな様子だったが、僕は一切気にしなかった。
たとえ急に土砂降りになったとしても僕には関係無い。何故なら僕は高槻に会うために散歩に出たのだから。
――そう、僕はもう自分の気持ちに嘘を吐くのをやめようと決めていた。
そんなふうにおかしな格好をつけて、薄ら笑いで自分を誤魔化して何になるというのだろう。どっちにしろ傍から見ればただ滑稽なだけなのに。そんなだからあの底意地の悪い少女に笑い者にされたりするのだ。
だからもう自分自身から逃げたりはしない。僕は何としてでも高槻に会わなければならないのだ。
しかし、そんなふうに力みかえっていたことが逆にいけなかったのか、僕は中々高槻と出会うことができないでいた。
別荘の建ち並ぶ一帯を、僕は汗だくになりながらほとんど隈なく歩き回ったが、そのどこにも高槻の姿は無かった。
白樺の小道を何度も空しく行ったり来たりを繰り返した後、僕は途方に暮れて立ち止まり、そしてよくよく考えてみると、自分がいかに頭が悪い人間であるかということに気づいた。
こんな、いつ雨が降り出してもおかしくない空模様に、誰が好きこのんで徒歩で外出などするだろうか。もしどこかへ出かける必要があったとしても車を使うだろう。雨が降ろうが槍が降ろうが一切気にしないのは、この僕くらいのものだったのだ。
もう今日のところは諦めた方がいいのだろうか。高槻は何処にもいない。そもそも僕のような無力なただの子供が何を決意しようと、それで思い通りにことが運ぶほど世の中は都合よくできていないのだ。
固い決意に高揚していたはずの精神は今やすっかり徒労感に打ちひしがれて萎縮してしまい、僕は別荘に戻るためにとぼとぼと歩き始めたが、ふと一昨日のことを思い出して足を止めた。
自分に真っ正直になれなかったにしろ、あの時も僕は高槻の姿を求めてさ迷い歩き、そして思わぬ場所で再会することができた。だったら今度も、あのテニスコートに行けば高槻と出会うことができるのではないか。
それが自分にとって都合のよすぎる希望的観測に過ぎないことはもちろん十分に承知していた。常識的に考えれば、散歩に出かけることさえ憚られるような空模様にテニスなどする筈がない。行ったとしても、無人のテニスコートを空しく眺めることになるだけだろう。
だがそれでも、僕は行ってみようと思った。どうせこれだけ長時間、無意味に歩き回ったのだから、あそこまでの往復が加わったところで大した違いはない。それに、逆に考えれば、絶対に逢えないと決まっているわけでもないのだ。どうせ駄目元だ。僕はテニスコートに向って歩き始めた。
だがその選択は、やはり全くの誤りだった。テニスコートの手前の小道まで来たところで、向こうから歩いてくる人影を目にして、僕は思わず身を凍らせた。
それは出会うことを渇望している相手ではなく、僕が一番会いたくない人間だった。
そいつは僕の前で立ち止まると、開口一番皮肉な口調でこう言った。
「何? また覗き? まったくとんだエロガキね。ところでパパやママと一緒じゃなくて”ぼくちゃん”は大丈夫なの?」
嘲笑に唇を歪めて、軽蔑に満ちた視線で僕を見据えているのは、あの髪の長い少女だった。
「ぼ…おれがどこにいようとお前に関係ないだろ」
僕はやっとの思いで絞り出すように言った。
本当は、もっとこいつをぺしゃんこにへこませてやるような罵倒の言葉を、思う存分叩きつけてやりたかった。しかし僕は屈辱で胸がつまったようになって、普段の自分なら返せるはずの簡単な罵りの言葉さえ思いつけずにいた。
あるいは単純に、「黙れブス」とでも言えばよかったのかもしれない。しかし残念なことに、一般的な基準に照らし合わせれば目の前の少女は十分すぎる程に美人でスタイルもよく、そしておそらくそのことを当人も解っているだろうから、言ったところでさして堪えるとも思えなかった。
「けど残念ね〜 見ての通り今日は誰もいないから。…ああ、それともクラブハウスからパンツでも盗みに来たの?」
「おれはそんなんじゃないっ!」
「あ〜あ、むきになっちゃって。やっぱり図星?」
「おまえ…!!」
僕はただもう、憎しみだけを両目に込めて目の前の相手を睨みつけた。
こいつはきっと、以前高槻にやり込められたことを根に持っていて、それでこんなにも執拗に僕のことを侮辱しようとしているに違いない。なんて嫌らしい性根の持ち主なんだろう。こんな奴にだけは絶対に負けるわけにはいかない。
だが考えてみればさっきからこいつの言っていることは言いがかり以外の何物でもないのだ。いちいちそれに反応して頭に血を上らせていてはこいつの思うつぼだ。クールになれ。クールクールクール。
「いいかげんにしろ。おれはただ人に会いに来ただけだ」
――だからお前の言うことなんかにいちいちつきあっていられない――言外にそういう意味を含ませて、できる限り冷静な口調で僕は言った。
「ここにいないなら帰るだけだ」
だが、そんなささやかな僕の反撃は、相手には何の痛痒も与えなかったようだった。
少女は嫌らしいにやにや笑いを消すこともなく僕に言葉を返した。
「何? 人って、この間の奴のこと? 気持ち悪いわね、ガキのくせに色気づいて! 大体あんたみたいなガキ、まともに相手されると思ってるの? 馬っ鹿みたい! あんたみたいな勘違い野郎をなんていうか知ってる? ストーカーっていうのよ!」
「――っ!!」
自尊心というものを丸ごと踏みにじる少女の言葉に、僕は怒りのあまり眩暈さえ覚えた。
「それにね、知ってる? あいつ、愛人なんだって。――何、その顔。この辺じゃけっこう有名な話よ。まあ、あんなオヤジと二人連れでイチャイチャ歩いてちゃ、見た瞬間にもろばれよね〜。つまりね、あんたの憧れの人はキッタないオヤジに股広げて金貰ってるってことよ! なんならあんたも小遣い渡してお願いしてみれば? きっとキモチイイことさせてもら――」
僕に耐えられるのはそこまでだった。
頭の中で何かがぶつりと千切れる音がしたと思った次の瞬間、僕は思い切り少女の顔を拳で殴りつけていた。
どれだけ嘲ったところでどうせ僕には何もできないだろうとたかを括っていたのか、まるきり無防備だった少女の頬を僕の拳はまともに捉え、少女の体は吹き飛ばされたように勢いよく倒れ込んだ。
ぽつぽつと地面を叩いて、雨が降り始めた。
少女は地面に伏せた姿勢のまま、僅かの間微かに呻くような声を喉から漏らしていたが、やがて顔を上げて火のような視線を僕に向けた。
「なにすんのよ!」
「黙れぇぇぇぇぇっ!!」
少女を睨み据えて、喉がはり裂けるような声で僕は叫んだ。
「おまえなんか――おまえなんかより高槻の方が何十倍も何百倍も綺麗だ!!!」
そして僕は踵を返すと、降り始めた雨の中を走り出した。
降りしきる雨の中を、僕はただ滅茶苦茶に走り続けた。
息が苦しい。心臓が口から飛び出しそうだ。しかしそれでも僕は走るのをやめることができなかった。
やめてしまったらその瞬間、僕という存在そのものが木っ端微塵に砕け散ってしまいそうだった。
体中を激しい雨に叩かれながら、このままずっと走り続けていたい。何処までも何処までも遠くへ。
僕の胸の裡でどろどろと渦を巻いて僕の心を壊してしまおうとする怒りも悲しみも憎しみも、その全部が雨に溶けて消えてしまうまで。
それだけを願って、僕はただ走り続けた。
やがて――
気づくと僕は何処ともわからない、深く木々に囲まれた中にひっそりと建つ別荘の前で、荒く息を弾ませて立ち尽くしていた。
獣のように息を吐きながら空を見上げる。
灰色の雨雲がうっすらと渦を巻く空から、銀の糸のような雨が降り注いでいた。
僕の顔を濡らして絶え間なく流れ落ちる雨水に混じって、熱い液体が頬を伝い降りていた。
声を殺して僕は嗚咽した。
そして、ふと人の気配のようなものを感じて、僕はのろのろとそちらに顔を向けた。
別荘の庭先に生えている大きな木の下に、高槻が立っていた。
僕はそちらに向って歩き始めた。
「びしょぬれだなぁぁぁぁっ!」
僅かに微笑を浮かべて、ほっと吐息を吐くように高槻が言った。
それからしばらくの間、僕も高槻も何も言わなかった。
大きく張り出した木の枝の茂みの下で、ただじっと木立に降りしきる雨を見つめていた。
「…どうしたんですか?」
しばらくして、僕は高槻に尋ねた。
「雨宿りだぁぁぁぁっ!」
高槻は短く答えた。雨に濡れたブラウスの生地の下から、うっすらと肌の色が透けて見えていた。
僕は別荘の方に視線を逸らした。
「ここがあなたの別荘なんですか?」
「俺のものじゃないがなぁぁぁぁっ!」
「中に――」
入らないんですか、と言いかけたところで、僕は高槻の頬が叩かれたように赤く腫れているのに気づいて、思わず息を呑んだ。
「躾のなっていない猫は外にいろってことだぁぁぁぁぁっ!」
高槻は寂しそうな笑みを浮かべた。そして、ぽつりと言う
「もう、知っているんだろうがぁぁぁぁっ!」
「え…」
「昨日、喫茶店で見られてしまったからなぁぁぁぁっ!」
「………」
何も言えずに俯く僕に、高槻はかすれたような声で続ける。
「俺はなぁ、愛人なんだぁぁぁぁっ! 普通に働いても十年や二十年じゃ返せないほどの借金があってなぁぁぁぁっ! それを肩代わりするかわりにあの男の『持ちもの』になったんだぁぁぁぁっ! お前はこんな俺を軽蔑するだろう!? 汚いと思うだろう!? ああ!?」
淡々とした、しかし苛烈な高槻の独白は、僕を完全に打ちのめしていた。
まともに働いても返せないほどの借金。そのために高槻はあの下卑た男の愛人になっている。
薄々気づいていたものの、目を逸らして逃げ続けてきた現実。
それをどれだけ許しがたく思ったとしても、一体僕に何ができると言うのか。まだ十四歳の、一円だって自分の力で稼いだことの無いこの僕に。
そしてあの男は金を持っているというだけで、高槻を思うさま慰み物にし続けるのだ。これからも、ずっと、ずっと。
そう思った瞬間、頭の中がかっと熱くなり、僕は激情に駆られるままに夢中で高槻の細く骨ばった体を抱きすくめていた。
濡れてぴったりと肌に貼りついたブラウスの生地越しに、僕は高槻の体温を感じた。
高槻の肌の、髪の匂い。磯の香りにも似た、むせ返るような男の匂いに僕はただ酔いしれ、この時が永遠に続くことを望んだ。
そして僕はブラウスの襟元に指をかけ…
「やめろぉぉぉぉっ! やめてくれぇぇぇぇっ!」
か細く懇願する声に、僕ははっと我に返った。
抱きすくめた腕の中で、高槻がげっそりとこけた頬に怯えた表情を浮かべて僕を見ていた。ブラウスのボタンが千切れ落ち、胸元が大きく開かれている。
僕が慌てて高槻の体を放すと、高槻は乱れた胸元を押さえながら、追い詰められた小動物のように僕から後退った。
どす黒い悔恨が、僕の胸に込み上げてきた。
――僕は…一体…
――いったい何を…
「…だ、大丈夫だあっ! ちょっとびっくりしただけだぁぁぁぁっ!」
そう言って、高槻がぎこちなく笑みを浮かべて見せ――
弾かれたように、僕は雨の中に向って駆け出した。
その後、どこをどう歩いたのかはよく憶えていない。
日暮れ近くになってようやく別荘に帰りついた僕は、雨に濡れたためか、ひどい熱を出して寝込んでしまった。
熱がある時特有の、うとうとと続く浅い眠りの中で、木漏れ日の中に立つ高槻が、テニスコートでボールを追う高槻が、脂ぎった男に肩を抱かれて俯く高槻が、そして雨宿りの木の下で怯えたように僕を見る高槻が、目の前に入れ替わり立ち替わり現れては消えた。
『あんたみたいなガキ、まともに相手されると思ってるの? 馬っ鹿みたい!』
そして暗闇の中で、嘲笑に唇を歪めてあの少女が言う。
ああ、そのとおりだ――僕は少女に向って虚ろな笑みを浮かべた。
あいつの言うとおり、僕は無力なくせに性欲だけは一人前の、ただいやらしいだけのガキなのだ。
何をどう言い繕ったところで、僕が高槻を汚らしい性欲の対象にしていたことは動かしようのない事実だ。僕があの脂ぎった中年男を非難できる理由など、どこにもないのだ。
だからもういい。ただのガキだ。
これ以上は何もせず、家族と一緒に大人しく東京に帰ろう。
そして自分の部屋でグラビアをオカズにせんずりでもかいていればいい。僕はただの十四歳のガキなのだから――
夢の中で、僕はひたすら自分にそう言い聞かせ続けた。
結局、僕の熱が下がったのは東京に帰る前日だった。
「わざわざ軽井沢まで風邪をひきに来るなんて馬鹿みたい」
妹はそう言って僕を笑った。
やめなさいよ、と母が妹をたしなめたが、僕は「いいよ、別に」と静かに笑って言った。母と妹は変なものを見るような顔をして僕を見た。
そう、僕は最初からこの旅行に乗り気ではなかったのだ。一週間の日程が過ぎて、東京に帰る日が来ることをただ待ち望んでいた。だから、その間健康だろうと熱を出して寝込もうと同じことだった。
そして明日はいよいよ、東京に帰る日だ。これまで通りの日常がまた始まるのだ。ここであったことなど、退屈で平穏な日々の繰り返しに押し流され、すぐに記憶の彼方へと消え去ってしまうだろう。
久し振りの味のわかる夕食の後、これまた久し振りのシャワーを浴びて、僕は穏やかな気持ちで床についた。
けれど深夜になって僕は目を覚まし、そして自分が高槻のことを決して忘れないであろうことに気づいてしまった。これほどまでに強く人を想ったことは、生まれて初めてだったからだ。
僕がこの別荘地を訪れることは、たぶんこの先無いだろう。だから高槻ともこれっきりなのだ。
だったら、せめてあと一目でもいいから逢いたい。そして、できればこの前のことを謝りたい。
そう思ってしまうと、僕はもう矢も盾もたまらず、そっと布団から起き出して別荘を後にした。
街灯も無い夜の道を、疎らに並ぶ別荘の門灯の仄かな灯りを頼りに、僕は高槻のいる別荘を目指した。
途中の風景が途切れ途切れに記憶が残っていたものの、完全な道のりまでは思い出すことができず、僕は何度か道を間違え、後戻りしてはその都度、一体自分は何をしているのだろうと自問した。
そして、もうこんな馬鹿なことはやめて戻ろうと思い始めた時、僕は木立の向うに、人家の窓の灯りと、見覚えのある形をした大きな木の影を見つけた。
間違いない。高槻のいる別荘だった。
ああ、僕は辿り着くことができたのだ――僕は蛾が灯火に誘われるように、ふらふらと窓に近づいていった。
高槻は、そこにいた。
ほとんど床から天井近くまでの高さのある、ショーウィンドウのような大きな窓のガラスの向う側。明るく光の溢れるリビングの中に。
高槻は一人ではなかった。あの男も一緒だった。
二人は全裸だった。
高槻は床に手をついて獣の姿勢をとり、その背後から男が覆い被さって体を揺すっていた。
男は顔を赤黒く上気させ、そして男が腰を深く押し付けるたび、高槻は引き攣るように息を吐いて骨ばった体を震わせた。
高槻の肌は桜色に上気し、そしてその顔には恍惚とした、悦びの表情が浮かんでいた。
僕は知らず知らずのうちに足元の小石を拾い上げると、窓に向かって思い切り投げつけていた。
夜の静寂を破って、ガラスが激しい音をたてて砕け散った。
そして僕はすぐに踵を返すと、数秒遅れて追いかけてくる怒号に背中を叩かれながらその場から走り去った。
夜が明けて東京に帰る日になり、僕達は午前中いっぱいを使って別荘の掃除をした。
別に別荘の持ち主とそう約束していたわけではなかったが、「常識でしょ。ただで使わせてもらったんだから」と母が言い出したからだった。
無神経な発言を繰り返すわりに、こういうことにはよく気が回る母だった。
そして僕は、結局母はこの一週間、食事の用意に洗濯にと、家にいる時とさして変りの無い日々を送っていたことに思い至った。
帰りの列車の車内は行きと同じく満席だったが、なんとなく疲れたような空気が漂っていて、あまり声高に談笑したりはしゃいだりしているような乗客はいなかった。
通路をはさんだ反対側の席では、小学校の低学年と思しき男の子が、プラスチックの虫かごの中のカブトムシに、無言のままじっと見入っていた。
発車してしばらくしてから、僕はトイレに立った。
トイレの個室に入ってドアに鍵をかけた後、僕は水洗のペダルを踏んだ。
青い水が音をたてて渦を巻き、便器の穴の奥に吸い込まれていく。
それを見ながら、僕は少しだけ泣いた。
<了>