あれからしばらく、キッスにお呼びがかかる事はなかった。
それはそれで良いのだが、どうしてこちらが悪い事をしたような気にならなければならないのだろう。キッスは出て行け、と言った時のグリニデの顔を思い出していた。いつものストレートな癇癪ではなく、傷ついた子供のような顔。
……あんな顔を見たのは初めてだった。
キッスは研究室の椅子に座って、くしゃりと石板の抜き書きを握り潰した。
何だというんだ。優しくしたからといって、自分が素直に腰を振るとでも思っていたのか。多分、自分の反応がグリニデのお気に召さなかったのだろう。だから追い出したのだろう。
だって、仕方がない。自分は好きで抱かれているのではないのだから。強姦した相手に感じてしまっては、自分は身も心もグリニデに支配されてしまう。それは駄目だ。絶対に。
自分達はもっと殺伐とした関係でいい。
向こうだってそうではないのか? と思いながら、キッスはなんだか落ち着かなかった。
数日経って呼び出しが来た。キッスは心の何処かで安堵しながら出向いた。
グリニデは杯を突き出した。
「飲みたまえ」
「……はい」
先日、飲まされた物と同じ銘柄の蒸留酒だった。その夜の記憶は、無い。
どうやらグリニデの変節はこの蒸留酒にありそうだが、飲まない、という選択肢は当然ない。
キッスはやはりひと息に酒を煽った。そして意識を失った。
「最近、グリニデ様とうまく行ってるみたいだな」
ベンチュラが研究室に顔を出して、つんつん、と飛んでいるモスリープを突つきながら言った。
「……うまく?」
キッスは繰り返した。誘導尋問に聞こえないよう、声の響きに注意しながら。
「あ? だって、声が……まあ聞くのはマナー違反かもしれないけどよ、聞こえるモンは仕方ないだろ? 俺ら人間より耳いいし。もっと、とかそこ、とか、オメーも随分可愛げが出て来たなって、ロズゴートとも話してたんだぜ。ま、気持ちイイのは悪いこっちゃないよな。むしろ魔人なら当然……っ!?」
ガタン、と大きな音を立ててキッスは立ち上がった。ベンチュラは驚いて口をつぐんだ。
キッスは真っ青になって問い質した。
「もっと、とかそこって……何!? 僕、そんなこと言ってるの!?」
酒を飲まされた夜の記憶はない。そしてグリニデは、あれから召し出す度にキッスに酒を飲ませていた。ベンチュラはキッスの剣幕に腰が引けたようで、あ、俺用事思い出したから……と逃げ出した。
「あっ! 待て……っ」
自分で吐き出した糸を伝って窓から逃げられては、キッスには追い様がない。
キッスはベンチュラが逃げた窓枠に手をついて、考えを巡らせた。
今のは何だ。自分は本当にそんな事を言っているのか!?
覚えがない。目を覚ますと、誰かが運んでくれたのか自室のベッドの上だった。
変わらないのは疼痛だけだ。腰の奥深くに残る、鈍痛。意識が無いのをいい事に好き勝手やられているのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。
怖い。
無意識に口走っている言葉が恐ろしい。グリニデの変化はそのせいなのか?
悪寒がして、キッスは自分で自分を抱きしめた。
一体、何を喋っているのか……自分の事なのに記憶すら自分でままならない。
ああでも、無意識下で何を言ったかなんて、知る術は……、
キッスは閃いた。
――ある。ひとつだけ。
コダマンボ。
他者の声を記録する事の出来る魔物。
余り戦闘には向かないが、グリニデは何故だか樹の章の魔物をコンプリートしてるようだから、一匹くらい城の敷地のどこかにいるかもしれない。キッスは研究室を出て、更に城の外に出た。ぞろぞろと、トリュプスやモスリープが付いてきた。
これらは自分を守ってくれるものだけれど、同時に監視役でもある。
「お願い、僕を助けて。僕に協力して。……出来る所まででいいから。探してほしい魔物がいるんだ」
計画が筒抜けになる事を承知の上で、キッスは頼みごとをした。
暗い森の中へトリュプス達が散って行ったのを見て、キッスは自分でも森へ分け入り、呼んだ。
「――コダマンボ。いる?」
マントの裏にコダマンボをはべりつかせて、キッスはこの夜もグリニデの寝所を訪れた。
飲まされる前に、自分からするりとマントを落とす。コダマンボごと。
落下音でバレないかと思っていたが、幸い、言い含めておいたのと僅かながらマントがクッションになったらしく、心配した程の音はなかった。わざとうず高く積まれるように脱いだマントの中にしばらくは隠れておいて、自分とグリニデがベッドに沈んだら、こっそり家具の下に移動するよう言っておいた。
回収方法は、足があるのだから頃合いを見計らって自分で出て来てもらうか、翌日になってから、キッスが隙を見て忍び込むか……それは、その時になってみないとわからない。
「何を企んでいるのだね? キッス君」
「おっしゃる意味がわかりかねますが、閣下……」
面白そうに問うグリニデに、内心の動揺を悟られないように答える。全く、こんな芝居ばかりうまくなっていくな……とキッスは自嘲する。
「ふ、まあいい。君の掌の上で踊らされるのも一興だろう。どうせこれから踊るのは、君自身の方だしな」
グリニデは、いつもならキッスにそのまま渡す杯を煽った。
ぐい! と顔を引き寄せられたかと思うと、グリニデの唇が重なってきた。反射的に顔を背けたくなったが、今日だけは大人しく従順にしていなければならない。グリニデが蒸留酒を口移しに流し込んできたのを、キッスはなんとか飲み下した。吐き気がするのを堪えながら。
グリニデはキッスをベッドに組み伏せて、二度、三度と同じ事を繰り返した。
与えられる酒を飲みながら、キッスはいつのまにか意識を飛ばした。
そろり、と足音を忍ばせ、キッスはコダマンボを回収に向かった。
グリニデが寝室にいない事は確認済みだ。この時間、グリニデはキッスにも誰にも教えていない秘密の部屋に籠もって、自分の研究を続けているらしい。何を研究しているのかもキッスには知らされていないが、多少のスケジュールはこれまでのグリニデ城での生活で把握していた。
さっとコダマンボをマントの中に隠し、何食わぬ顔で自分の部屋に戻る。
自室をねぐらにしているトリュプス達を丁重に廊下に出してから、キッスはコダマンボに尋ねた。
「再生してくれる? 昨夜、聞いた事を」
コダマンボは再生を始めた。すぐにコダマンボの口を塞ぎたくなった。
ベンチュラの言っていた事は本当だった。
コダマンボの記録はその者の声までコピーする。キッスは自分の声が浅ましいセリフを吐き、あられもない嬌声を上げるのを、コダマンボの口から流れるのを聞いた。キッスは拳を握りしめた。
……もういい。沢山だ。
キッスはコダマンボを制止しようと手を伸ばした。
その時、扉が開いた。
「なるほど……何の為にコダマンボを探し出したのかと思えば……」
「……閣下……」
キッスは驚かなかった。元々、バレるのを込みで立てた計画なのだ。
グリニデは一人で、ダンゴールも連れず、キッスの部屋に入ってきた。
「記憶がない、というのは不安な事だろうからな。その間、自分が何をしているのか気になるのは理解出来る。こんな方法があるとは私も思い付かなかったが……さすが、天才なだけあるな。キッス君」
皮肉のようでもなくグリニデは言い、キッスに近付いた。
グリニデが進んだ分だけ、キッスも退がった。
グリニデは目を眇めて言い放った。
「認めたまえ。君の無意識は私を求めているのだ。意識のない君の方が余程素直で可愛らしい。認めた方が楽になれる。さあ、ここへ来て、私に身を任せたまえ」
「――違う!!」
キッスは絶叫した。
それだけは絶対に認められない。絶対に!
「強情な……! 良かろう、せっかく正気を保っているのだ。そこのコダマンボが記録しているのと同じ台詞を吐くまで責めてくれよう。なあに、心配はいらない。再生虫なら何匹でも持って来させよう。体さえ無事なら、今回は気絶しようと斟酌しないで済むからな」
「………っ!!」
コダマンボは今も昨夜の声を再生している。
キッスは部屋を見渡し、どうにか逃げられるルートはないかと探した。
その間にも、グリニデはキッスとの間を詰めてくる。
「……嫌ああっ! 嫌だ、嫌……!!」
あっけなく捕えられ、キッスは他の人間を守る為に、ずっと呑み込んでいた言葉を口にした。
>>>2010/10/14up