「……おはよう……」
もともと目覚めのいい方ではないが、今朝は特に顔が青い。ベッドの上に半身を起したキッスは、だるそうに目をこすりながら挨拶した。
「おはよう、キッス。まだ早いぞ。もう少し寝てろよ」
ビィトは窓際に立って、外を眺めながら言った。
「雨だ。けっこう凄い降りだぞ。どうする? 今日は出発は取りやめにして、もう一泊してくか? それ位の余裕はあるだろ?」
「うん……」
キッスの返事ははきつかない。
ビィトはキッスを驚かさないようにベッドに歩み寄って、そっと腰を下ろした。
「なあ……昨日の奴の事なんだけど」
キッスは目に見えてびくついた。
「あいつ、イーガンって名前なのか?」
弾かれたようにキッスはビィトを見、震える手で口を覆った。
「僕……何か言った? やっぱり」
「……ああ。嫌だとか、やめて、イーガンだとか、他にも、色々」
「………っ!!」
いたたまれなさに耐えられなくなったのか、キッスは立てた膝とシーツの中に顔を伏せ、
「ごめん。またビィトに、気持ち悪い思いさせちゃったね」
「いや、そんな事ないけどさ……」
ビィトは所在なさげに頬を指でぽりぽり掻いた。
顔を上げようとしないキッスに、ビィトはどう声をかけていいかわからない。以前もそうだった。二年前も、ビィトとキッスは一緒に旅をしていた。
疲れている時や体調の悪い時、今回のように嫌な事を思い出した時、キッスは決まってうなされて、様々な名前を口走った。キッスに特定の相棒や仲間がいなかったのも、多分そのせいなのだろう。嫁さんに決めている女がいる、とビィトが告げた時の、キッスの心底ほっとしたような、嬉しそうな表情を、ビィトは今でも覚えている。
気まずい沈黙を、顔を埋めたままキッスが破った。
「……イーガンはいい人だよ。少なくとも、一緒に行動した中では、ビィトの次くらいにいい人だったよ。僕が我慢出来なかったのが悪かったんだ。あれくらいの事、もつとひどい事だって、散々されてた筈なのに」
「馬鹿野郎、いい人がお前に乱暴するかよ。キッスだって、嫌だったから逃げ出したんだろ。多分もう、二年以上も前の話なのに」
思わず大声になってしまった。やばい、とビィトは思った。
ビィトを見上げたキッスの目にみるみる涙が盛り上がってくる。
男として、人前で泣くにはかなり恥ずかしい齢だろうに、こうまで顔をくしゃくしゃにして泣けるのは、却って凄いかもしれない。と、感心している場合ではない。
「あー……悪かった。言い過ぎたよ。考えてみりゃ、俺もイーガンって奴の事、何も知らないも同然だしさ。だから泣くなよ。な?」
キッスの涙は止まらない。ビィトはますます途方に暮れる。
「えっと……じゃ、出発は明日って事で。今日はゆっくり休めよ。俺は、ポアラにそう決まったって伝えてくるから、さ」
情けなくもビィトはそう言って部屋から逃げ出した。
どうも勝手が違う。ビィトの周りに、今までキッスのようなタイプはいなかった。皆、自分の信念を持っていて、竹を割ったようにきっぱりしていて、自分の腕と実力を誇りに思って生きていた。
キッスも腕は確かなのだが、というか、天撃の才能では天才といっていい程の天賦に恵まれているのだが、あの自信の無さは何事だろう。口だけ達者で、実力が伴わない輩なら、そこらにゴロゴロしているのだが。
ポアラの部屋をノックして話を伝える。
ポアラも雨の中、出発したくはなかったらしい。簡単にOKした。
「……で、キッスは何か話した?」
一緒に朝食を摂りながらポアラは聞いてきた。が、もちろんビィトには答えられなかった。
曖昧に誤魔化して、散歩してくると言い置いて外へ出た。雨よ!? というポアラの声は耳に入らなかった。
「ふー……気持ちいー」
落ちてくる雨粒に顔を晒してビィトはつぶやく。
何かもやもやとした気分だった。冷たい雨に打たれるのは丁度良かった。ビィトは自分達が止まっている部屋の窓を見上げた。
きっとキッスは、まだ一人でいたい気分だろう。
ビィトとしても、顔を合わせづらかった。そのまま意味もなく足を進める。
適当に時間を潰してから部屋に戻るつもりだった。
が、そうもいかなくなったようだ。
「……やあ」
イーガン、という名前の男が、同じく雨の中、どこかライオに似た男くさい笑みを浮かべてビィトに向けて手を上げた。
「まさかとは思うが、俺達をつけてた訳じゃないだろうな。どうもタイミングが良過ぎるんだが」
イーガンを睨みつけながらビィトは聞いた。二人は町外れの丘まで歩く事にした。
「はは」
イーガンは軽く一蹴した。
「そんなわけないだろ。俺はもうずっとここを拠点にしてるから、宿屋の位置を知ってただけだよ。この街に宿屋はそう何軒もないし、ちょっと聞き込みしただけで、どこの宿かわかったよ」
「だから、何で聞き込みなんかする必要があるんだよ。言っとくけど、キッスはもう俺の仲間なんだから、お前とは行かせないぞ。もう一度キッスを食い物にしようったって、そうは行かないからな」
「………」
イーガンは初めて曇った表情を見せた。
そして言った。
「君がそう思うのも無理はないが……ビィト君、だったっけ。俺はキッスに謝る為に来たんだよ。そして、君に話を聞いてもらう為に」
「話?」
辿り着いた丘の、手頃な岩の上にそれぞれ座りながら、雨の中濡れながらイーガンはビィトに語り始めた。
「何処から話せばいいのか……」
※
イーガンが初めてキッスと会ったのは、というか見たのは、ある野宿に適した大きな河川敷だったという。
節約を兼ねて宿を取らずに野宿で済ませる者も、バスターの中には少なくない。それが戦士団として、何人かで組んでいるなら尚更だ。
ただ、その時はイーガンは、彼等がバスターだとは想像もしなかったという。
確かにバスターズ・ジャケットは着ていたが、それはだらしなくはだけられ、薄汚れて、陽は完全に暮れていたが寝るにはまだ早い、という時間帯では、そこまで視認出来なかったのだ。
彼等は火も起こしていなかった。普通、魔除けの為にも野宿に焚き火は欠かせないものなのだが……。
イーガンが気付いたのも偶然だった。
「んむ……ん、く……!」
くぐもった声が聞こえた。
イーガン自身は、一人なので近くの町まで急いで宿を取ろうと思っていた。が、その声に足を止めた。どう聞いても合意の上とは思えない、苦しげな濡れた喘ぎ声。
――レイプだ。
そう思った途端、イーガンは土手を駆け下りていた。
「何をしている!?」
一斉に男達が振り向いた。達だ。三人もいる。
白い体を、獣のように這わせて背後から覆い被さっている男と、前に回って口を使わせている男。
一人だけ煙草をくゆらせてあぐら座で見物していた男が、立ち上がってイーガンを睨めつけた。
「てめえこそ誰だ。邪魔すんなよ」
「そうはいかない。集団で一人に暴行しているのを、見過ごす訳にはいかないからな」
イーガンが言うと、男達は声を揃えて下卑た笑い声を上げた。
「ひゃあっはっは、暴行だってよ、暴行!」
「あんた何か誤解してるぜ。俺たちゃ暴行なんざしてねえよ。これはれっきとした代償行為だよ」
「代償?」
イーガンはおうむ返しに繰り返した。
「そうさ。なあ、キッス?」
口を使っていた男がおのれを引き抜いて、ぐい、と顔をイーガンの方に向けさせた。
ここで初めて、イーガンはキッスと呼ばれたのが女性ではなく、小柄な少年だと気付いた。
「あんたもどうやらバスターのようだが……俺達もお仲間でな。デセプタ戦士団、という。キッスは戦士団の新入りさ。新入りには新入りの仕事がある。あんたもバスターなら知ってるだろ?」
「ああ……」
知っている、そういう話がある、という事は。
戦士団にとってはお荷物にしか過ぎない新入りを庇い、鍛える代わりに、夜の欲望の相手をさせる、という事は。
だが目の当たりにしたのは初めてだった。
イーガンも独立してやっていけるようになるまでは、ある戦士団に入って鍛えてもらった。夜は夜で、先輩達の武勇談を聞いたり、武器の手入れの仕方などを教えてもらったりしていた。いい戦士団だった。和気藹々とした。
きっとそれは、運が良かったのだろう。バスターといえば、魔物を狩って人間を守る、正義の面もあるにはあるが、大概はただの賞金稼ぎ……ならず者に毛が生えた程度にしか見られない。
強大な力を持っているだけに、守っている筈の人間から恐れられ、忌避されるバスターは、そうして更に心をすさませ、荒れた態度を取る。悪循環だ。そしてその鬱屈は、まだものの役に立たない、新入りのバスターに向けられる事が多い。
「さあ。わかったらもうあっちに行ってくれ。キッスだって、納得した上でうちの戦士団にいるんだからな。なあ!?」
「ううっ!」
男の一人はまだキッスの体内に埋め込んだままだった。突き上げを再開した男に、キッスは涙を流してこらえる。白い背中が痙攣していた。まだ、十歳を幾らも超えていないだろう。
子供だ。子供過ぎる。
思わずイーガンは飛びかかって、キッスに覆い被さっている男を殴り倒した。
>>>2010/5/30up