薫紫亭別館


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 キッスはベッドに横たわったまま、自室の天井を見上げていた。
 それくらいしかする事がなかった。後から後から、目から涙が溢れてくる。
 あの時、本当に、誰の事を言われているのかわからなかった。
 なのにグリニデはやめてくれなかった。
 やっとの事で思い出し、おびき出す囮を務めるよう強要され、責め苦から逃れたい一心で承諾した後も、グリニデはその手を止めようとはしなかった。
 これ以上上、いや下があるとは思わなかった。
 初めて貫かれた時と、その次と。
 あれを基準にすれば、多少手ひどく扱われたとしても耐えられた。あそこまでなら大丈夫、と、キッスは無意識に自分で我慢できるという線を心の中で引いていた。なのにグリニデは、あっさりその許容範囲を超えてしまった。薄く笑みまで浮かべながら。
 体は熱くてたまらないのに、それを見た瞬間、すっと心が冷えていくのがわかった。
 好きだ、と言った。愛している、とも言ってくれた。
 魔人にとっての口づけの意味を、キッスを膝に乗せて、子供に諭すように優しく教えてくれたグリニデは何処へ行ったんだろう。いつの頃からか愛撫も優しく、甘くなって、抱かれるのも最近は苦じゃなかった。なのに。
「………っ」
 違う。あれが本性だ。
 きつく目を閉じ、キッスは奥歯を噛みしめた。
 魔人は人間を苦しめる為に存在する。用がある時だけ重用し、使い捨てにする、あれこそグリニデの本性だ。
 そんな事はわかっていたつもりだった。それなのに涙が止まらない。
 たとえ無理やり、力づくで始まった関係だとしても、何度も一緒に夜を過ごして、通じ合うものも少しは出来たと思ったのに。ひどく傷つけられて、思うように動かせない体がそんなものは錯覚だった、と教えてくれる。
 それでも今までは、グリニデはキッスが嫌がればそれ以上踏み込もうとはせず、キッスの意思を尊重してくれた。グリニデはキッスを戮殺や村の破壊には関わらせず、キッスはただ、遺跡の発掘や調査に励んでいれば良かった。だけど今回は違う。
 キッスの意思を曲げて、友人を陥れる手伝いをしろと言う。
「とどめを刺せとは言わんよ。呼び寄せて、一人になるよう仕向けるだけでいい。どうせ大した交友ではなかったのだろう? 君は私に忠誠を誓った。覚えているな?」
 もちろん覚えている。両足を肩に抱えあげられ、深く深く突き入れられた。
 今回もリングを装着されたまま、同じようにして再度忠誠を誓わされ、その証として協力を求めた。
 あの時の自分には、グリニデの望む返事をするだけで精一杯だった。
 一夜明けて、頭が冷えて、自分がとんでもない約束をしてしまったのに気付いたが、後の祭りだった。
 ……ビィト。
 どうしよう。懐かしい、大好きなビィト。グリニデが邪推するような気持ちではなく、本当に大切な。
 大切過ぎて、心の一番奥の引き出しに仕舞った。忘れたまま、殺されていれば良かった。
 そうすれば、二度と会わなければ、ビィトもそんな奴もいたなー、と、いつか思い出す事もあるかもしれない。それでいい。こんな環境に落ちた自分を、知られたくない。
 キッスはなんとか事態を回避出来ないかと頭を巡らせた。
 グリニデを刺激せず、ビィトにも近寄らない方法。どんなに頭を捻っても、そんな都合のいい考えは浮いてこない。ビィトは随分とグリニデのプライドを傷つけたようで、その怒りはダンゴールとキッスの体で多少治まったとしても、消えるものではなかったらしい。
「……助けて……」
 勝手に口から零れていた。ビィトでも、グリニデでもなく、いないかもしれない神様に。
 まずい。思い直して口を覆う。これくらいの弱音でも、今は監視の目が厳しい。グリニデに知られたら、また、どんな目に合わされるか……! キッスはシーツを頭から被って嗚咽した。
 何の名案も浮かばないまま、時間だけが過ぎてゆく。
 聞き覚えのある足音がキッスの耳に届いた。体をすくませて、様子を窺う。その足音はキッスの部屋の前で止まると、ガチャリとドアを開けて入ってきた。
「いつまで寝ている気だね? キッス君」」
 やはり。キッスは絶望した。魔人グリニデ。
 グリニデはつかつかとキッスのベッドに歩み寄ると、キッスが被っていたシーツを引き剥がした。
「君には仕事があるだろう? ビィトをおびき寄せる囮になる、という仕事が」
「お、許しを……! まだ、体が……」
 一応手当てはされているが、体がまだ言う事を聞かない。本来なら、一週間以上かかる傷だ。下腹部が滅茶苦茶になっている。再生虫がフル回転しているのがわかる。追加の卵も飲まされたが、それもいつまで保つことか。
 キッスの為に成虫もまた畑から取り出された筈だが、意識を失っていた間の事なのでキッスは覚えていない。それを知っていてグリニデは、キッスの後ろに無慈悲に指を潜り込ませた。キッスは叫んだ。
「ああああっ!!」
「ふむ。緩いな……」
 凄まじくブラックにグリニデは言った。なるほど、全快はしてないようだな、と続ける。
「い、た……痛、痛い……っ!」
「君を生かすも殺すも、私次第という事は熟知しているな? キッス君」
 指を蠢かせながらグリニデは問うた。キッスは必死で頷いた。
「君が忠誠を誓い、私に従い続ける限り、私は君を重用する。それは以前にも言った筈だ。助けなら、私に求めたまえ。君を傷つける事も、助ける事が出来るのも私だけだ。わからないならもう一度、この場でその体に叩き込んでやるが」
 グリニデがベッドに膝を乗り上げた。そのまま上に被さって来ようとするのを、無我夢中で懇願してキッスは止めた。
「わかっています! 誓います……閣下だけです! だからやめて、お願い……!!」
 この体に受け入れたら、今度こそ自分は死んでしまう。
 忘れたまま殺されていれば良かったと思ったばかりなのに、いざ、そうされるとなると体が震える。
 自分の情けなさに涙が出た。
 が、グリニデはその涙をどう取ったのか、キッスを苛んでいた指を引き抜き、
「!」
 ――唇を落とした。
 口の中が溢れるほど流し込まれる唾液を、零さないようキッスは飲み下した。触れられている箇所が、じわりと熱を帯びてくる。こんなにされても、体はグリニデを求めている。まるで情熱的な恋人同士のようにキッスはグリニデと激しく唇を貪り合った。
 長い口づけと抱擁の後、キッスの目を覗き込みながらグリニデは言った。
「いい子だ……私も君だけだ、キッス君。愛している。だから私から離れるな。私を裏切るな。絶対」
 こく、とキッスは頷いた。
 グリニデはキッスに警告した。
「妙な希望は持たない事だ。この、黒の地平の魔物すべてが君の監視役だ。自決しようとて、君の中の再生虫が君を殺さない。私専用の穴として、飼殺しにしてくれる。忘れるな。君の生殺与奪の権は、私が握っているのだ」
 言い捨てて、グリニデはキッスの部屋から出て行った。
 キッスはまた、一人で残された。
 左手の腕輪が重みを増したような気がする。もうとっくに慣れてしまって、普段は重みを感じない腕輪。
 多分……。
 グリニデが自分を愛しているというのは本当だ。
 それが人間の、キッスの思う愛とは齟齬があったとしても。
 どこに地雷が潜んでいるかわからない癇性なグリニデだが、裏を返せば、それだけ繊細とも言える。この腕輪も、信頼している相手に裏切られない為に付けたものだろう。キッスやベンチュラのような捕まり組にとっては、迷惑極まりない話だが。
 以前、好きかと聞かれた。自分は言葉を濁して答えなかった。
 命を握られている相手に、愛しているだの対等のパートナーだの囁かれても、嘘寒いだけだ。
 だが、嫌いではない。憎んでもいない。
 一年以上一緒にいたのだ。負の感情は、持ち続けるのが難しい。
 それよりは、と前向きになる事に拠って、キッスは今の立場を確立した。
 キッスは息を吐いた。助け……か。あのつぶやきは、早速グリニデの耳に入ったのか、と思う。
 グリニデは自分を手放すまい。
 離れる時は、イコール自分の死、だ。それなら、仕方ないのだろうか?
「………」
 大丈夫。昔の親友でも、自分は殺せる。
 キッスは腕輪を上から掴みしめた。もう既に何人も、自分の為に殺されている。自分がふらふらと見物にいったせいで、滅ぼしてしまった村もある。多少犠牲が増えた所で、罪は同じだ。
 きっと、この時がターニングポイントだった。
 キッスを囮に使おうなどとせず、三魔人とグリニデだけでビィトを殺していれば、キッスはビィトの事など思い出しもせず、グリニデの忠実な部下としてそのまま仕えていただろう。
 それから数日して、キッスは完治とは程遠い体調で港町レドゥに向かった。
 決心を鈍らせない為に。

>>>2011/2/23up


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