薫紫亭別館


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 僕たち人間にあてがわれた研究用の一室には、日増しに虫や魔物達が増えていった。
 蜘蛛はベンチュラの眷属だろうから当然として、蟻っぽいのやトカゲっぽいのや、ムカデっぽいのから蛾っぽいのまで。目立っていたのがブブブブ……と音を立てる大きな目玉のついた羽虫で、常時二、三匹は僕の周りをを飛び交っていた。ペンバリー、というのだとベンチュラが教えてくれた。ベンチュラはどことなく怒っているように見えた。変なの。種類が増えたからといって、僕はベンチュラや蜘蛛をないがしろにしたつもりはなかったのだけど。
 時には僕はペンバリーを肩に乗せたまま、見られながら勉強する事もあった。正気じゃないって素晴らしい。いやこれは冗談ではなく。博士達がいる時は全然姿を見せないから、こんなに沢山の虫に囲まれて、しかも無傷でいられたのは多分僕だけだったろう。
 無害そうに見えてもこの虫達はまぎれもなく黒の地平の一員で、一匹一匹の力は弱くとも、これだけ集まれば僕一人くらい、簡単に屠ることが出来るだろう。もちろん僕には対抗手段……天撃も使えるけれど、敵意もなくただそこにいるだけの相手に奮うことはためらわれた。
 死の恐怖は確かに隣にあったけれど、僕はそれをどこか遠い所にあるもののように感じていた。
 見慣れてしまえば奇怪な異形の魔物達も虫も、そういうものだと受け止めることが出来たし、人間の美意識からは大きく外れているものの、彼等にはある共通の美しさがあった。すなわち、陽の差さないこの黒の地平では、彼等こそが主役で、人間こそはどこぞから迷い込んできた虫に過ぎない……と思わせるような。
 僕がそんな主客転倒な気分に陥りながら辞書を繰っていた時だった。
 ベンチュラに伴われて皆の留守中に、巨大なダンゴ虫の魔物が僕たち人間の部屋を訪れた。
「はじめまして、私はダンゴールといいます。キッス殿の噂は、そちらのベンチュラ殿からよく伺っております。何でも、大変な勉強家だとか」
「いえ、そんな」
 僕は椅子から立ち上がって、ダンゴールに頭を下げた。ダンゴ虫……プロテク虫という種類らしいが、言葉を話す魔物を見たのは僕はダンゴールが初めてだった。なら、彼が以前ベンチュラから聞いた、グリニデ様の執事だろう。魔人は身の周りの世話をさせるために、魔物に名前と力を与える事があるという。
「ご謙遜を。失礼ながら、城に来たばかりの頃は、正直それほど優秀には見えなかったと……我があるじがおっしゃっていました。それが今では古い文献を読みこなし、魔文字にも精通しておられるそうで。掘り出し物よとあるじも喜んでおられます。雑用をさせているのがもったいない……とも」
「えっ」
 僕は耳を疑った。そこまで僕を評価して下さっているとは思わなかったからだ。
「キッス殿さえよろしければ、他の博士達と同じように、遺跡調査を任せたいというのが我があるじの意向でございます。いかがでしょう、キッス殿。ご自分で、存分に調査をしたいとは思われませんか」
 僕は一も二もなくうなずいた。これでフィカス博士の役に立てる。
 ベンチュラがあちゃー、という顔をしたが、その時の僕にはわからなかった。
 ダンゴールはどこからか一枚の紙を取り出した。
「これが条件です。ある石板の文字を正確に写し取ったものです。この文字を解読するのが、キッス殿が自由に研究される為の交換条件……出来なければ、あなたはいつまでも雑用のままです」
 受け取って、僕はその紙を凝視した。
 なるほど、見た事のない文字列が並んでいる。だが妙な既視感もあった。僕にはこの謎が解ける筈だ、それも早晩。
「あ、そうそう……これはあなたの実力を知る為の試験でもありますから、他の博士達に助言を求めたり、助手達と相談するのもアウトです。合格するまでは、他の方々には内緒にしておいた方がよろしいかと……もし、滑っては恥ずかしいでしょうし」
「わかりました、お受けします」
 短く僕は答えた。ダンゴールの言葉をさえぎるように。


 僕はその写しを服のポケットに入れて、先に夕食の支度をする事にした。
 既視感を感じた、僕はそれを大事にしていた。そのインスピレーションが下りてくるまでは、下手に辞書や文献で調べたりしない方がいい。直感が狂うからだ。事務的に野菜を切ったり手を動かして、ただ頭の中は猛烈に回転していた。
「……オメー、料理なんかしてていいのかよ?」
 ベンチュラが言った。ベンチュラが台所にまで入ってきたのは初めてだ。
「うん……先に、雑用を済ませておこうと思ってね。これが僕の仕事なんだし」
 適当に野菜を放り込んだシチューを煮込む間に、僕は研究室の掃除をした。その時にも、他の資料や文字を目に入れないよう注意した。おざなりに床を掃いて、シチューの火を止めに行き、ええい、もう後は作り置きのピクルスか何か出すことにして、僕は研究室の椅子にどっかと腰かけた。
「キ……キッス?」
 様子を窺うようにベンチュラが呼んだ。
 僕は片手を顔の前で広げ、首を振って、黙って……というジェスチャーをした。
 目を閉じると、すうっと闇が降りてきた。そこにいるはずの、ベンチュラや虫達の気配も気にならなくなった。僕は背中を背もたれに預け、指を組み、あごを心持ち上向けて、提示された問題の文字列を思い返した。
 闇の中に、星のように文字列が光っていた。
 随分単純な線だ、と思った。
 まるで記号だ。いや違う。今まで学んできたのがピクトグラム……ややこしい絵文字だからそう見えるだけだ。あんな文字は簡略化されて当然だ。だからこれはもっと年代の新しいものだ。人間にだって旧字体があるではないか。さあ、考えろキッス。どの文字をどれにあてはめる? 石板に残っている位なら、書式だって似ている筈だ。文字こそ新しくしたかもしれないが、これが同じ民族なら、先達のスタイルを模倣したに違いないのだ。
 僕は学んだ全ての古代文字を脳裏に呼び起こした。
 検索開始。簡略化されているとはいえ、崩し文字ならどこか必ず以前の絵文字を踏襲している筈だ。
 まずは数字だ。記録には大抵、末尾に記した日付が記載されているものだ。年号というものがあるなら、その辺りはとりあえずオミットしておいて、年代だけを。
 頭の中に、文字で出来た星の群れが出来上がっていった。あれはひとつひとつが異なる文明の古代文字で、僕がぼんやり綺麗だなあと思っている間に爆発を起こしたように、またひとつひとつ消えていった。僕の脳に違う、と判断された文字だろう。
 僕の脳は僕の意識を置き去りにして、正しい答えを弾き出そうとしている。
 やがて、星の群れは片手で数えられる程の数を残して落ち着いた。
 これだけ残ったか……と、僕は人ごとのように考える。
 数字だけで判別出来ればそれが一番良かったのだが、さすがにそう甘くはいかないらしい。
 僕はもう一度、問題の文字列を吟味する。
 文字列を全体的に俯瞰して、ぱっと目が止まった所に意識を定める。一重の……丸だ。それからもうひとつ。あれは……鳥!?
 ――わかった!
 鳥は神だ。あの一重の丸は太陽だ。
 長い年月の間に、二重丸は更に簡略化されて、一重の丸になったらしい。これくらい略さなくても大して変わらないような気がするなあ……と、僕は内心で笑いながら、ただひとつ残った古代文字の星の群れと問題の文字列とを突き合わせる作業に入った。後の行程は簡単だった。多少の変化は見られたものの、想定内というか、これまでの情報の誤差の範囲内だった。
 僕は文字列の全てを古代文字に置換し、意味を取り、ここにはない文字列も、多分こうだろう……という見当をつけてから、ようやく目を見開いた。随分長くかかったような気がしていたけど、ベンチュラがまだ僕を覗き込んでいたので、そう時間は経っていないのだろう。ベンチュラも、何時間も僕の顔を眺めている程ヒマじゃないだろうし。
「ベンチュラ。ダンゴールとまだ連絡取れるかな?」
 僕は立ち上がって、伸びをしながら聞いた。背筋がパキパキになっていた。
「と、取れるけどよ……質問でもあるのか? 何か聞き忘れた事があったとか」
「なに言ってるの? 解読が終わったからさっさとダンゴールに報告に行きたいだけだよ。今から行けば、もしかしたら明日にもフィカス博士の調査隊に混ぜて貰えるかもしれないし。善は急げだよ、早く行こう、ベンチュラ」

>>>2010/4/8up


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