その日、夕食の時間になってもセネシオ博士は帰ってこなかった。
「……遅いな……」
フィカス博士はそう言って、僕のつくったシチューにろくろく手もつけず、部屋の中を歩き回っていた。
博士の二人の助手も、顔を見合わせて不安そうにしている。僕にはよくわからなかった。子供じゃあるまいし、大の男が二人も揃って、あ、セネシオ博士は助手を一人連れていたから――ちょっと帰りが遅くなったくらいで何だというのだ。心配性だな、と僕などは思っていた。
僕も気分は憂鬱だった。
あれから僕はベンチュラと連れ立ってダンゴールに報告に行ったのだが、最初は感心したようにふんふんとうなずきながら聞いてくれたダンゴールが、説明が進むに連れて、
疑わしそうな顔になっていったからだ。むう、やはりちゃんとレポートにまとめていかなったのが悪かったか。
ペンを借りて、ポケットに入れたままだった写しにその場で照応する古代文字を書き入れて、魔文字で読み仮名と、現代語訳まで振ってあげたのだが。
「……判断はグリニデ様がなされるでしょう。それまでは、今しばらく黙秘してお待ちください」
そう言われて、僕はそっけなく返された。
魔人はケチだ。いや、ダンゴールは魔物だけれど。しかも執事。
「まさか、セネシオが、先に……いや、そんな筈はない。研究は私の方が遅れていた筈だ……!」
フィカス博士が無意識につぶやくのが聞こえる。
先に、って何だろう。研究はフィカス博士よりセネシオ博士の方が一歩リードしてたって事だろうか。
……矛盾はしてないようだけど。フィカス博士も自覚してるみたいだけど、なんで疑問形なんだろう。
空気が重い。僕はこの雰囲気を払拭すべく、ひとつの提案をした。
「あの、そこまでご心配なのでしたら、誰かに事情を聞いてみたらいかがでしょう。そうだ、ダンゴールなんか、グリニデ様の執事ですから、色々知っていると思いますが……」
皆が、ぎょっとした目で一斉に僕を見た。そんなに変なこと言ったかな?
「き、君は……ダンゴールを知っているのかね」
「あ、はい。今日、会ったばかりですが。皆さんが留守の間に、この部屋に見えられたんですよ。その後、僕からも訪ねて行きましたが……いけない。いきなり押しかけていって尋ねるのも迷惑ですよね。やっぱりアポイントを取らなきゃ駄目かな。昼間はベンチュラがいたから……」
僕はフィカス博士の問いに答えながら、歩いていって廊下に通ずるドアを開けた。
部屋を一歩出るとそこは魔物と虫の治外法権で、だから僕ら人間達は、調査に出掛ける以外ほとんどこの部屋から出る事はなかった。僕も例外ではなかったけれど、まさに今日、この廊下を通ってダンゴールに会いに行ったし、魔物なんかもう見慣れちゃってるし。
僕は目指す魔物を見つけた。一匹の蜘蛛を、近付いていってひょいと抱き上げる。
「えーと、君……は、話せないんだっけ? それとも魔物同士なら、通じるのかな……まあいいや。ちょっと待ってて。今すぐ伝言をしたためるから」
蜘蛛が僕の頭の上に乗ろうとするのに任せたまま、僕は、部屋に戻ってペンを取った。手近なメモの裏に、魔文字を走らせる。その書き付けを細長く折って、僕は蜘蛛の足にそれを結び付けようとした。
「こら。逃げるな」
僕の手を避けて逃げ出そうとする蜘蛛を無理やり押さえ込む。お願いだからじっとしててよ、と、僕は蜘蛛と悪戦苦闘していたのだが、
「君は……魔物と通じているのか?」
「え?」
僕は顔を上げた。フィカス博士とその助手達が、驚愕の表情をして僕を見ていた。
――これは、当時の僕の頭のネジが二、三本まとめて抜けていたと馬鹿にされても仕方ないのだが、博士が驚くのも当然だろう。僕が捕まえている蜘蛛はトリュプスといって、実は延髄を貫通させるほどの針を持っているのだった。僕はそれを平気で首にかきつかせていたし、あまつさえ足を引っ張って、引き摺り下ろしさえしてしまった。
何より皆を驚かせたのは、そんな事をされても蜘蛛は反撃せずに、大人しく僕にされるまま……という訳でもないが、腕の力だけでも押さえられるくらいの抵抗しか示していない事だった。
僕自身は、その蜘蛛の能力を知らなかった訳じゃないけど、ベンチュラの眷属なら大丈夫だろー、という程度の感慨しかなかった。しかし、魔物を素手で捕まえて、更にメッセンジャーとして使おうとしている僕を見て、他の皆が、猜疑心を抱いたとしても仕方ない。
「あ、あの、何か誤解されてるみたいですが……」
蜘蛛を離して僕は皆を見回した。
なんとなく覚えのある目つき。あまり質の良くないバスターに対するような、疑いと、侮蔑と、多少の恐れが入り混じった表情。いや、それより悪い。これは、……嫌悪だ。
「うわっ!」
その時、ぽんと肩に手を置かれて、僕は文字通り飛び上がった。
ベンチュラがいつのまにか僕らの部屋までやって来ていて、僕の背後に立っていた。
「ベンチュラ」
「よーキッス。迎えに来たぜ」
変な話、僕はベンチュラを見て安心してしまった。
この状況を変えてくれるなら、正直誰でも良いという気分だったのだ。僕は馬鹿だ。
「どうしたの? 珍しいね、他の人がいる時に来るなんて」
「あー。まあな。部屋替えだってよ、キッス。今日、お前が解いた石板の写しがあったじゃん? お前の解読っぷりにグリニデ様はいたくご満悦らしくてな。褒美に個室をたまわるとよ」
「え。いいよ、ここで」
個室というなら、フィカス博士の方にこそ差し上げてほしい……僕はまだ若くて体力もあるけれど、年の割には鍛えているとはいえ、初老に差し掛かった年齢のフィカス博士には、床に直接寝るのは骨身にこたえる事だろう。それは薄い毛布の一枚くらいは、支給されていたが。
「それよりベンチュラ。セネシオ博士を知らない? まだ戻ってこないんだけど……」
僕は当初の問題に戻った。ここが発端だったからだ。
「知ってるぜ。あのジーサンなら、帰城してすぐに、グリニデ様に召し出されてたぜ」
「なんで?」
僕は無邪気に問い返した。
「だから、あの、写し。グリニデ様にもオメーの解読が合っているかどうか判別つかなかったらしくてな。あのジーサンに助言を求めたんだってよ」
「……合ってた!?」
「おお! 完璧だってよ。ジーサンは何か、認めたくなさそうな顔してたけどな」
セネシオ博士は僕に余り教えてくれなかったから、僕が解読したのだと聞いて、嫌な気分になったのかもしれない。でも、これでフィカス博士だけでなく、セネシオ博士の役にも立てるなら、もう少し仲良くなれるかもしれない。僕はベンチュラと、笑いながらばんばん背中を叩き合った。
「……写し……、解読……?」
どこか茫洋と、フィカス博士がベンチュラの言葉を繰り返した。
ベンチュラは博士に向き直って、
「そーそー! すっげえんだぜコイツ!! 指組んで目ェ閉じて、ちょーっと考えこんでたかと思うと、もう立ち上がってダンゴールに報告に行こう、だもんなー。まさかその日の内に解読して、ついでにそこに書いてない文字まで判明させるとは思わないじゃん? ぜってーフカシこいてると思ってたし。ダンゴールもかなり疑ってたぞ。今は感服してるらしいけどな」
やっぱり……、というか何というか。
それなりに自信があったので、僕はちょっと落ち込んだ。
「……き、君、君が………!!」
僕は首をかしげた。フィカス博士が、何だか凄い目をして僕を睨んでいた。
「あの……?」
「さー行こうぜキッス! 喜べ、グリニデ様からお許しが出たぞ。明日から遺跡発掘調査に行ってヨシだとさ。やったな、オメーも明日から博士様だぜ」
僕はベンチュラに肩を抱かれて、何だか羽交い締めにされてるみたいな格好で、僕は僕に新しく与えられた部屋に案内された。蜘蛛はちょろちょろと、僕らの後をついてきた。新しい部屋はこれまでとはちょっと段違いに立派な調度が揃っていて、広くて、僕は何だか落ち着かなかった。これだけ広ければ他の皆と、もう数人増えた所で全員余裕で足を伸ばして眠れそうだった。
僕はもそもそと、大きなベッドに潜り込んだ。
発掘作業に参加出来るのは嬉しかったけれど、僕の耳にはいつまでも、フィカス博士が吐き捨てるように言った最後の言葉が残っていた。君のせいで……! という、呪詛を含んだ言葉が。
>>>2010/4/9up