船はまたすべるようにすいと陸に戻り、そこは、もうお菓子の家の目の前だった。いや、もともとご近所につくってあるんだけどね。
ポップはえものを見つけた狼のように目をらんらんと輝かせて、ぎゅっとこぶしを握りしめてつぶやいた。
「ふっふっふっ。ついに辿りついたぞお菓子の家に。長い年月だった……子供のころ眠る前に母さんから聞いた話なんかきれーさっぱり忘れたけれど、お菓子の家だけは忘れたことはなかった。そしてお菓子の家は現実にそこにある。行くぞ、ダイ。いざ行かん、眼前の館へ」
うーん、芝居がかってるなあ。
オレは気合い充分のポップについてウエハースの門をぬけ、ゼリービーンズの玉石に足を踏みいれようとした。そのとき。
ぶーん。ぶーん。
「な、なんだあ!?」
頭上でものすごい音がした。
と、同時に、視界がかげった。
局地的にぶ厚い雲が発生したみたいだった。
「うわーっ、ハエだーっ!!」
ぶんぶんいうのはハエの羽音だったのだ。
ハエは今まさにお菓子の家にとりついて、おいしく食事を開始したところだった。
「ああっオレの家になんてことすんだっ。おいハエ、オレはおまえに食わせるためにお菓子の家をつくったんじゃないぞっ!!」
ハエは一匹じゃなく二匹で、一匹がお菓子の家で食事して、一匹がそのお食事タイムの邪魔はさせない、とでも言うかのようにオレ達を威嚇している。
「何してんだダイ、早くやっつけろよ!」
「やっつけろったって……」
ポップが怒鳴った。オレは躊躇した。
ハエのどアップというのは、見た者でないとその気色悪さはわかるまい。なにせオレ達の今の身長は、ハエとどっこいどっこいなのだ。
ま正面からハエを見据える。
ハエって複眼なんだよ……目がいっぱい集まってひとつの目を構成してるんだよっ。
その目の突起の奥の奥まではっきり見えちゃってさあ、尖った毛のはえた足が、すぐそこでいやらしくこすりあわされてるのなんて見ちゃうとさ、
「……オレ、パス。ポップやってよ」
くるりと背を向けてオレは言った。
「ああ!? なに言ってんだダイ。おまえがやらなきゃ誰がやるっていうんだ」
「だから、ポップでしょ」
ポップは自分でやろうとは、これっぽっちも思わないらしい。
オレは力なく言った。
「オレヤダよ。やるんならポップやって。オレは、お菓子の家が食べられても別にかまわないし」
当然のごとくポップは激昴した。
「あほかー!! なんのためにつくったと思ってんだ。ハエに食わせるためじゃないんだぞ! オレが自分のために、ついでにダイのために憧れのお菓子の家で酒池肉林(明らかな誤用)するためにつくったんだぞ! ハエになんか、クッキーのかけらたりともよこすわけにはいかんのだ!!」
「ついでにというのがひっかかるけど、気持ちは受け取っておくよ、ありがとう。戦うのがイヤなら、ハエにオレのぶんあげてよ」
そうすれば、八方丸くおさまるというものだ。
「絶対にいかーん!! もういい、ダイがやらないと言うならオレがやる! そのかわり、ダイにもお菓子やんないからな!」
「だからそう言ってんだって……」
頭痛をこらえてオレは言った。
他力本願男・ポップも、オレが頼りにならないと見極めるやいなや、オレを押しのけるようにしてハエと対峙し、雄々しく宣戦布告した。
「やいハエ! よくもオレ様のお菓子の家をつまみ食いしやがったな!! これつくんのにも金かかってんだからな、意外と菓子材料って高いんだから! それをタダでいただこうっていう、その根性、叩き直してやる!!」
「………」
かっこいいんだか悪いんだか。
背筋をのばして、びしっと宣言したところなんか、内容と、相手がハエでなければさすがは大魔道士と、誰もが感心する場面なんだが。
ぶーん。ぶーん。
「ああイライラするっ。とりあえずこれでもくらえっ!」
ポップはハエめがけて指先から火炎呪文をくりだした。
そのメラを素早い動きでハエはかわした。
「ああっしまった!!」
ポップが叫んだ。
ポップの放ったメラはハエの後ろにある、お菓子の家に命中してしまったのだ。ビスケットの焦げる、香ばしいいい匂いがした。
「この野郎、おまえがよけるから家に当たっちまったじゃねーか!! 今度はよけるなよ、メラー!」
そりゃムリな相談だって。
当たれば死ぬんだからハエも必死だ。
たてつづけにポップがくりだすメラを、器用に敏速によけている。
はずれたメラはことごとく後ろの家に当たって、どうせなら屋根の上にいるもう一匹に当たればいいものを、ワザワザ狙っているかのように、そこ以外の屋根や壁を穴だらけにしている。
「………」
もうあきらめたらいいのになー。
真剣にハエと格闘しているポップを見ながらオレはそう思った。
お菓子の家はポップのせいで半分壊れかかっているし、ハエのどアップのおかげで食欲もすでに失せている。
オレはこっそりあきれながら、内心ハエを応援してしまった。
「むかあ。いいかげんに往生しろやあ!!」
ポップが爆裂呪文を唱えようとするのを、オレはあわてて手をつかんで止めた。
「ポ、ポップ! いくらなんでも、ハエ相手にそんなおおげさな!
もういいじゃん、仲良く一緒に食べれば。ハエのここまでの粘りに免じて」
「よかあない! これは、もはやオレのプライドの問題だ。ハエごときに根負けしていては、大魔道士の沽券にかかわる」
「ハエと本気で戦うほうがどうかしてるよ! そのほうがよっぽど、大魔道士としての尊厳を損なってるよ!」
「ダイ、貴様、オレよりハエの肩を持つ気か!?」
「そういう意味じゃないってば!」
なにやら険悪なムードだった。
ハエとお菓子でケンカできるというのも、考えてみれば、もの悲しい関係かもしれない。
「だから、今日のところはいったん引いて、家ならまたつくれば
いいじゃない。材料費なら、オレが出してあげるから」
「ばっかやろう。こういうのは初めてだから価値があるんだ。同じ冒険をして何が楽しい」
「お菓子の家なら、何度来ても楽しいよ」
オレが心にもないことを言ってポップのご機嫌をとり結んでいるあいだに、ハエは二匹して舌鼓を打っていた。
早く食事して帰ってくれよう。
ポップを引き止めているのは大変なんだよ。
「とにかく! オレはやつらを殺す。オレのお菓子に手を出したヤツは、なんぴとたりとも容赦せん」
もう駄目だー。気圧されてオレは手を離した。
同時に、背後で異様な気配がした。
その気配には覚えがあった。
物陰にひそんで這いずり回っている、よく台所で見かけるある昆虫の気配だ。
「ポップ……」
振り返るのが恐ろしくて、オレはポップを呼んだ。
「なんだダイ! オレは忙しい……!!」
振り向きざまそう言ったポップの表情が凍った。
視線の先に何がいるのか、考えたくもない。
でっかい、オレ達よりよほど巨大な、全身が油でてらてら濡れ
光った、こげ茶色の……、
「ゴ、ゴキブリ──っ!?」
ポップが叫んだ。
聞きたくなかった。
>>>2001/7/18up