「な、なんだってゴキブリが……ハッ、ここは台所かっ。しまった、台所じゃなしに、店先でも寝室でも、とにかくちがう部屋にすりゃよかったんだっ」
どの部屋だっておんなじだろう。
見えないだけで、コイツはどこにでも隠れているのだ。
「そんなこと言ってる場合じゃないよ!」
ゴキブリはカサコソと、そのぬめった外見からは想像もつかないほど軽快にオレ達に近づいてくる。
オレ達、というより、オレ達の後ろにあるお菓子の家に、だろう。
ポップはそれを見てにやりと笑った。
「こいつまでオレのお菓子の家を狙ってきやがったか。ここにオレ達がいるのにいい度胸だ。おもしろい、まとめて返り討ちにしてくれるわ」
「ど──してそうなるんだよ──ッ!!」
ポップって意外と好戦的なんだよ。昔から、臆病なくせに跳ね上がっては、後始末をオレに押しつけていた。
それは困った性癖ではあったけれど、オレにとってはとても好ましく、可愛らしい部分でもあったのだ。
もっとも、最近のポップは、自分でハエと相対したことからもわかるとおり、やろうと思えば自分でできる。
そのせいか、ワガママに更に磨きがかかってきたようだ。
オレ達はハエとゴキブリにはさまれた格好になった。
オレはポップの袖をひっぱって、
「もう帰ろうよう。もういいじゃない。何が悲しくてハエやゴキブリのアップなんか見なきゃいけないんだよう。オレ、こんなのと戦うなんてヤダよ。だから帰ろうよ」
「泣き言を言うな、情けない。これより不気味なモンスターなんて、はいて捨てるほどいたろうがっ。いち、に、さんで攻撃するぞ。オレがゴキブリをやるから、ダイはハエを頼む」
半泣きのオレをポップは無情に一喝した。
「いーち、」
オレは仕方なくハエに向き直った。
「にーい、」
ゆっくりポップがカウントを数える。
「さ……」
ずしん、とこの世のものとも思われぬ地響きが、ポップの言葉をさえぎった。ぐらぐらと地面が揺れる。
オレ達は思わずよろめいて上を見上げた。
「ブ、ブッチャー!?」
地平線のかわりに庭をとりまいている壁の向こうに見えるのは、近所の野良猫・ブッチャーだった。
白に黒のぶちがあるからブッチャー。
名付け親は……言うまでもない。
「今度はブッチャーか! そこの窓から入りこんできたんだな。いつもならエサのひとつもやるとこだけど……おーいブッチャー、今取り込み中だから、出直してきてくれ!」
のんきにポップは呼ばわった。
が、それが却ってブッチャーの興味をひいてしまったらしく、ぶち猫は箱庭の壁に前脚をかけて、オレ達をのぞきこんだ。
「よ、ブッチャー。今日もいい毛並みだな」
言い終えるが早いか、
ずん! ブッチャーの前脚が降ってきた。
それは、タッチの差で逃げようとしていたゴキブリをつかまえていた。
「おー。手伝ってくれるのかブッチャー?」
ぜったいソレ違うと思う。
と、オレは思ったがポップは上機嫌で、
「じゃ、オレはハエを……」
そんなもん、とっくに飛んでいなくなっていた。
この大きさで見るブッチャーは、ドラゴンやヒドラなみに巨体に見えた。ぎしぎしと耳ざわりな音が聞こえる。
ぎしぎしいうのは、ブッチャーの体重に壁が耐えきれないからだった。
「頑張れブッチャー! やれいけそれゆけ」
ポップはこぶしを降りあげて応援している。
しかしオレは、毛むくじゃらの巨大な柱みたいな脚に、ゴキブリがつつき回されるたびに、あんなメに合うのだけは絶対にごめんだと思った。
「ポップ。それより、自分がつつかれちゃうことを心配したほうがいいんじゃない!? ゴキブリには悪いけど、ゴキブリがつつかれているあいだに出入り口に戻ろうよ」
「だってブッチャーじゃないか。よく裏庭で残りものやったり、今みたいに台所まで入ってきてエサを要求したり勝手に食い散らかしてったり、そのせいか丸々と太って健康そうだよな。名前つけたのもオレだし、いわばオレ達は、半分ブッチャーの飼い主みたいなモンだろ。いくらちいさくなってたって、飼い主ということくらいわかるさ。猫の臭覚って、人間より鋭いんだから」
ポップはああ言ったけど、オレは安心なんか出来なかった。
その猫を抱きあげようとして、毎回ひっかき傷だらけになってるのは、どこのどいつなんだ。
そのときポップの態度が一変した。
「こらあブッチャー! なんてことすんだっ。ゴキブリはいくらつついても構わないが、お菓子の家に手ェ出すんじゃねえッ!!」
勢いあまったブッチャーの脚が、お菓子の家に突っ込んだのだ。
哀れお菓子の家は(それ以前にポップが半壊させていたとしても)粉々になり、もうどこが壁やら屋根やらわからなくなってしまった。
ブッチャーはくるりとこうべを巡らして、標的を変えた。
オレ達へと。
「わーっブッチャー、オレ達だって! よくエサやってるだろ。おまえが野良猫のくせしてそんなに太ってられるのは、オレ達のおかげでもあるんだぞ。だからこっち来んなって!」
悲鳴をあげて、オレはポップの手をつかんで走りだした。
「こらダイ、離せッ! お菓子の家のかたきだ、何としてもブッチャーに、一矢報いてやらなきゃ気がすまないッ!!」
「命とお菓子とどっちが大切なんだよ!?」
ブッチャーは今まさに、壁をまたいで箱の中に入ってこようとしていた。ブッチャーの大きさは変わらないから、こんな三十センチ四方の箱なんて、きっとすぐに潰されてしまう。
そうしたら、食い殺されるか圧死するか、どつき殺されるかの違いだけで、たいして運命は変わらないかもしれない。
「ポポポポップ! どうしてブッチャーはちいさくならないんだよっ!」
走りながらオレは聞いた。
「あのドアを抜けたんじゃないからだ。ちいさくなる呪文も言ってないしな」
「それって、ドアを抜けるまで、オレ達も大きくなれないってこと!?」
ドアはお菓子の家の対面にあった。
そこに辿りつかなければ、オレ達は永久に箱庭のオプションになってしまうかもしれない。
「メラ!」
オレはブッチャーに火炎呪文を投げつけた。
忘れられてるかもしれないが、オレだって初歩の魔法くらい使えるのだ。
「痛ッ!!」
いきなりポップがオレの頭をはたいた。
「なにすんだよお!」
「なにすんだ、じゃない。可哀相じゃないか、ブッチャーが。見ろ、あんなに痛がってる」
さっき言ってたことと矛盾してないか?
ブッチャーは脚の現実先がちょっとコゲただけで、大したやけどでもなさそうだった。
それにしても、オレの頭をはたくのは良くて、ブッチャーの毛先がコゲるのはダメなんだろうか!?
ポップの言動に整合性を求めてはいけないのはわかってるけど、どうも釈然としない気分だった。
ブルーなオレに、さらに追い打ちをかけるようなことが目の前で起こった。
目の前で、オレのつくった林がブッチャーの脚になぎ倒されたのだ。べきべきめりめりという、木の幹のねじれて折れる音が聞こえる。
オレは耳をふさぎたくなった。
が、片手はポップの手をつかんでいるのでそれも出来なかった。
(くう……っ!!)
お菓子の家を壊されたポップの気持ちがようやくわかったような気がする。オレはあの林が好きだった。
自分でつくったということを差し引いても、心の底からくつろげる、まれな空間だったのだ。
ポップほど不満は無かったにせよ、オレとて絶海の南海の孤島で育ったんだし、せわしい町中の生活よりは、はだしで野山を駆けまわるほうがいいに決まっている。
残念ながら海はなかったけれど、木の種類も空気の匂いもまるで違っていたけれど、どこか故郷に帰ってきたような親しみを、オレはあの林に対して覚えていた。
オレはぴたっと走るをヤメた。
ポップのほうが驚いて、そっとオレの様子を伺っている。
「ダ、ダイ?」
オレは腹の底から響くような笑い声を出した。
「……ふふふ……ポップ、お菓子の家のかたきを取りたがってたよね? 手伝ってあげるよ。オレにとってもブッチャーは、林のかたきでもあることだし」
「ダ、ダイっ、どうしたんだ!?」
あまりにもぶったまげたらしいポップが叫んだ。
ポップにしてみれば、オレンジだと思っていたものが爆発したくらいのショックだったかもしれない。
それくらい、日頃のオレは品行方正で、平和な日常を愛する平凡な一庶民だったのだ。
「覚悟しな、ブッチャー!!」
オレは飛翔呪文を唱えて舞い上がった。
>>>2001/7/25up