薫紫亭別館


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 逃げるようにパプニカに戻って、数日が過ぎた。
 パプニカにいても、平穏な日々とはいえなかった。
 オレを取り巻く人々の内心を、テルはことごとく吐露してみせた。おかげでオレは、召使いのニナやマーシャや、一番信頼を寄せていた教育係のデリンジャーや、大好きなレオナさえ、完全には信じられなくなった。
 本当に皆は、オレのことを敬して扱ってくれているのだろうか? 口でオレをおだて、へつらいながら内心では、オレを馬鹿にしているのではないか?
 テルはそんなことばかりを伝えてくる。
 そうして、夜は夜で、夢となってテルはポップとアバン先生の関係を、事細かに再現してみせた。
 ポップはどこをどうされるのが好きとか、あのときのクセとか、ほくろの位置さえ、まるでオレがアバン先生になり代わったように、真に迫って感じられた。気が狂いそうだった。
(やめろ。やめてくれ──テル。もういい)
 夢の中でオレは言った。
(よくはない。君はまだまだ知らねばならない。私がこうして夢を見せているのも、本当は君自身が知りたいと望んでいるからだ。君は見たくないと言いつつ、真実を欲しているのだ。だから私はそれに答える……君が何を言おうとも)
 一歩もひく様子はなく、力強くテルは答えた。
 そうなのか?
 オレは本当にそう望んでいるのか?
 そうだとしても、もう充分だ──いや、
 沢山だ。
 どこかで誰かの絶叫する声が聞こえた。
 それが自分の発した悲鳴だと知ったのは、冷たい汗にまみれて、暗闇で目を覚ましたときだった。


「……最近おかしいわよダイ君。大丈夫?」
 そう、レオナが言うのも無理からぬことだった。
 オレだって、ヘンに思われるのは承知で、自分の部屋に閉じこもっているのだ。夢で憔悴し、過敏になった神経には、誰とも会わずに孤高を保っているのが一番だった。そうすれば、少なくとも、テルが伝える人の内心の声とは無縁でいられる。
 仮病を使ってシーツにくるまっているオレを、花束を持ったレオナが見舞いに来た。さすがにレオナにだけは、会いたくないとは言えなかった。
「うん……ちょっと、夢見が悪くて」
 オレは腫れぼったい目をこすりながら答えた。どんな夢かは話さなかった。言えたことではない。
 レオナは首をかしげた。
 テルが伝えるまでもなく、レオナが不満と、疑惑の念をいだいているのがわかった。もちろんその中には、心配と、いたわりの心も含まれているのだろうけど。
(騙されてはいけない。彼女は、君の心配などしていない。こうして見舞いに来ることで、彼女は優しい、慈悲深い女を演じているのだ。その証拠に、見たまえ)
 レオナはそれで納得したのか、いや、してなかったに違いないのだが、にこりと笑うと手ずから花瓶に花をいけはじめた。
(本当に心配しているというなら、もっと執拗に理由を言及して当然だろう。ところが、彼女はそうはしなかった。臥せっている君の前で、彼女はこれ見よがしに花などいけている。あれこそ、自分を演出している証拠だ。見舞いという名目で、彼女は自分に酔っているのだ)
 万事この調子で、テルはオレに疑念を吹きこみ続けたから、オレが多少、精神の安定を欠いていたとしても致仕方ないだろう。
 オレは寝台から飛び出し、けもののようなおめき声を放ちながら、レオナが花をいけたばかりの、高価な青磁の花瓶をテーブルからはたき落とした。
 びっくりしたレオナが何か言おうと声をあげかけるのを、その前に、彼女を部屋から追い出した。
 ばたんと扉を閉めて、ひとりきりで荒く息を吐きながら、床に散らばった花瓶の破片を見てオレは物悲しくなった。
 どうして。
 どうしてこんな事に。
 鍵をかけ、扉にもたれかかるようにしてうずくまり、オレは両手で顔をおおった。
 レオナがテルの言うような少女ではないことは、自分が一番よく知っているはずだった──そう、つい半月ほど前までは。
 半月前なら、オレはレオナの心遣いに感謝し、素直に疑うことなく日々を過ごせただろうに。それ以前に、こうして病気を装うことも無かったはずだ。オレはエイクの忠告を思い返し、なぜ箱を開けてしまったのかと後悔した。
 テルはもう分離できない。
 オレは一生テルと、つきあっていかねばならないのだ。
 そう思ったとたん、ナイフでえぐられたような痛みが心臓を走った。
 オレは胸を手で押さえ、叫んだ。
「テ……テル!?」
(──気をつけたまえ、ダイ。私と離れたいなどとは夢さら思ってはいけない。死ぬことでしか、私達は分離できないと言ったろう。君がそう思うことは、慢性的に自殺への道を歩んでいるようなものなのだ。君が今の状態を嫌っているのはわかっているが、いずれ私に感謝するようになる……君はいずれ、パプニカの女王と結婚して、その手助けをする存在になるはずだからね。そのときには、私は君の役に立てると思うよ。政治的にも外交的にも。相手の真意がわかっていれば、ものごとを有利に進められるからね)
 自信に満ちてテルは言い切った。
 またしても、オレは──テルの口車にのせられて、そうかもしれない…電脳などと思ってしまった。
 すると痛みは嘘のようにひいた。
「テル」
(それでいい──私は、私と君とは運命共同体となったのだ。ともに生き、ともに命運をわかちあい、力尽きたときにはともに滅びる。不思議な巡り合わせだが、君がその星のとびらを開いたのだ。本来、私は君ではなく君の友人に手渡されるはずだった。しかし私は君に手渡され、君が箱の蓋をひらいた、あのときから……私達は、一蓮托生だ。君の心臓が止まるとき、私の鼓動も絶える)
 ふと、オレは、自分が老い、立ち上がる力もなくなって、寝台に横たわり、ゆるやかに、心臓がことん、ことんと脈打っているのを聞いたような気がした。
 ことん……ことん……やがて、音は差がひらくばかりになり、もう何も見ていない目の裏には、虚無の淵が広がっている。
 同じ暗黒の道を、一緒に歩くものがある。
 歩く……というか、オレはそれを大事そうに手にささげ持ち、生きていた長い時間と変わらぬ無駄口を叩きながら、次の無へと歩いてゆく……。
 そこまで想像して、オレは失神した。

>>>2002/11/3up


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