「……天空の精霊、四季の守護者なる御方々に謹んで敬い申す。いっとき、この雪雲を払いて、蒼天を我が頭上に来たらしめんことを……」
翌日の早朝。夜中じゅう振り続けた雪は、今朝もちらちらと舞っている。
ポップはラカン伯爵邸の前庭に魔法陣をえがいて呪文を唱えていた。
ダイはジャマにならないように、離れた位置から見ている。
大魔道士にまでなったポップに、サポートなど必要ないからだ。
呪文もよく聞こえなかったが、ダイと同じく少し離れたところに立っていたラカン伯爵は、子供のように無邪気に目を輝かせて、この光景に見入っている。
「──ラナリューズ!」
天候系呪文ラナの発展形……雲間を晴らす最後の呪文を唱え終わると、ぱっと魔法陣から緑の光の帯が立ちのぼって、天に射しこんだそこから青い空が覗いた。
伯爵はわっと歓声をあげた。
「いやあお見事でした……いや、さすがに。大魔道士と呼ばれるだけのことはありますな。失礼、この目でその魔法力の一端をかいま見て、少々興奮しておるのです。こんな大掛かりな呪文を、涼しい顔でやり遂げてしまわれるとは……」
伯爵の顔には明らかな称賛と賛美が刻まれていた。
疑っていたわけではないのだろうが、実際に見てその実力に驚嘆したのだろう。
興奮冷めやらぬ様子で伯爵はポップに握手を求めた。
ポップは握手に応じながら、
「大したことではありません。それより、伯爵」
「ああ、謝礼のことでしたら部屋に戻って」
「誓います。なぜ今日を、晴れにしなくてはならなかったのですか?」
「………」
それはダイも知りたい疑問だったので、そっと雪を踏んでダイはポップの横に並んだ。
伯爵は、人生を重ねた老人だけが持つ、特有の優しい微笑を浮かべ、
「大魔道士様……冬のこんな小春日和の青空を、ベンガーナの一地方では何というか知っていますかな?」
質問とはぜんぜん関係のないことを言った。
ふたりがふるふるとく美を振ると、
「老婦人の夏……というのです。どんな由来か、何故そう呼ぶのかは忘れましたが……いい言葉ですよね? せつないほどに」
仰向いたラカン伯爵の目には、少しずつ広がっていこうとしている、染みるような青が映っていた。
※
「このまま帰るつもりはないんでしょ? ポップ」
小声でダイがささやく。
「あたりまえだ。このまま店に帰れるか。オレは、どうもこういうすっきりせん終わり方がキライなんだっ。咽喉に小骨がささってるみたいでイライラする。あ、馬車が出てきたぞ。つけるぞ、ダイ」
「了解」
ラカン伯爵邸の門を、ふたりは隠れて様子を伺っていた。高級住宅街はこういうとき便利だ。
道は広かったし、見通しも良かったが、高級だけあって道の両脇には大きなマロニエの木が植えられている。屋敷は、そこから奥まった場所に建っているのだ。
隠れる場所はいくらでもあったし、雪が積もったままなのも好都合だった。
馬車が見えなくなっも、雪に刻まれたわだちで跡を辿ることができるのだ。
飛翔呪文でつけるのはやめておいた。
伯爵が、いつ空を見上げていないとも限らないからだ。
「謝礼を払えばいいってもんじゃねーんだぞ。ナメんなよ、ラカン伯爵。大魔道士に魔法使わせといて、はい、さよーならですむと思ってンのか」
「でもオレも楽しかったけどね。ポップが本格的な魔法使ってるの見るのって久しぶりだったし。オレ、ポップが呪文唱えてる姿って好きだな」
「………」
不意打ちの告白に、ポップは真っ赤になる。
「あ……あほかっ。ンなこと言ってる場合かっ。とっとと行くぞ、見失っちまう」
わだちがあるから大丈夫なのだが、ダイはそれには気づかないふりをして、うなずいた。
馬車はとろとろと走り、やがて、ある屋敷の前で停車した。
ラカン伯爵邸より少しちいさいが、立派なベンガーナ貴族の館だ。
馬車から伯爵が降りてきた。手に、大きな水仙の花束を持っている。
家令に命じて館の門を叩かせると、舞っていたらしい黒衣の老婦人が現れた。
老婦人も水仙の花束を持っている。
「デートかな……それにしちゃヘンだけど」
ポップがつぶやく。ダイも同意する。
「うん。男が女性に花を持ってくるのは普通だけど、女性も同じものを持ってくるのはおかしいよね」
伯爵は老婦人の手をとって馬車に乗せ、ゆっくりとまた馬車は動きだした。
街とは正反対の方向へ進んでいるようである。
ポップは、この先に何があったか思い出した。
「アッピア共同墓地だ……」
ポップの店のあるベンガーナはアッピアシティの住民は、死ぬとここに葬られる。
墓地は充分な広さがあって、ここでも庶民と上流階級は明確に区分されている。
伯爵達が向かったのは上流階級地区だった。
そこは高台にあり、遠くのアッピアシティを一望のもとに見渡せる。
青空に雪化粧された町が映えてきれいだった。
ラカン伯爵と老婦人は、そのいっとう眺めのいい場所にあるひとつの墓の前で立ち止まった。
「エドガー……」
それが、埋葬されている人物の名前らしかった。
老婦人と伯爵はうやうやしく雪の上に膝をつき、持ってきた花束を供えた。黙祷。
「……お墓参りだったんだね。伯爵は、雪の降る日に御婦人を連れ出したくなかったんだよ」
「そうだな……オレ達が考えてたような、下世話な理由じゃなかったんだ」
背後の墓石の影に隠れて、それを見ていた二人はこっそりとささやきあった。
「きっとあのお墓は、あの婦人の旦那さんか何かなんだよ。伯爵とは友人同士だったんだ。それで、二人で夫と親友の命日の日に、一緒にお参りに来ることにしたんだ」
「ああ……オレもそう思うよ、ダイ」
後ろ姿ではあったが、老婦人は上品で優雅な物腰と、雰囲気を持っているのがわかった。
黒い長いドレスとケープ。
頭にも、黒いレエスのベールをたらした帽子をかぶっている。
ベールにさえぎられて顔はよく見えない。
「老婦人の夏……か。伯爵はこの婦人のことを思い起こしながら、あんなことを言ったんだな……」
ポップが、ついしんみりした瞬間だった。
「ホーホホホ!」
ついぞ聞いたこともないような高笑いがした。
見ると、老婦人が今さっき供えたばかりの水仙の花束を、爪先で踏みにじっている。
履いているのは、高さ十センチはあろうかというピンヒールだ。
しかも、赤い。
「な、なんだなんだあ!?」
>>>2002/3/15up