ダイは南の庭園の、いちばん高い木の下を選んだ。
普通これだけ高いと、庭の調和を乱すとか言って伐られそうなものだが、庭師のスミスじいが頑迷に反対して残したらしい。スミスじいの慧眼にオレは関心する。
木の下は小高い丘風になっていて、いつでも涼しい木陰と、心地よい風が吹き抜けている。蓋付きのバスケットに詰めてもらったティーセットをままごとのように広げて、お昼兼三時のおやつをオレ達は楽しみ始めた。
「あ、うまい。さすがチェスタトン。おいダイ、もっと食えよ。全部食っちまうぞ」
オレが言うとダイはにっこり笑って、
「いいよ、オレの分まで食べちゃっても。オレは一切れあれば充分だから。……ポップって、甘いもの好きだよね。男のくせに」
「やかましい」
言いながら、オレは遠慮せず二個目のタルトに手を伸ばした。
あらかたバスケットの中身が片付いてしまうと、オレは満足して大の字に寝転んだ。
「うー満腹。もう動きたくない気分」
その横で、ダイが手際よく後を片している。
終わるとダイはオレの横に座って、かがみこんだ。
「……いい匂いがする」
ダイは鼻をふんふんさせながらつぶやいた。
「ああ? タルトの匂いじゃねーか?」
「違うと思う。……だって、昨日から思ってたんだもん。ううん、おとついからかな。ちょっと恥ずかしいけれど、ポップに縋って泣いてたときから思ってたんだ。なんか、すごいいい匂いだなあって」
「おまえ、泣きながらそんなこと思ってたのか」
オレはちょっと呆れて言った。
「ごめん。……でも、ポップは感じないの? 自分の体から、こんなにいい匂いがしてるのに」
ダイは心底ふしぎそうに首を傾げた。
「おまえ以外誰もそんなこと言わないぞ。鼻曲がってンじゃねーのか、ダイ?」
そう言うと、ダイはぷっとふくれっつらをして、顔を背けた。それがいかにも子供子供して可愛かったので、オレは苦笑しながら謝った。
「悪かったよ、ダイ。ごめん。おまえがそう思うんならそうなんだろうさ。……しかし、一体どんな匂いだ? フロ入ったら取れるかな?」
「そんなんじゃなくてね、なんか、すごい懐かしいような匂いなんだ。洗ったからって取れるような匂いじゃないよ、多分。それに、オレ、ポップの汗の匂いって好きだな」
「……変態だよ、それじゃ」
オレも起き上がって座りなおして、ダイの顔を覗きこんだ。ダイは照れた様子もなく、静かにオレを見返してくる。却ってこっちがドギマギして、オレは慌てて話題を変えた。
「そ、そういやダイ。ど、どのへんまで勉強終わってるんだ? それを知らなきゃ授業計画も立てられないし。毎日、今日みたいに遊んでるわけにもいかないしな」
「うん。じゃあ、歴史はね……」
ダイの話を聞きながら、特にオレの教えることも無さそうだと思った。知識はその辺の専門家にも劣るまい。余程、オレの前の教師陣は優秀だったらしい。
「なんだ、それだけ知ってりゃ充分だ。そりゃオレよりおバカなのは仕方ないが、それ以上知らんでも立派に王様になれる。レオナはなに考えてんだ? ダイの勉強の進み具合も知らないのか?」
オレがそう言った瞬間、ダイの顔色が変わった。
朝、マーシャに対したときの数倍、激しい変貌がダイの表情に表れ、目に見えぬ炎が、あたり一面に飛び散ったようだった。
「……王になんか、ならない……!!」
歯の間から搾り出すように、低く、苦しげな声でダイが言った。
「絶対に。オレはただの臣下でいいんだ。どうしてみんな、それをわかってくれないんだ!? ポップまで。ポップまで、オレを王にするつもりなの!?」
「ダイ。だって、そりゃ……」
いくぶん面食らいながらオレは答えた。それはパプニカの、いや、世界全土の暗黙の了解だった。
「だって、おまえはいずれレオナと結婚するだろう? レオナがパプニカの女王なら、おまえはその旦那さん、つまり王様ってことじゃねーか。何、今更とんがってんだ?」
「結婚はしない」
ダイはきっぱりと言った。オレは耳を疑った。
「結婚はしない。誰とも、レオナとも。そう決めたんだ」
チェスタトンが言ってた。ダイとレオナはまだ婚約してないって。それはダイのせいだったのか?
「何言ってんだ。おまえ、レオナ好きだったじゃねーか。初めて会ったときから、レオナを助けるんだとか言って、その為に勇者になったんじゃねえか。最終的には全世界を救ってもらっちゃって、オレ達は全員おまえに感謝してるんだぜ」
「それなら、その勇者のたったひとつの願いくらい、聞いてくれたっていいじゃないか。結婚はしない。だから、王様にもならない。臣下としてなら、オレはいつまでもレオナに忠実に仕えるよ。……レオナが、誰と結婚しても」
「ワケわからんぞ」
どうしてダイが、ここまで嫌がるのかわからなかった。しかし、これだけは言える。
……ダイはひどく傷ついているのだ。吐き出すような口調とは裏腹に、目は大きく見開かれ、涙を、必死でこらえているようにも見える。
この三年、オレはダイから離れていた。だから、何にダイが激情しているのかは知らない。
でも。
「……ああ。おまえがしたくないって言うのなら、無理にしなくったっていいんだよ。文句言うヤツぁオレが叱ってきてやる。おまえは勇者だ。この世界を救った。誰もおまえに意見なんか出来ない。そうだろ?」
内心どう思っていようと、ダイを落ち着かせ、安心させるのはオレの役目だ。オレはまっすぐにダイを見つめ、ゆっくりうなずいた。
「……ポップ」
ダイはまた、オレに抱きついて、泣いた。
相変わらず、声も立てずに、きっと、幾つもの眠れぬ夜を、枕を片手に過ごしたに違いない。
「ダイ。昨日はよく眠れたか?」
ダイの頭を撫でながら言った。
「眠れた。よく眠れたよ。あんなに熟睡したのは、パプニカに帰ってきてから初めてだったような気がする」
「そうか。じゃ、今夜も一緒に寝よう。今夜と言わず、明日も、あさっても。おまえがマーシャを追い払ってくれるなら、オレも嬉しい。オレは朝は寝ていたいからな。頼む」
「うん。……ありがとう」
ダイはオレのことをいい匂いがすると言った。
今の礼を言うときも、顔は上げなかった。その、いい匂いとやらを嗅いでいるのだろう。
その匂いでダイが安心するなら、ダイの睡眠薬でも何でもなってやるつもりだった。
そしてオレは本当に睡眠薬になっていたらしい。しばらくすると、もたれかかっていたダイの重みがグン、と増えた。ダイは眠っていた。この上なく安らかな表情で。
「……とまあ、こういうわけなんだが」
例によってダイを先に帰し、レオナに報告しながらオレは夕食後のお茶を飲んだ。
レオナがどう出るか、オレはいささか緊張していたのだが、意外にも、レオナは髪ひとすじ乱さず、それを聞いていた。
「……やっぱりね。薄々はわかっていたのよ、ダイ君は結婚したくないんだなって。落胆もしたけれど、ちょっとだけホッとしているの。ダイ君は、私だけじゃなく、誰とも結婚はしないって言ったのね? ……それなら、私、誰にも嫉妬しなくて済むわ。ダイ君が他の女の子のものになるなんて、我慢できないもの」
レオナはそこまで一息に言った。
レオナは目を閉じ、椅子に深く腰かけ、首を背もたれにもたれかけさせて、何事か考えを巡らせているようだった。
オレは音を立てずに立ち上がり、レオナの思索の邪魔をしないように、そっと静かに部屋を出た。
>>>2003/6/16up