「なあ。オレなんか匂う?」
その後、オレは会う人ごとにそう聞いてしまうようになった。
夜、ダイはくーくー寝てくれるので一安心、だったが、ダイの安心の素である、オレの匂いについては皆目わからない。
「いいえ、特に嫌な匂いはしませんが?」
人間である以上、多少の体臭はあるのだろうが、それが特に強いとも思えない。普通だと思う、オレは。
会う人ごとそう言ってくれるので、多分そうなのだろう。
唯一の手がかりは、ダイの言った『懐かしい』、という言葉。
匂いと何かの記憶とが、結びついているのだろうか? それは、オレに関係していることなのだろう。オレを見ると、ダイは直接どんなことだったのか思い出せなくとも、そのときの幸せな気分だけが、よみがえるということかもしれない。
……しかし、全て推論に過ぎない。
この匂いの秘密がわかれば、レオナにダイを振り向かせることが出来るかもしれない。この匂いを、オレではなくレオナが漂わせることが出来れば。
「期待しているわよ、ポップ君」
この事も、レオナに報告した。するとレオナは、鮮やかに笑ってそう言った。
天晴れな女ぶりだった。もしこれが解明出来なくとも、いつかは自分の魅力でダイを振り向かせてみせようという、レオナの自信の表れだった。
レオナにはこういう所が勝てない、と思う。
勝ち負けの問題ではないが、大魔道士などとおだてられてはいても、自分がただの、平凡な小市民に過ぎないことを、思い知らされる。
オレは一礼して退出した。
それにしても、あんないい女であるレオナの、どこがダイは不満なのだろう?
容姿もスタイルも人並み以上だし、地位も名誉もある。まあ責任だけは重大だろうが、それを笑ってこなせるだけの、度量の広さがレオナにはある。
久しぶりにマァムの事を思った。マァムともこの三年、一度も会ってない。
急に会いに行きたくなった。
夜はまだ夕食が終わったばかりで、寝るまでにはまだ後何時間もある。その時までに戻ればいいや、と思い、オレはロモスへルーラを唱えた。
魔の森は地獄のように暗く、そこに程近い所にあるネイル村は、家々から漏れるランプの明かりがやけに神々しく、暖かく見えた。
「まあ、ポップ……!」
その家のひとつをノックし、開けてもらったドアから、懐かしいマァムが顔を出した。
「いらっしゃい。どうぞ上がって。今、お茶淹れるわね」
「あ、気ィ遣わなくってもいいよ。お茶なら、さっきレオナのとこで飲んできたばかりだから」
「なあに? 今はパプニカのお城にいるの?」
辞退したにもかかわらず、マァムは台所に立って行って、てきぱきとお茶の用意をしてくれた。
幾分伸びた髪を、自然のまま下ろし、肩にはくすんだ赤色のショールをかけている。オレは勝手に居間の椅子に座り、三年ぶりに見るマァムを目で追った。
「マァムは今、何やってるんだ?」
「武神流拳法の先生よ。老師に代わって、ロモスの山奥で幾人かの生徒を教えてるわ」
「老師……まだ元気なんだな」
遠くオレは呟いた。師匠は逝ってしまったのだが。
「どうしたの? 元気ないわね」
マァムがお代わりのカップをオレに差し出してくれながら、言った。
「あ、そういやマァムのお母さんは?」
二人暮らしの筈なのに、姿が見えない。
「元気よ。ピンピンしてるわ。ご近所のエヴァさんの家におしゃべりしに行ってるのよ。そろそろ帰ってくる頃だと思うわ」
マァムは自分も椅子に座り、ひと口お茶を飲んでから答えた。
「……で、何かあったの? 何の用も無しに、ここに来るほどヒマじゃないでしょ?」
こう聞かれて、オレは困った。何の用も無いのである。オレは照れ隠しに顎を指でぽりぽり掻いた。
「マァムに会いたかっただけ……じゃ、ダメかな」
驚いたことに、マァムは一層嬉しそうな顔をして、
「馬鹿ね。そんなことあるわけないじゃない。そう言って訪ねてきてくれるのが一番嬉しいのよ。ここ数年はみんなバラバラで、顔を合わせたことも無かったし」
マァムは上機嫌だった。内心、いきなりこんな時間に訪ねて、迷惑だったかもしれないと思っていたのでオレは相当にホッとした。
「うん。オレは今、パプニカでダイの顧問教師やってるんだ。レオナの相談相手もやってる。……たって、ほとんど役に立ってないけど」
オレは、岩屋から王宮に移ったいきさつが話した。
なんでもいいのだ、話が出来れば。おしゃべりは嫌いじゃない、どころか、かなり好きだ。
レオナにムダ話するわけにもわけいかなかったし、ダイは、……不確定要素が多過ぎる。チェスタトンやニナには仕事があるから、いつまでも付き合わせるわけにはいかないし、スミスじいはむっつりと無口な老人だ。
オレはここ数年の鬱憤を取り返すかのように話し続けた。マァムはいちいち相槌を打ってくれて、根気よく相手をしてくれる。
しかし、マァムを不安にさせるような事は言わなかった。ダイの不安定さや、レオナの危惧や、周りの反応や、オレの匂いなどについては。
「あらポップ君。お久しぶり」
しゃべくってる間にマァムのお母さんが帰ってきた。お母さんも加わって、三人でムダ話に花が咲いた。
「ああ楽しかった。遅くまでお邪魔してすみません、おばさん。また来ていいですか?」
もっと早く帰るつもりだったのに、夜はとっぷり暮れて、真夜中になってしまっていた。
オレは見送りに出てくれたマァムのお母さんに頭を下げ、マァムにひとつウィンクした。
「いつでもいらっしゃいね、ポップ君。それから、おばさん、ねえ……」
あ、これは失敗だったかもしれない。オレは慌てて、
「す、すみませんっ。えと、レ、レイラさんっ」
お姉さんと言うのも変だったので、失礼して名前を呼ぶことにした。
「違うわよ。私の言いたいのは、早くお義母さん、って呼んでくれないかなってこと」
「母さん!」
マァムが真っ赤になって叫んだ。
「何よ今更。私てっきり、その話をしに来たんだと思ってたのに。今夜のようなおしゃべりも楽しかったけどね、ポップ君。このコも早くしないとトウが立っちゃうから、お願いね」
「もう、母さん! エヴァさんとこでお酒でも飲んできたの!? ごめんね、ポップ。気にしないで、また来てね」
マァムはお母さんを引き摺るように家の中に入っていった。まだ、何か言っているのが聞こえる。
王宮にいるのなら迎えに来る準備は整ったのね、とか、あンたももう今年で二十歳になるのよ、とか。
つまり……マァムのお母さんは、オレとマァムがくっつくことには賛成なのだ。
ぼっと、顔から火が出たかのように頬が熱くなった。両手で顔を包んで、実際に熱くなっているのを知る。
マァムのお母さんが。では、マァムは?
マァム……も、満更ではないような顔をしていた。告白から三年、マァムの気持ちを確かめないまま来てしまったけれど、それでは、本気になってもいいのだろうか?
マァム。
もう一人、オレを好きでいてくれる女の事は考えないようにした。黒い髪の、神秘の少女、この気持ちも、君に届いているのだろうか。
どうか忘れてほしいと思う、オレの事は。オレの気持ちは変わらない。君がどんなに想ってくれても。オレと君が通じ合っていようとも。
オレはトベルーラを唱え、ネイル村が見えなくなるまで夜の空を飛行した。
あの灯りのひとつに、マァムがいる。それだけで、どうしてこんなにあの灯り達が愛おしい?
三年ぶりの再会は、オレの気持ちを再確認させた。
もう少し……ダイの問題が片付いてから、改めてマァムを迎えに行こう。そうしたら、オレは王宮に部屋をもらって、いや、パプニカの街にでも家を構えて、結婚して、二人で一緒に暮らすのだ。
そのうち家族が増えるだろう。その子供達と妻のために、オレは張り切って働く
だろう。
まさに薔薇色の人生だ。ラ・ヴィアン・ローズってヤツだ。
未来はこれからもずっと明るいに違いない。
オレは鼻歌を鳴らしながら、ルーラを唱えた。
>>>2003/7/31up