レオナは待っていた。一人きりで。
カーテンを閉めきり、ひとすじの光もこの部屋には入ってこない。
ゆっくりとふりむいたレオナはポップ以上に幽霊らしく見えた。
「……お帰りなさい、ダイ君。旅は楽しかった?」
なんでもない言葉だったが、その裏になにかうそ寒いものを感じてダイは押し黙った。
「どうしたの? 楽しかったんでしょう? ポップ君といっしょで。メルルが言ってたわよ、今のポップ君はダイ君の願いとポップ君の意志で出来てるって。ふふ、素敵ね。死をこえた友情……いや、愛情かしら?」
「レオナ……なにを言ってるの?」
ダイにはレオナの言いたいことがよくわからなかった。
「わからないふりをしているのね。でも、そんなことはどうでもいいわ。私ね、ずっとダイ君に聞いてみたいことがあったのよ。でも言葉でなら何とでも言えるから……絶対にうそをつけない、絶対に本心がわかる方法を思いついたの。今からやってみせるからちゃんと見ててね。けっして見逃さないで」
無造作に──……、
レオナは、きらりと光るものを手に持っていた。
ダイはまさか、という先入観が邪魔をして動けなかった。
ダイの目の前で、チーズでも切るようにその切っ先がレオナの首すじに食い込んでゆき、
ばッ、と……
血がふきだした。
「レオナ!!」
ダイはレオナに駆け寄って抱き起こした。
「これでいい……わ。これでダイ君が私を愛してくれているかどうかわかるわ。私が死んで悲しいと思うなら、ポップ君よりも大事だと思ってくれるなら、ダイ君の力で私を生き返らせて。愛しているというなら出来る……でしょう……?」
ヒューヒューと耳ざわりな音をたてる苦しい息のあいまからレオナは言った。
まだ意識はある。
ダイが血のあふれる傷口をおさえ、大声で助けを求めている。
いいのよ、ダイ君。私は死にたいの。
これ以上ポップ君を追いかけるあなたを見たくない。
ポップ君の影を消したかったわ、あなたの心から。
そうなの。私がポップ君を殺したの。
ひそかに、毒をもって。
少しずつ、少しずつ。あやしまれないように。
マァム。
あのときは心弱くなっていたのかうっかり口をすべらせてしまった。
マァムが都合よく解釈してくれて良かった。
もうそんなヘマはしない。
医師さえも騙せたんですもの、ポップ君だって気づいていないわ。
そうよ、誰も。
誰も知らないのをいいことに、私は悲しいふりをしていたの。
いいえ、悲しかったのは本当。
ポップ君が死んで苦しむあなたを見ているのがつらかったわ。
ポップ君が死んでも私を見てくれないあなたを見るのが悲しかったわ。
ポップ君さえいなければ、と思っていたのに。
「ダイ……くん……」
「しゃべらないでレオナ! 今ポップを呼んだから!」
誰を呼んだ……の? よく聞きとれない。
それより私をずっと抱きしめていて。こうしているととても気持ちがいいの。
あったかい、ダイ君……。もっとはやくこうすればよかったわ……。
「レオナ!!」
急速に青ざめてゆくレオナの顔。近習にポップを呼びに行かせたがまだ来ない。
早く、とダイは思った。
早くしないとレオナまで死んでしまう。ポップのように。
誰のように……?
ポップ。ポップは死んだ、死んだ!!
死人にレオナが癒せるものか。でも、ポップは客室にいる。
誰でもいいからレオナを助けて。
血のにおいがする。あの日、魔道士の塔に満ちていたにおい。
オレの血を飲ませれば……!?
ダイは手刀で手首を切った。
レオナの口に押しつけて血を流しこむ。
ポップのときは手遅れだった。
でもレオナなら。
竜の騎士の回復力が伝わったのか、レオナの首の傷がうすく乾いていった。
死なないで、死なないでレオナ!!
扉をあけて勢いよく飛び込んできたのはマァムだった。
ポップはやはりまぼろしだったのかもしれない。
ポップが生きていたなら、マァムより先にレオナに回復呪文をかけてくれたはず。
今ではもうマァムよりポップの方が上なのだから。
「マァム……レオナは助かる、よね。大丈夫だよね」
「あたりまえよ。なんでこんなことになったのか知らないけれど、あなたの処置が早かったおかげね、ダイ。レオナは助かるわ。もう安心よ」
マァムは回復呪文をかけ終えて、ほっとしてレオナを見下ろした。
顔色も普通に戻っている。
血にまみれてはいたが傷もあとかたもなく消えてただ濃いピンクに染まっているだけだ。
これならすぐに口止めすれば、パプニカの王女が自殺をはかったなどという噂がたたずにすむだろう。
「よかった……」
ダイはレオナを寝室に連れていった。
マァムも一応つきそって、静かに呼吸しているレオナとそれについてやっているダイを見た。
マァムがそっと部屋を出ようとすると、
「あ、ねえマァム。ポップは……?」
ダイが聞いた。
「馬鹿ね。ポップは死んだでしょ? もういないの。どこにも」
ダイは一瞬きょとんとして目を見ひらいた。
が、すぐに納得してような表情になって、
「そおかあ……そうだよね、うん」
と言った。
※
「消えてしまったわ、あの人……今度こそ、本当に。ひどいわ、早過ぎる……死なせるためにパプニカに来たんじゃないわ。だから、言ったのに……! 私、ダイさんに言ったのに……!! あの人をもう殺さないで、ずっと一緒にいて、忘れないでって……!!」
マァムが客室に戻るとメルルが寝台につっぷして泣いていた。
ついさっきまで、ポップが体を横たえていた寝台。
もういない。どこにも。
「いないの、あの人。どんなに意識をこらしても。以前は探せば見つかったのよ、とてもとてもちいさな意識だったけど。あの人が誰を想っていてもいいの、どんな姿でもいいの。生きていて、ほしかったの──……!!」
誰を想っていても。生きてさえ、いてくれたら。
マァムにはメルルの気持ちがわかった。
結局──最後まで、ポップが気にかけていたのはダイだったのだ。
自分も、メルルも、その後でしかない。
メルルのあてつけるような言動も、きっとそれを知っていた裏がえし……そして、自分もそれに踊らされていた。
本当は、メルルを嫌ってなどいなかった。
ひかえめで、女らしくて、マァムはあこがれてさえいたのだ。
「メルル……」
マァムは優しくメルルの肩に手をおいた。
「話してくれる? ポップの消えたときのことを。つらいのはわかるけど、私はレオナの治療をしてたから見ていないの。あの人……どうだった? 苦しまなかった? 幸せそうだった?」
近習が呼びに来たとき、その少し前からポップの様子がおかしくなった。
おこりにかかったように体をふるわせて、荒い息を吐きながらシーツに顔を押しつけていた。
マァムもメルルも喧嘩どころではなくなって、背中をさすってやったり息がしやすいように枕をどけて仰向けにしてやったりした。
「どうしたの、ポップ!」
こう言ったのはマァムだ。
メルルは自分こそ苦しいかのように激しく息をついて口もきけずにいた。
「お別れの時間だ……ダイがオレのことを考えているヒマがなくなったんだ。きっと、ダイか……レオナに何かあった。マァム、行ってやってくれ。ダイを助けてやって」
いま助けが必要なのはあなたよ!
とマァムは叫びだしそうだった。
それほどに、ポップは苦しそうだったのだ。
もうそっとしておいてほしい、そう言った、ポップの気持ちが痛いほどわかった。
近習が呼びに来た。ただならぬようすだった。
「……わかったわ。行くわ、ポップ」
マァムは背を向けて走りだした。
今離れてしまったらもう二度と会えない。そんな気がした。
それはもうこれ以上ないほど真実だった。
だがマァムは、ポップの意志を優先してやりたかった。
意志……遺言。
それはポップの遺言だった。マァムへの。
そしてこのメルルへも。
ポップは遺言を残しているはずだった。
ポップは自分ともダイとも違う愛でメルルを愛していた。
認めたくはないが、生前のポップに一番近い場所にいたのはこのメルルなのだ……とマァムは思った。
「……ええ。さいごは、呼吸も楽になって……しあわせそうに。生きていてほしかったけど、そう思うことが私たちのエゴなのだということがよくわかりました。あの人はもうこの世界の住人ではないの。もっと光射すもっと穏やかな世界があの人を待っているのだわ。どんなにかそこへ行きたかったことでしょう。それなのに、あの人はまだこの世界へとどまってくれた……もう、いいの。さよなら、さよならポップさん。いつか私たちもそこに辿り付くわ。だからそれまで待っていて。そうして──そうしたらまた三人で仲良くしましょうね。私と、ポップさんとマァムさんで。ダイさんは──駄目よ。入れてあげない。あなたは怒るかもしれないけど」
メルルは立ち上がり、ポップの荷物の入っていた袋を持ってきた。
「なに?」
「これを……」
メルルはその中から、どうやら薬草らしきものを取り出した。
「ロモスのセレヤ山にしか生えない霊草です。あの人は、本当はこれを取りに行ったの……ダイさんと旅をしながら、ダイさんの意志に従いながら、それとなく、目的を達成するために。これは、もの忘れ草。なにかを忘れるために用いる霊草です」
マァムははじかれたようにそれを見た。
「ポップさんは、始めこう言いました───メルル、オレが消えたらこの草を煎じて皆に飲ませてほしい。ただ煎じても駄目で……、そのときある呪文を唱えるのだそうです。呪文の文句も教えてもらっていますわ。忘れたい、または忘れさせたい人の名前や出来事を念じながらこう唱えるのです……クオト・エラド・デモンストランドゥム」
魔女のように響く声でメルルは言った。
「それを──どうするつもり?」
気圧されながらマァムが問うた。
「ダイさんと姫に飲ませます。本当はマァムさん、あなたにも飲ませるつもりだった。そうしたらあの人は私だけのものになる。それはアバンさまやほかの方々もポップさんを好きでいらしたのでしょうが、少なくとも、私と対等以上にあの人を愛していたのはあなたとダイさんだけだわ。だから、あなたと姫とダイさんの記憶を消して、私だけがあの人を覚えているの……私だけがあの人を愛しているの。でも」
またメルルの瞳に涙がもりあがってきた。
「でも、あの人はもういないわ! いつだって、心を寄せれば優しい波動がかえってきたのに。あの人がいない、あの人を覚えている人もいない、私はひとりぼっちだわ……!! ひどい、ポップさん。どうしてこんなことが出来るの。私を好きでもなかったくせに……あなたが好きだったのはもっと別の人だったくせに」
「メルル」
それはマァムも同じなのだ。
「私が覚えているわ、ポップを。あなたと同じように。あなたもそう思ったからこそ私に飲ませるのはやめたのでしょう──言ったわよね、以前。忘れなければポップは永遠に私たちの中で生き続けると。誰がポップを忘れようと……記憶を風化させようと、私たちは二人、ずっと忘れないでいましょうね。一人では無理でも、二人なら……! きっと、大丈夫。私たちはこの思い出だけで生きてゆけるわ」
メルルとマァムは手をとりあって泣いた。
泣いて、泣いて、涙も枯れはてたとき、二人はようやく立ちあがって、霊草を煎じる湯の用意をした。
>>>2000/12/12up