── ポップ ──
ポップは考えていた。
いや、もう肉体は無い。かつてポップだったものは考えていた。
何だったろう、そう遠くない以前、まだ人間だったころ自分から求めて与えられた、あの熱く激しいまじわり。
ポップは人間だった自分のからだをイメージしようとした。
まず、いちばん強烈に印象に残っているところ。
顔。顔の一部だった。
そう……くちびる。
これが最後だと思った。
ダイにしがみついて、ダイを忘れないために。
死んでも。
ひとつ思い出すとどんどん思い出していった。
ダイの手がふれたところ、ダイの唇がなぞったところ。
ポップは身をくねらせた……もちろん、その想像上の肉体を。
(ダイ)
ポップは身をおどらせてパプニカの城へ向かった。
彼はもう風にのって自由にどこへでも行けるのだ。
彼は渡り鳥といっしょに海をわたり、光と同じ速さで進むことも出来た。
雲の上までたわむれに飛び、青い宝石のような彼の住んでいる星を見下ろした。
ときおり、彼は非常な郷愁をおぼえランカークスというちいさな村にも向かった。
なつかしい彼の両親、そんな人たちもいたのだと、今の彼は驚きさえ感じる。
ロン・ベルクの山小屋で修業しているノヴァ、ラーハルトとともに旅をしているヒュンケル、たくさんの人々に彼は会いに行った。
勘のするどい者なら、ポップのかすかな気配を感じて目を向ける。
ポップはそれについさなつむじ風をおこしたりしていたずらする。
生きていたときのことはよく覚えていないが、どうも昔もきっとこういう性格で、みんなに迷惑がられていたんだろうなとひとごとみたいに思う。
ポップがいちばん気にいって入り浸っているのがパプニカだった。
ここにはあのダイがいる。マァムとメルルもいる。レオナも。
みんな、ポップには大事な人たちだった。
自分が死んだせいで、それからまたダイのせいでずいぶん苦労をかけてしまった。
初めて──ではない、
彼にとっては二回目にあたる死、そのときも記憶はおぼろだった。
彼はぼんやりと自分の体から自分が抜け出てゆくのを感じていた。
その隣で、誰かがなにか言っていた……ダイ。
天井近くに浮いてポップはダイを見つめていた。
自分の状態よりこの少年の方が気にかかった。
少年はやがて呼びかけをあきらめたのか、寝台の横にどっかり座りこんだ。
持久戦にもちこむ気だろうか。
おい、そこの。無駄だよ、はやくお帰りよ。
だってオレは死んでしまった。
一回キャリアがあるからわかる。自分は死んだのだ。
このまま天にのぼることもできる。
が、どうもその気になれなかった。
ダイ、たしかこの少年の名前、ダイは生きていた自分よりはるかに強い力を持っていたのに、ポップポップと子犬のようにまとわりついて、オレを閉口させていた。
ま、閉口だけじゃなかったけど。嬉しかったけど。
オレがいなくなったらこの少年はどうするのだろう。どうなるんだろう。
なんだかすごい不安だ。
後追い自殺なんかしないだろうな。
しやがった。いや、自殺ってんじゃなさそうだけど、手首切ってあんなに血を出してんじゃ同じことだ。やめろ、やめろって! オレはここにいるんだから!
耳もとでどんなに叫んでも、オレの声は聞こえない。
たましいだけの存在ってのは以外と不便なものだ。
体があったら。体に戻れたら。
幾度もこころみてみたがすべて失敗に終わっていた。
するっと体を突き抜けてしまう。ちっ。
女の子……レオナが来てなんとかダイを止めることが出来た。
ああこれからはレオナに任せておけばいい、ダイに必要にのはもうオレではないのだ。
……おい、ダイ。いいかげんにしろよ。
オレは死んだんだって、認めろよ!
マァムが怒ってんのがわかんねーのかよ。
さわらぬマァムにたたりなし、という格言を知らねえのかお前は。
そして、もうひとり、女の子がいた。
名前はメルル、ずっとオレと心の一部が同調していた少女だ。
彼女はそれでもってオレとコンタクトをとった。
彼女を通じてオレは生前の自分をはっきり思い出すことが出来た。
自分がパプニカの宮廷魔道士であったこと、世界を救った勇者パーティの一人であったこと。
とてもそんな器じゃないと思うが、メルルの波動からは嘘は感じられない。
オレはメルルを信用していた。
その記憶も、もう薄れてしまった……。
三度目の死、ダイのつくった想像上の肉体が失われたとき、これでオレの役目は終わった……という気がした。
ポップはダイが自分を必要としているあいだに、制限された自分の持てる能力のすべてでダイを救おうとしていた。きっと、この体はダイが自分に頼らなくてもよくなったとき、用済みとなって消えるだろう。
まー……いいか。死人より生きてるヤツのほうが大切だ。
ポップはダイを旅に誘った。
そのさい、予想できるダイの行動は気にしないことにした。
どちらにせよ創造主の意向にはさからえないのだ。
それに、自分は……イヤじゃなかった。
少しだけマァムのことを思った。
浮気……かな? これは。すまんッ、見逃してくれッ。
旅は楽しかった。
今の、かたちのない自分も悪くはないが、かりそめとはいえもう一度肉の体を持ち、あたたかな日差しや風が自分にぶつかるのを感じるのは、生きていたときには思いもしなかった感動だった。
セレヤ山に行く前に、ある老爺の畑を耕してやった。
じっさい耕したのはダイだけど。
堀りかえされたむせるような土のにおいと、その土に住んでいる虫たち。
指先でだんご虫を転がした。
うねうねとうごめくミミズをつまんでまた元に戻した。
ずっとこの旅が続けばいい──ポップは本気でそう思った。
いつまでも、このまま、ダイといっしょに、あてもなく旅を続けよう。
だが自分には目的があった。ダイは知らない。
自分はセレヤ山に、もの忘れ草を摘みに行かねばならないのだ。
いつ、ダイにそれを飲ませるか、それが問題だった。
とりあえずダイに気づかれずに採集することは出来たようだが、ちんたら呪文となえながらこんなもん煎じれるか馬鹿野郎。
しかし事態は急展開だった。ヒムとクロコダインがオレたちを見つけだした。
オレたちは……オレは、それでもまだ旅を終わりにしたくなかった。
ダイに言って、ルーラを唱えさせた。
行き着いたのは、テランだった。メルルのいる、テラン。
なにか運命的なものをポップは感じずにはいられなかった。
(メルル。頼みが、あるんだ……手荷物の中に布きれで巻いたしおれた植物が入っている。それを煎じて、疲れがとれるとか言ってダイに飲ませてほしいんだ)
(いやです! ……あなたは、ダイさんの力で出来ているのでしょう!? ダイさんがポップさんを忘れたら今のあなたは消えてしまうわ。お断りします)
(メルル)
困ったようにポップは言った。念じた。
(あなたが死んでしまったとき、私がどんなに絶望したかあなたにはおわかりにならないわ。私、ダイさんに言うつもりです。このことを。知っていれば気をつけるでしょう、ダイさんも)
(こらこら、なんてこと言うんだ。オレはダイの重荷になりたくないんだってば。今のダイを見ろよ、どう見ても普通じゃないぞ。あいつを元に戻すには、その原因のオレが消えるのが一番いいんだって)
(ダイさんの狂気はダイさんのせいです。ポップさんが責任を感じることはありませんわ)
メルルはとりつくしまもない。
ポップは今までのメルルの認識を改めた。
もっとおとなしい従順なタイプかと思っていたが、こうしてみると意外に我が強く頑固でもある。
もっとも、ポップは甘えられるよりも甘えさせてくれる姐さん女房タイプの方が好みだったので、この変化によってメルルを嫌いになるということなどはなかった。
(わかった。言ってもいいよ。でも、もしオレが消えたらそのときは、さっき言ったことを実行してほしい……できれば、ダイだけでなくマァムやレオナにも。ダイだけ記憶を失ったんじゃ不自然だもんな)
(どうしてそんなに死にたがるのです)
(どうしてって……オレもう、死んでるんだけど)
(やめてください! そんなこと、言わないで……! 生きていてほしい、それだけです。どんな姿でもいいの。生きていて、ほしいの……!!)
さすがに言ってはいけないことを言ってしまったのだとわかった。
自分はもう充分メルルにひどいことをしている。
メルルが自分を好いてくれているのをいいことに、ほったらかしたあげく死んでまで無理を押しつけている。
(……ごめん、メルル)
長い沈黙があった。メルルの心の葛藤が伝わってきた。
同調している心は何も隠すことが出来ない。
メルルは何かを断ち切るように、
(呪文を教えていただけますかポップさん)
と言った。
(あなたが望むなら、私はどんなことだって出来るわ。それがあなたを永遠に失わせる最後の手段だろうと。でも、私がそれを覚えるのはあなたを消すためじゃないわ。自戒のために。つねにその言葉を念頭におき、あなたがここにいてくれる奇蹟を忘れないために。どうか安心していてね、ポップさん。私、必ずあなたの言うとおりにするわ)
クオト・エラド・デモンストランドゥム。
ポップの教えた呪文を重々しくメルルは繰り返した。
目をつぶり、反芻するように何度も。
彼女は約束を守った。ポップはだんだんとけて薄れてゆく意識のすみでそれを感じていた。
マァムもいた。彼の女神、厳しさと慈愛を兼ね備えた天使、最後に会えて、良かった……。
マァムがついててくれるなら、メルルも心配いらないだろう。
ある意味ではダイよりメルルの方が心配だった。
ダイは自分を忘れて平和に生きてってくれるだろうが、ただひとり、つらい役目を押しつけてしまったメルルはどうなるのだろう……彼女が、皆といっしょに薬湯を飲んでくれたらいいが。
オレって女運よかったんだなあと今更思った。
母親のような、姉のような、妹のような、友人のような……そして、共犯者のような女たち。
ありがとう、男の勝手な言い草かもしれないが、二人とも愛していたよ。
生きていれば、どちらかを選ばなければならなかったかもしれない。
そしてどちらも選べなかったろう。
マァムを迎えに行けなかったのは仕事が忙しかったせいもあるけど、メルルがテランに一人でいたせいもあるに違いない。
そして、ダイ。
かつてポップだったものは客室をあとにしてダイを探しに行った。
レオナの寝室にダイはいた。
自分が死んだときと同じように、かたわらに座ってレオナの様子を見ていた。
その心配そうな表情を見ていると、悲しいような腹立たしいような複雑な気分になった。
でも、これでいいのだ……という気がした。
マァムとメルルが連れ立って椀をふたつ載せた盆を運んできた。
「心をしずめるお薬です。どうぞ」
メルルが言った。ダイは機械的に手をのばし、それを飲んだ。
ダイはゆっくり昏倒した。これでいい。
次に目が覚めたらオレのことは忘れているだろう。
マァムが口にふくみ、レオナの口に流しこんだ。
「終わったわね」
ポップの気持ちを代弁するかのようにマァムが言った。
「メルル、あなたはこれからどうするの……? テランに帰るの? 私としては、パプニカにとどまってほしいのだけど」
「もちろんここに残りますわ。そしてマァムさんのお手伝いをします。マァムさんはポップさんのいなくなった穴を埋めようとここで頑張っていらっしゃるのでしょう? 及ばずながら、私も協力させてください」
「ありがとう、メルル」
ふたりはかたい握手を交わした。
これでいい。これでいいのだ。もっと早くこうなるべきだったのだ。
ポップは──気持ちだけは、一礼して外へ出た。
外は春だった。ロモスより一足遅い春がパプニカに巡ってきたのだ。
やわらかな新芽、ほころぶ花のつぼみなどを見ながらかつてポップだったものは思った。
うつくしい、美しい世界。自分はこの世界に属していたのだ。
この世界で生きていたのだ。
彼の世界、彼が仲間たちと守った世界、一歩まちがえればここは暗黒の世界と化していたかもしれない。
白い雲の切れ間から、彼の目にだけ見える道がひらいた。一度とおったことのある道。
金色の。
あの道をのぼればかつて引き返した雲の園にゆきつく。天上の音楽が聞こえる。彼を誘う。
ポップは首をふった。
オレは行かない。神の国へ。オレはこの地上に残って永遠にこの世界を見守る。
見守る……わけではない。そんな力はもう彼には無い。
彼はただここにいて、この星の寿命のつきる最後の瞬間まで世界を見つめるのだ。
おだやかな、もっと聞いていたいと思わせる声がかれに言い聞かせた。
いいのですか。ここに残っても、あなたはもう何をすることもできないのですよ。
あなたの友人たちが生を終えて天上にのぼっても、あなたはただひとり、ここにいて、永遠のさすらいびととなるのです……さあ、行きましょう。あちらの世界もまたとなく美しいところですよ。
いいえ。オレは残ります。友人たちが心配なわけではないんです。
オレがいなくても、彼ら……彼女らはもう大丈夫です。
時が経つほどにオレの人間だった記憶は薄れていって、自分がなにものであったのかも忘れてしまうでしょう──でも、オレはそれでいいのです。人間であったことを忘れ、空気にとけ、分散し、この世界の一部となる……それが、オレの望み。
輪廻をくりかえして転生するより世界そのものにオレはなりたいのです。
おだやかな声の持ち主は少しのあいだ沈黙した。
とまどいと、感心したような気配があった。
……わかりました。あなたを誘うのはやめましょう──あなたにはわかっているのですね。
このまま残ればどうなるのか。わかっているのなら、無理に連れてゆくことは出来ません。
でも、覚えていて。あなたの選んだ道はもっとも困難な苦しい道。
それに負けない強さを持つ者だけがこの世界と同化できるのです。
私たちはあなたを天上から見守っていましょう……幸運を、あなたに。
さようなら、ポップ。
彼の人間名を言って声の持ち主は帰っていった。
道が閉じる。さよなら、オレを待っていてくれた世界。もう二度と彼のためにひらくことはない。
誰かの道に同道することもできない。
彼は寂情としてその光景を眺めていた。
金色の道が糸のように細くなり、やがてすべてが消えてしまうと、彼は彼の属する世界へ向けて身をおどらせた。
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