何だかもうぐちゃぐちゃだった。
彼女が指輪を床に叩きつけた途端、メルル妃と魔法使い達、いや、宰相は魔法力皆無だから塔からの移住組は、子供の父親までもが揃って声を上げた。
「ポップさん!」
「マスター!!」
ワンテンポ遅れてレオンも飛び出した。が、完全に場違いだった。
彼女は皆して指輪の行方を追ったのを見て、
「やっぱり……!」
と、吐き捨てた。
「やっぱり皆、私より父様の方が大事なんでしょう。確かに父様のおかげで私は生きて来られたのかもしれない、でも、それは私の望んだ事じゃないわ。皆、私じゃなくて私の中にいる父様を見てる。父様を呼び出してくれ、と言われる度、私がどんなに絶望したかわかる!? 私は父様の容れ物じゃないわ!」
「クロエ」
彼女の絶叫に、メルル妃がたしなめるように名を呼んだ。
しかし彼女は止まらなかった。
「その子が成長して、自分がどちらかの親の命を踏み台にして生き永らえた、と知ったらどう思うの!? 私にはマトリフおじい様がいたけど、その子の事は誰が救ってくれるの!? みんな結局、自分の事しか考えていないのよ。助けられる方の気持ちなんて、これっぽっちも考えてない!!」
今や広間は彼女の独演会場だった。
これまでにずっと降り積もってきたものを、感情を、奔流の如くほとばしらせている。
他の者は身動き取れずに、黙って彼女の言い分を聞くしかない。
レオンは床に転がったままの指輪に目を移した。
大魔道士様は起きていらっしゃるのだろうか? 目を覚まして、彼女の話に耳傾けているだろうか。
黒い宝石は冷たく輝き、外からは窺い知る由もない。
「皆、私が父様の娘じゃなかったら、きっと目もくれていないのでしょう。母様は別かもしれないけれど、私は私なりに努力して、父様の影を消そうと努力してきたわ。でも、どうあっても敵わない。だって父様は大魔道士で、私は平凡な娘だもの。その子だって同じよ。きっと、自分に流れる別の命に苦しむわ」
「我々はマスターの弟子なんだから当たり前じゃないですか」
空気を読まずに軍務大臣が言う。
「心配せずとも彼の場合は確実に死にますので、子供さんに父親の影を見る事は余り無いかと……」
宰相もそれは同じ考えの様で、彼女の意図とは別の方向に答えを返している。
何となく思っていたが、魔道士の塔の者はやはり何処かズレている。
母親が魔法使いの夫を見た。
こちらは薄く淡い笑みを浮かべて、全てを受け入れたような表情をしている。
今更の様に首を振って、そんな……、と母親が呟いた。
子供と自分か、もしくは夫の命を秤にかけて、子供を取った重みに気づいたのだろう。宰相は大魔道士様の考えが理解出来ると言った。同じ選択を取ると言った。今まさに、宰相ではないが同じ岐路に立った魔法使いがいて、師と同じ答えを下そうとしている。
「大丈夫。マスターが迎えに来てくれる。――見た事があるんだ」
あ……。レオンはもうひとつ、宰相の言葉を思い出した。
白い雲の園で、大魔道士様が褒めてくれる。それを糧に、我々は尽力してゆける。
この人もそれを見たのだろう。全員が同じ光景を見たと、宰相は言っていた。
「どうしてわからないのよ……!」
彼女はぎゅっと拳を握り締め、目に大粒の涙を溜めながら、
「その子はそんな事望んでないわ! 親の命を貰ってまで生き延びたくない。そんな重荷を、その子に背負わせないでちょうだい!!」
彼女は最後に大きく叫ぶと、ドレスの裾を翻して広間から走り出て行った。
メルル妃がすぐ後を追った。
レオンは出遅れ、出入口の扉と残された宰相達と、きょろきょろと交互に見返した。どう行動すべきかレオンが迷っていると、大魔道士様の魂が宿った指輪を宰相が拾い上げ、レオンに手渡した。
「どうして、僕に……?」
レオンの問いに宰相は、
「え、だって、王子はこの城に一室貰っているじゃないですか。私達はそれぞれの宿舎へ帰りますから、頃合いを見計らって、お嬢さんかメルルさんに返してあげて下さい」
「………」
合理的、なんだろうけど……、彼女の主張はどこまでこの人達に届いているんだろう。
軍務大臣がひっそりと、亡くなった子の両親と話をしている。どうやら生き返らせるのは諦めたらしい。その方がいい。レオンは思う。不幸にもその子は幼くして物故してしまったけれど、死は死のまま、そっと置いておくのがいい。
レオンは手の中の指輪を軽く握った。
大魔道士様。彼女を永らえさせてくださってありがとうございます。でもやはり、僕は彼女の考えの方が正しいと思います。貴方は例外なのだ。他の凡百の人間が真似をしても不幸になるだけだ。
貴方と比肩し得る存在はこの世でただ一人、我が父、勇者ダイのみ。
その、ただ一人の眷属である貴方に去られて、父はどんなにか傷ついた事だろう。自分より母より妹より、大魔道士様に執着する気持ちがわかったような気がする。どちらの心情もわかるだけに、レオンは誰も責められない。ならば、自分が一番正しいと思う相手を支持するしかない。
(――レオン)
頭の中で声がした。レオンは驚いて辺りを見回した。
軍務大臣と話が着いたらしく、子の亡骸を抱いて、その両親は暇乞いをしようとしている。
「どうかしましたか、王子」
宰相が話しかけてきた。やはり声が違う。この声は、
大魔道士様……?
(そうだ。良かったー通じたー)
心底から安堵したような響き。どうもこの声は、レオンにしか聞こえていないらしい。
レオンの混乱をよそに、大魔道士は先を続けた。
(レオン。頼みがある)
夜、レオンは湖に向かって歩いていた。
あれから彼女とメルル妃は夕食の時間になっても姿を現さなかった。レオンに構っている場合ではないだろうし、もしかして顔を合わせるのが気まずい、というのもあるかもしれない。昼食を用意してくれる料理人が夕飯もつくってくれたが、一人で摂る食事は味気なかった。
だが、この方がレオンにも都合が良かった。
大魔道士様は、夜になったら指輪を持って湖に行くよう命じた。レオンは彼の部下でも臣下でもないから従う謂れはなかったが、何故か逆らえなかった。言霊、というヤツかもしれない。
月が綺麗だった。まん丸い月が辺りを照らしてくれていたおかげで、不案内な道もサクサク歩けた。
しかしさすが田舎。昼間はまだしもいた通行人が、人っ子一人いない。
レオンは誰にも行き合わずに湖に着くと、数日前、彼女に案内して貰った竜の神を祀る神殿に向かった。
湖にせり出すように建てられた神殿に立ち、レオンは手のひらに指輪を乗せて、
「……着きましたよ大魔道士様。どうされるんですか?」
聞いてみた。すぐ返事があった。
(見えるか、レオン?)
そう言われても。
鏡のような湖面に月が映って青白い光の道が出来ている。とても美しい光景だったが、これを指して言っているのではないだろう。思い当たらずにレオンが呻吟していると、
(よーく見ろ。今のお前なら見える筈だ。僅かながら、オレと繋がってるんだからな)
レオンはじっと目をこらした。
果たして、レオンの目にぼんやりと半分透き通った子供の姿が浮かび上がってきた。
五歳くらいの男の子だ。これは、今朝の……!?
「大魔道士様! この子は……」
(その子だ。まだここにいたんだ。……よくある事なんだ。小さすぎて、死、というものがよくわかっていないんだ。そういう子は大抵、自分が死んだ場所にいる。一人じゃ上れないんだ。誰かが連れてってやんないと……)
声が聞こえる。泣き声だ。母親を呼ぶ声。視覚だけでなく、聴覚も大魔道士様と繋がったらしい。
「!」
ぽかり、と虚空に大魔道士様の姿が現れた。
男の子と同じく半透明に透けていて、だがこちらは全身が青く光を帯びて、奇妙に神々しい。そういえばこの方は、今はテランの守護神を務めているのだった。つい先日、神様じゃないと否定されたばかりだが、魔道士の谷の者以外でも、こうして迷える魂を救いに来るのがこの方の役目なのだろう。
大魔道士様は、男の子の目線に会わせて腰を低くした。
(どうした? 道がわかんないのか?)
ママは? と男の子が口を開いた。
きっと想定の範囲内だっただろうその答えに、大魔道士様は微かに哀れげに眉を寄せて、何事か話し込んでいる。暗い水の上に二人は立っていて、大魔道士様は男の子と手を繋いだ。
(大丈夫。ママは後から来るってさ。先に行って、そこで待とう)
……ありがとう、おじさん。男の子が礼を言っている。
大魔道士様はオーバーアクションで否定した。
(おじさんじゃなーいっ。お兄さんと呼んでくれ、オレはまだ二十五だっ)
享年二十五歳。レオンははっとした。ええっと、父さんと大魔道士様はみっつ違いだったから、生きておいでなら、本当なら今年三十三歳……やはり、亡くなられたのは八年前だ。
だからといって何がわかる訳でもない。変わる訳でもない。
テランの守護神。大魔道士様はいつまでもその齢のまま、姿のまま、テランを見守って行くのだろう。
彼の弟子達が信じる通りに。
あれ……?
レオンが胸に浮かべたもやもやを形にする前に、声がかかった。
(あ、レオン。指輪をこっちに)
大魔道士様が男の子と繋いでない方の手を差し出した。レオンは何の気なしに指輪を渡した。
――すり抜けた。
え!?
ぽちゃん、とちいさな音を立てて指輪は湖の底に沈んでいった。
「え、ちょっと待って、何でっ!? 今の何。だ、大魔道士様……?」
レオンは狼狽した。
ひらひらと大魔道士は手を振って、男の子の手を引いて月の道を光射す方向へ歩いて行こうとしている。
「ちょ、待ってください大魔道士様! 指輪が……!」
大魔道士様の影はどんどん薄くなっていった。声が直接頭の中に響く。……サンキュ。
サンキュって何だ。まさか計算だったのか。
ぱっとレオンは上着を脱ぎ捨てた。自分に指輪を落とさせて、何の意味があるのかよくわからないが、このまま放っておく訳にはいかない。あの指輪はテランの至宝だ。
メルル妃にとっては夫の形見で、彼女にとっても父親の、今は癇癪を起こして投げ捨ててしまっているとしても、本来は大切な護符の筈だ。失くす事は出来ない。
靴も脱いで、何度か大きく深呼吸する。意を決して、レオンは湖に飛び込んだ。
ばしゃん、と水しぶきを上げてレオンは水面に顔を出した。
落ちた場所はわかっているからこの辺りを重点的に探せばいいのだが、これがかなり深い。水の中には月の光も届かない。水圧で上下がわかる程度で、右も左もわからない状態でレオンは指輪の捜索を続けた。
神殿の床に手をかけて息を継ぐ。
こんなに広い湖の底から、たったひとつの指輪を見つけ出すなんて、軽く絶望しそうになる。
恨むぜ大魔道士様、と思いながらレオンははー……、と嘆息した。
ふと、神殿に祀られている像が目に入った。聖母竜、マザードラゴン。
レオンにも四分の一、その血が流れている。
ほとんど意識した事はないし、他の同年代の者と比べて身体的に優れていると思った事もないが、もし、自分にまだ眠っている能力があるのなら。
今がその時だ。
力を貸してくださいひいおばあちゃん。レオンはもう一度大きく息を吸うと、ざぶんと勢いをつけて水に潜った。湖の中はやはり暗い。視界が効かない中、水底に潜っていくのは根源的な恐怖がある。
だがここは竜の神が降臨していた地。
恐らくは神域と呼ばれていた湖で、例え最後の降臨から十数年経っていても、二度と竜の神が降りる事がなくとも、そんな清浄な場所には妖しいものの入り込む隙間はない筈だ。
大丈夫だ。自分の血とひいおばあちゃんを信じろ。
レオンは引き寄せられるように真っ直ぐ底に進んでいった。
ちかり、と光るものがあった。あれだ。
大魔道士様の指輪。
レオンは手を伸ばしてそれを掴んだ。
「………!?」
ぶわ、と自分の中に自分でないものが流れ込んでくる。
これは大魔道士様の想い。意志。記憶。
引き込まれる……!
レオンは抗いながら、どうしようもない渦の中に引きこまれていった。
>>>2011/9/21up