メルルが身篭ったのはメルルの祖母、ナバラが他界してすぐの事だった。
クロエ、というのはメルルの母の名前らしい。
「きっと女の子よ。わかるの。私が名前を付けてもいい? ポップさん」
もちろん、ポップに否やは無かった。
メルルが幸せそうで何よりだ。
結婚して三年、自分達より先にダイとレオナの間に子供が出来て、慌てて式を上げた所まではメルルも笑っていた。が、第一子のレオンに続いてすぐにディーナが生まれた頃から、メルルの表情が曇ってきた。
多分、焦っていたんだろうと思う。
ポップは新婚の数年くらい、二人でらぶらぶでいいんじゃないか、と軽く考えていた。
何せこっちには負い目があるし。せっかくメルルが告白してくれたのにその時は他の女の子を選んだり、それ以前からダイとも関係を持ってたし、そのせいで四年も待たせてしまったし。
大事にしてきたつもりだけど、やはりメルルは不安だったのだろう。
だから子供を望んだ。二人の愛の証として。
ナバラが亡くなった時のメルルの嘆きは見ていられない程だったが、程なくして妊娠がわかった時、
「おばあさまが授けてくださったんだわ。ずっと、私の希望を聞いてくださってたもの」
そう言って笑った。
だから生まれてくる子供はメルルの祖母で、母。メルルのただ一人、血の繋がった肉親。
そこまでして望んだ子供だったのに、メルルは苦しそうだった。よく体調を崩して、寝込んでいた。原因が腹の子にあるのは明白だったが、子を孕んだ女は皆、同じようになるのと青い顔で微笑んだ。
ポップに出来る事といえば、メルルの腹に手を当てて、回復呪文をかける事だけだった。
有り余る魔法力を持つ自分には、それくらい何でもない事だったのに、メルルはいつも深く感謝してくれた。
「この子は幸せ者ね。大魔道士が父親だなんて、みんなに自慢出来ちゃうわ」
メルルはよく、おなかに手を当ててさすりながら言ったものだ。
が、ポップはどちらかというと、子供はどうでも良かった。ただメルルは欲しがっていたし、そして苦しんでいるし、楽にしてあげたいと思って、メルルが良い様に行動した。幸い、自分には力があったし、小なりとはいえ一国の王でもある。
妊娠してから殆どの食べ物を受け付けなくなったメルルの為に、かろうじて食べられる果物を買い占めたり、異国の珍しい果実や菓子も取り寄せた。国王としての執務をスタンに押し付けて、側にいる時間も増やした。……まあ、それはいつもの事だったが。
何度も回復呪文をかけながら、ようやく臨月を迎え、メルルが典医と産婆と共に扉の向こうに消え、じりじりしながらポップは待った。子供の泣き声が聞こえるのを。
しかしいつまで待ってもそれは聞こえて来なかった。
代わりに聞こえて来るのは獣のようなメルルの呻きと、典医の激励と、産婆の叱咤する声。
自分とメルルは繋がっている。出入り自由な心のドアからメルルの苦痛が伝わってくる。それでもメルルは諦めていない。ヘタレな自分なら、こんな痛みを経験するならもう子供なんかいらないと叫び出してしまいそうだ。
まる一昼夜苦しんで、遂に子供が産まれた時、その子は息をしていなかった。
おくるみに包まれたちいさな、だが動かない体を典医から手渡されてポップは茫然とした。
そんなのは駄目だ。だってまだ温かいのに。メルルがあんなに頑張ったのに。
――冗談じゃない!
無意識にポップは唱えていた。ザオリク。蘇生呪文。
赤子の泣き声が響く。
「ポップさん……?」
出産を終えて、朦朧としているメルルの耳元でささやく。
「お疲れ様、メルル。ありがとう。元気な女の子だよ」
あの子を腕に抱いた時、この子を一生守ろうと思ったのだ。
父親、になったという自覚がポップに生まれたのはきっとあの瞬間だった。結婚して王となっても、それまでもずっと続いていた子供時代が永遠に終わったのを感じた。もうヘラヘラ笑ってダイと旅に出る事はない。向こう見ずに突っ走って、誰かれ構わず迷惑をかける事もない。
あの懐かしい冒険の日々は、今も変わらず胸の中にある。それだけで充分だ。
「クロエちゃんー。んー、ご機嫌ナナメでちゅねー」
思いっきり赤ちゃん言葉で話しかけながら、愚図る娘を一晩中でも抱いてあやした。全く苦ではなかった。こんなに愛おしいものを一人占め出来る喜びの方が勝っていた。メルルは中々体調が戻らず、余り無理はさせられなかったからだ。
それでも授乳の時間だけはきちんと身を起こして、娘に乳を含ませていた。
泣きたくなるくらい美しい光景だと思った。
「色々あったけどさあ、オレ、やっぱりメルルとくっついて良かったと思うよ」
メルルと娘が仲良くお昼寝している時間にポップは見舞いがてら、魔道士の谷のマトリフの部屋に顔を出して、自慢した。現在のマトリフはパプニカの岩屋を出て、ポップと上位ナンバーがことごとく抜けた谷の魔法使い達の顧問、お目付け役的立場にいる。
「まあなあ。メルルの嬢ちゃんの好意に気付かないなんて、オメーも大概もったいねえ野郎だと思ってたもんなあ」
破れた服を繕ってくれたとポップから聞かされた時から、マトリフはメルルの気持ちに感づいていたらしい。と、いうか、それで気付かない方がバカだ。メルルのアプローチは控えめ過ぎてこのアホには全く通じていなかったが、雨降って地固まる、という言葉もある。マトリフは目を細めて苦笑した。
ポップはマトリフの枕元で、にまにま頬を緩ませながら、
「クロエちゃんにも会えたし。メルル似で、すっげー可愛いんだぜ! あ、でも、可愛い系よりは美人、ってタイプかな。親の欲目抜きで」
「の、割にゃ、全然顔見せに連れて来ねーな。もったいぶってんのか?」
マトリフは高齢で、もう足の自由が利かない。
マトリフ的にはからかったつもりで皮肉ではなかったのだが、ポップは申し訳なさそうに、
「ゴメン、そういう訳じゃないんだけど。クロエちゃん、ちょっと蒲柳の質みたいで……城から連れ出すとメルルが心配するからさ。オレがついてるから大丈夫って言ってんのに、すぐに目が届く所にいないと不安みたいで」
「あの位の赤ン坊と母親は、まだ一心同体みたいなモンだからな。好きにさせてやれ。……しかし」
マトリフは表情を引き締めると、ポップの目を正面から覗き込んで、言った。
「それじゃ、あの噂は本当なんだな。王女が死産だったとかいう」
珍しくポップは舌打ちした。
「……口止めするのが遅過ぎたな。師匠の耳にまで入ってるなんて」
はあ、と頭を抱えて肩を落とす。が、ぱっと思い切ったように顔を上げると、
「事実だけどさ、あんま大きな声で言わないでくれよ。それで不吉がられて苛められたりしたら可哀相じゃないか。将来、おムコさんを迎える時にも差し障りあるしさ」
ぼやき口調だが、とてもナチュラルに嫁にはやらん、と言っている。
マトリフがそれを指摘すると、
「だって、クロエちゃんはずーっとオレの手元に置いて、オレが守ってあげるんだもんね! そこらの男なんかに任せられるか。オレより強い男でないと、お父さんは認めません!」
逆に、大威張りでポップは宣言した。
大魔道士より強い男……恐ろしく高いハードルを設定している事に、ポップは気づいていないらしい。
拍子抜けしながらもマトリフはほっと安心した。
「ま、オレはいつでもいいけどよ。親御さんにはちゃんと会わせてるのか? 確かまだ、ランカークスにお住まいなんだろう?」
ポップの出身地はテランから程近い、だが一応はベンガーナ領のランカークス、という村だ。
ポップの両親はそこで武器屋を営んでいる。
「ん、それは大丈夫。オレがルーラで迎えに行ったから。何日か滞在して貰うつもりだったんだけど、ちょっと顔見ただけで、もういいって。出産したばかりで大変だろうから、二、三ヶ月して落ち着いたら改めて呼んでねって母さんが言ってた。親父からは、しっかりメルルさんを支えてやれって言われたよ」
そんなに手伝ってないように見えるのかねえ、とポップはぶつぶつ言った。
だが、一見頼りなさげに見えるのも事実だ。
「親御さんからすれば、子供が子供をつくったって感じで心配なんだろうよ。それを手出しせずに見守ってくれてるんだから、いいご両親じゃねえか。大切にしろよ。親御さんはテランには住まないのか?」
「もっと歳を取って体が動かなくなったら厄介になるかも、だって。それまではランカークスで武器屋を続けるってさ。ロン・ベルクとノヴァも近くに住んでるし、やっぱり生まれ故郷だし。離れがたいんじゃないかな? の、割には若い頃はオレと同じく村を飛び出して、ベンガーナの王宮でお抱え鍛冶職人やってたらしいけど」
「へー。血は争えないってヤツかね」
「かもな。ロン・ベルクは体を壊してるから無理だったけど、ノヴァは一回お祝いに来てくれたよ。女の子だったからって、繊細な細工入りの短剣つくって。あの辺のチョイスが鍛冶見習いっぽいよな」
ダイは? とマトリフが聞くと、
「ダイはもう、何回か来てる。アイツとは心で繋がってるから連絡取るのが楽でいいよな。ルーラも使えるから基本、迎えに行く必要もないし」
明後日また来るんだ、とポップは続けた。
「よー、ダイ」
「いらっしゃいダイさん」
ポップは娘を抱いたメルルと並んで、空から来るダイを城の外で出迎えた。
そのままエドモスが丹精した庭に進み、簡単なお茶の用意がしてあるテーブルセットに三人して座る。
「ちょっと大きくなった? 大人しいなー、相変わらず美人さんだねー」
ひょい、とダイがメルルの腕の中の娘を覗き込んで言った。
なごやかに談笑していると、頃合いを見計らってメルルが席を立った。
後はお二人で、とメルルと娘が消えるのもいつもの事で、ポップは無言で見送った。
「ねーポップ。せっかくだからウチのレオンとクロエ姫、婚約させない?」
ダイが嬉しそうに提案してきた。
「却下」
「何でーっ!? 結ばれなかった恋人同士がお互いの子供に夢を託すって、美しい話だと思わない?」
「そりゃ親のエゴだって。オレはあ、王族だからって婚約者とか政略結婚とか、クロエちゃんの未来を狭めるような事はしたくないの!」
もうひとつ理由があったが、それはポップは言わなかった。
ダイは無邪気に、
「それじゃ、レオンが12歳になったら、お嫁さんを選ぶパーティーを開くよ。オレがポップと出会った齢だね。姫と一緒に出席してくれる? 女の子を一杯集めて、そこでレオンがクロエ姫を選んで、姫もレオンを気に入ってくれたら、晴れて婚約者になれるよね」
んー、それなら……とポップも頷いた。と、今日の本題はそこではない。
「話がある。ダイ」
ポップは姿勢を正して、ダイにもうテランに来るな、いや来てもいいが頻度を落とせ、と言った。
先日マトリフと話をして、色々と考えさせられたのだ。
ちょっと来過ぎなんじゃねえかとか向こうも二人の子持ちじゃなかったのかとか、確かに、言われてみれば娘が生まれる前と後では訪問回数が増えている。顔を見に来てくれるのは嬉しいし、こちらの都合を聞いてアポを取ってから訪ねてくるので迷惑と思った事はなかったが、その度にメルルが遠慮して、自分とダイを二人きりにする。これはよろしくないだろう。
例えそれ以外の日、全てをメルルと娘に費やしているとしてもだ。
「えー。レオナなら、ポップが一ヶ月居続けても気にしないよ」
案の定、ダイは抗議した。
「レオナとメルルじゃ性格が違い過ぎるだろ。やっぱりさ、普通の奥さんは、夫の元カノやら元カレとはあんまり顔を合わせたくないモンじゃないか? 何たってメルルは、知ろうと思えばオレとお前のベッドの中までわかるんだからな」
「……知ってるの?」
さすがのダイもちょっと心配になったらしい。
「知らん! ……筈だ。多分。きっと。恐らく。メルルにそーいう趣味はないと思うし、オレも、その辺の記憶はきっちりブロックしてるから。とにかく!」
ポップはどん、とテーブルに拳を振り下ろすと、ダイによーく言い含めた。
ダイが不承不承納得すると、ポップは娘をいい子いい子する時のようにダイの頭を撫でた。
そしてこう、付け加えた。
「メルルとはこれから、じーちゃんばーちゃんになるまでずーっと一緒に仲良く暮らすんだから、それ位の礼儀っつーかケジメっつーか、誠意は見せてもいいと思うんだよ、オレはさ」
ポップは老人にはならなかった。
それから一年と数ヵ月後、ポップは娘の代わりに死んだ。
>>>2011/10/12up