軍務大臣ハーベイは、レオンがこれまで見て来た中で一番の美形だった。
齢の頃は二十代半ばだろうか。黒髪、紫の目の、彼女と並べば齢の離れた兄妹のようにも見える。
「さささ宰相、あの人は……っ!?」
と、思わずレオンは宰相スタンに飛びついて聞いてしまった。
それで彼が紹介の遅れていた軍務大臣だと知ったのだが、あんな美形が生まれた時から彼女の側にいたと思うとレオンも焦る。今まで姿を見せなかったのに、何があったんだろう?
「ああ。いつもの事ですよ」
のんびりした声で宰相は答えた。
まだ講義が始まる前、軍務大臣が彼女に面会を願いに来たのは、やはり大魔道士様がらみの話らしい。
軍務大臣は三代目の大魔道士となるべく日々研鑽を重ねているのだが、大魔道士様(ややこしいな……)に、ハネられまくっているらしい。何度か審査はして貰ったものの、無情にも却下されているという。
まあ、無理もない。
亡くなられているとはいえ、彼女の体を借りれば大魔道士様はいつでも降臨可能だし、その魔法力も生前と全く変わらない。と、すると魔法力ってのは体じゃなくて魂、精神から生み出されるものなのか? という疑問が湧くが、それはここでは余り関係ない。
とにかく、あの大魔道士様に勝てなければ、せめて一発なりとダメージを与えられなければ、三代目の大魔道士と名乗る資格がないと軍務大臣は考えているらしい。今回も大魔道士様に判定して欲しいと彼女に取り次ぎを請いに来たものの、自分が出る程ではない、と一刀両断にされたらしい。
「マスターを除けばヤツが一番なんですから、そこまでこだわらなくてもいいと思うんですがねー」
せかせかと、足早に帰ってゆく軍務大臣を見ながら宰相スタンは大きくあくびした。
確か軍務大臣は、宰相と同じく魔道士の塔のナンバー・1だった筈。
その頃はまだ、十三だったか十四だったか、今十二歳のレオンと変わらない年齢だった……実務能力を買われた宰相と、魔法の才能を買われた軍務大臣。二人で大魔道士様の補佐をしていた。
実際、後進の指導に当たっていたのは軍務大臣だと聞く。レオンもこちらに来てから知った事だが、大魔道士様はお飾りマスターとして、塔にいない事も多かったとか。
「苦労されてたんですね宰相……他の大臣方も」
宰相はふふ、と笑っただけでそれには答えず、彼女とレオンを席に着かせて講義を開始した。
彼女は、というと……どうも、怒っているように見える。
最近、レオンは彼女の無表情の中の感情を読み取れるようになった。愛の為せるワザだろう。
何というか、纏っている空気や雰囲気だけでうっすら喜怒哀楽のどれかがわかる。それが何故か、までは彼女に聞いてみないとわからないが、彼女はどうやら軍務大臣に対してご立腹なようだ。
それはレオンを相当にほっとさせた。
あんな、顔も頭も魔法力も上なのが相手では太刀打ち出来ない。
自分は大魔道士様から、彼女の相手としてはなんとか及第点を頂いたようだが、それで彼女がレオンを選んでくれるかどうかというと別だし。ライバルは少ない方がいい。
気を取り直して、真面目に勉強しようとテキストに向かった途端、急報が飛び込んできた。
女の人の泣き声が聞こえる。
レオンは彼女と宰相と共に、声が聞こえる広間に直行したが、入室しようとして宰相に止められた。
左手を広げて右手の人差し指を口の前で立てて、静かに、のゼスチャーをする。
彼女もレオンと同じく通せんぼ状態にされて少し不満そうだったが、それより中が気になるようで、耳を澄ませている。二人して聞き耳を立てていると、宰相が玉座の後ろ、緞帳が下がっていてちょうど舞台の袖、の様になっている所にある隠し扉から中に入れてくれた。
顔は出さないように、と小声で勧告されてから。
そっと様子を窺うと、子供を抱いたまだ若い女の人が、メルル妃に激しく詰め寄っていた。
まだ城にいたのか、すぐ側に軍務大臣ハーベイの姿も見える。
軍務大臣は深刻な顔をして、父親らしきこちらもまだ若い男性と話し込んでいる。男性は、唇を噛み締めて何かに耐えているように見える。その答えはすぐにわかった。
女性が抱いている子供。五歳くらいの男の子だ。
びしょ濡れの衣服、青黒く変色した肌、ぴくりとも動かない体……レオンは彼女と顔を見合わせて息を呑んだ。どう見ても落命している。話し声から、その子は遊んでいて誤って湖に落ちたと知れた。
母親が気付いて引き上げた時には既に遅かった。
父親は魔道士の谷に在籍していた。卒業免状の、れっきとしたシャムロック・バッジ持ちだ。
八年前、大魔道士様の魂を指輪に移す手伝いをした経験もある。
その経験から、大魔道士様なら何とか出来るのではないかと、彼女に目通りを願いに来たらしい。
「……お願いします! どうか、姫様に……ポップ様に会わせてください!! ポップ様ならこの子を救えるんでしょう!? どうかこの子を助けて、生き返らせて……!」
泣き叫ぶ母親に、かける言葉もないメルル妃に代わって軍務大臣が応対した。
「蘇生呪文なら、非才ながら私も使えます。マスターの代わりに私が術を施しましょう。ですが、蘇生しなかった場合は……そこで諦めてください」
悲痛な口調で母親に軍務大臣は言い渡した。
「蘇生呪文が利いたなら、それが天命です。まだ死ぬ運命ではなかったのです。効かなかった場合は……それが、その子の寿命です。諦めてください。手は尽くしますが……」
蘇生呪文が恐ろしく難易度の高い魔法である事はレオンも知っている。
高レベルの僧侶と賢者にしか使えない呪文だ。軍務大臣は大魔道士を目指しているだけあって、既に賢者にクラスチェンジしていたらしい。父親も魔法使いだけあって、浮かぬ顔ながら頷いている。
母親もその夫に促されて、不承不承納得したようだ。
男の子の遺体を広間の床に横たえ、数歩離れて見守る。メルル妃も大臣の邪魔にならないよう下がり、レオン達も緞帳の影から固唾を呑んで静観した。軍務大臣は遺体の傍らに膝をついて座り、呪文の詠唱を始めた。
低く誦しながら両腕を天にかざし、集めた光を分け与えるように遺体の上で大きく十字を切り、手のひらを胸に当てて、最後の言葉を唱える。
「――ザオラル!」
ぱあっと光が子供の体を包んだ。
目を刺すような光が穏やかなものに代わり、子供の体に沁み込むように消えてゆく。
完全に消えたのを確認してから、軍務大臣は男の子の口もとに手を当てた。
そして首を振った。
「力が、及びませんでした……残念ですが……」
「そんな……」
茫然と母親はつぶやいた。
母親はあんなに小さいのに、とか早過ぎる、等、口の中でぽそぽそ繰り返している。
と、突然、母親がメルル妃に向き直った。
「お願いです、もう一度だけ、チャンスを……! ハーベイ様は無理でしたが、ポップ様ならこの子を助けられるんでしょう!? だってポップ様は世界最高の魔法使いで、この国の王様で、今は守護神としてテランを見守って下さっているのでしょう!? 国民を助けるのは、王様の義務ではありませんか!?」
やめなさい、と夫が言っても母親は止まらなかった。
「それに、クロエ姫様も本来なら、もう……とこの人から聞きました。姫様に施術出来るなら、この子だって同じ筈です。だからポップ様に、お取次ぎを……!!」
「……そこまで知っているのなら、当然、代償が何かもお知りでしょうね?」
メルル妃はそれまでの痛ましげな表情を消して、厳しい、王妃としての顔になった。
母親はメルル妃に負けない気迫で答えた。
「もちろんです。代償は払います。覚悟は出来ています。私の命で……!」
父親が慌てたように、
「い、いえ、子供には母親が必要です。私が犠牲になります。もし、して頂けるのなら、私を……!!」
「君はマスターとは条件が違う。指輪も谷の支援もない。本当に死ぬぞ」
軍務大臣ハーベイが口を挟んだ。忠告だろう。
父親が何と答えたかは聞き取れなかった。それよりレオンは、目に見えて震えている彼女の様子が気にかかった。恐らく、水死した男の子に自分を重ねているのだろう。そのやり取りも、彼女には厳しいものだったに違いない。
どうしよう。この場合、どう彼女を慰めたらいいのだろう。
レオンが逡巡していると、宰相が彼女の肩に手を置いて、ちらと隠し扉の方を見た。
戻りましょう、と促している。彼女は首を横に振って、ここにいる、と意思を示した。
「……私の見た所、お子さんの天命は既に尽きています。天命というのは文字通り神が定めたもので、それを覆そうとすれば必ず何処かに歪みを生じます。人を一人、生き返らせようと言うのです。同じだけの命が必要です。それは、お二人にはよくおわかりの様ですが……」
淡々とメルル妃は話し始めた。一拍置いて、メルル妃は、
「どうでしょう、一晩差し上げます。今夜一晩、お二人でゆっくり話し合われては如何ですか。どうも、今はお二人ともひどい興奮状態にあります。それでは、余り冷静な判断は出来な……」
遮るように母親が金切り声を上げた。
レオンも少し、メルル妃は冷淡過ぎるのではないかと思った。子を亡くした親に、かける言葉としてはドライ過ぎる。当然、母親は反発した。父親も、妻をなだめながらも同じ想いのようだ。
「本当に? 子供の代わりにどちらかの配偶者を犠牲にしたとしても、本当に?」
メルル妃は強く、念を押すように言った。
「お二人のどちらが代償を払っても、残された配偶者とお子さんはこれからも生きていかなければなりません。その時、絶対に後悔しないと言い切れますか? この子さえいなければ、とは思いませんか? 犠牲になった配偶者を忘れて、新たな配偶者と幸せになる、などと甘い考えはまさか抱いていませんよね。子供に当たるのも論外です。健やかに育ってほしいから、生き返らせるのでしょう。そこまで考えて、覚悟して、懇請してください。大魔道士の眠りを、無闇に掻き乱さないでください」
「………」
しん……、と静寂が落ちた。
レオンはあの大人しやかなメルル妃が、ここまで淀みなく、流れるように話すのを初めて聞いた。
しかも筋が通っている。一点の曇りもない正論。
二人は俯いて肩を落とした。
まさにその立場に置かれたメルル妃は、どう考えているんだろう? 母親の方が疑問を呈した。
「……私には逃げ道がありました。私の場合は夫が大魔道士ポップという、稀代の魔法使いだった……私が泣いている間に夫は一人で全て決め、娘に命を譲りましたが、そうなっても夫は形を変えて、私と娘の側にいます。だから私は、良心の呵責に悩まなくても良かった。あなた方に、それはない」
くるりとメルル妃は部屋、ひいてはテランの城を見渡し、
「夫はまた、私にテラン王妃という地位も残してくれました。補佐してくれる人材もシステムも完璧です。私は娘の養育にだけ気を配れば良かった……クロエは体が弱くて、心配する事も多かったけれど、ポップさんがただ一人、私に遺してくれた家族だと思うと頑張れた。私と血が繋がっているのは、もうクロエだけなの」
慈しむようにメルル妃は言った。改めてメルル妃は二人に目を向け、
「だから、お二人の気持ちはわかります。そして今言ったように、私はテランの王妃、現在はクロエが成人するまでの暫定的な女王でもあります。私には国民の声を聞く義務があります。もし、お二人が本当にそうと望むなら、私はクロエをここに呼び、大魔道士を降ろすよう、言って聞かせましょう」
二人は救われたような表情になった。
そしてレオンは驚嘆していた。
誰だ、メルル妃を他のアバンの使徒と比べて影が薄い、なんて評したのは。
この人こそ大魔道士様の妻としてふさわしい。この芯の強さ、揺るぎなさ、留守を任せて申し分ない。
父、ダイと大魔道士様がどんな関係だったとしても、大魔道士様もこの人を愛し、別の幸せを築いていたのだろう。非難するには当たらない。父だって、母レオナと自分を含めた子供を二人も設けている。
メルル妃と二人は長く話し込んでいた。
一晩かけずとも、結論は出たようだ。メルル妃が小声で軍務大臣に何か申し付け、それを受けて、大臣が小姓を呼んで命令している。クロエ姫にこちらに来て頂きなさい、と。
「――嫌よ!」
彼女は宰相の手とレオンを振りきって広間に飛び出し、叫んだ。
「例え、父……父様が力を貸していいと言ったって、私は嫌よ。そんなのに協力したくない。これ以上、私みたいな子供を増やさないでちょうだい!」
指輪を引き抜き、彼女はその場に投げ捨てた。
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