――死んでもいい、と思ったのだ。
この子の為なら、この子を助ける為なら、自分が命を投げ出すのが当然のように思えた。
「どうしよう、ポップさん。クロエが……!」
娘の死をメルルは予知したらしい。錯乱するメルルを宥めながら、不思議なくらい迷わなかった。
自分でもなんとなく予感はしていた。
娘が生まれてからしばらくの間は、ほぼ毎日のように回復呪文をかけていた。
きっとこの子は長生き出来ない。
けれど自分がついていれば、こうして回復をかけ続けて、成長すれば体も丈夫になって、人並みの寿命に伸ばせるかもしれない。目の中に入れても痛くないとか食べちゃいたいほど可愛いとか、そんな陳腐な慣用句が事実だった事を、ポップは身を持って知った。
いささか楽観的な考えだったとは反省したが、多少方法に変化はあったが、為すべき事は変わらない。
例えば、ここにコップがひとつあったとする。
その中に張った水が人間の一生分の命で、人間はそれを消費しながら生きている。
最後の一滴が無くなったら死、だ。
クロエちゃんのコップは一度割れて、ポップが蘇生呪文でくっつけた状態だった。
が、やはり不備があったらしく、底がひび割れて少しずつ水が染み出している、という事らしい。
これでは幾ら回復呪文をかけてもきりがない。
……そういうような事を、ポップはマトリフの前で語った。
「どうするつもりなんだ? ポップ」
以前、魔道士の塔を開いた時のように、ポップはマトリフの部屋に篭もって調べ物をしていた。
「違うコップを用意するよ。オレのお古で悪いけど」
その為の方法を、ポップは模索しているらしい。
当然、マトリフは止めた。
「なあポップ。考えなおせ。お前らはまだ若い。子供なら、また……」
ポップは首を振った。
「……メルルにもう子供は出来ない。卵が育ちにくい体質らしい。もしかして、メルル自身も気付かない内に、流れた卵があるかもしれないって、典医が言ってた。クロエちゃんも、死産だったし……その時、もう産めないって宣告されたんだ。メルルには言ってないけど」
淡々とポップは事実のみを言った。
「だからクロエちゃんは、オレとメルルの最初で最後の子供」
ダイの提案を蹴ったのはこのせいもあった。
一人娘の世継ぎの王女を他国に嫁がせる訳にはいかない。
生まれたのが王子で、ディーナ姫との婚約ならもしかしてポップも了承したかもしれない。もちろん世襲にはこだわらないから、クロエちゃんが嫌だというなら他に王様を立ててもいい。が、とにかく全ては娘が無事に成長してからだ。
「なあ、師匠。目の前に死に近付いている子供がいて、自分にはそれを助ける力があって、ましてやそれが実の子なら、その子の為に、親が全て投げ打ってもいいと思うのは、当然だと思わないか……?」
本から顔を上げたポップの表情には不思議な威厳に満ちていた。
マトリフは苦しそうに否定した。
「だからといって、納得する訳にはいかねえよ。残酷かもしれないがオレにはお前の娘より、お前の方が大事なんでな」
「師匠がオレを選んでくれたように、オレも、オレ自身よりクロエちゃんを選んだんだよ」
ふ、とポップが何かに気づいたように虚空を見た。
「メルルが呼んでる。クロエちゃんがむずかってるらしい。手伝って、だって」
予知後しばらくは取り乱していたメルルだが、ポップが手を尽くして策を練っているのを見て、今は多少落ち着いている。逃れられない未来から目を背けるようにメルルは娘の世話に没頭しているが、若干、遅れ気味ながらも芝生で走れる程に成育した娘にどうか、このまま健やかに育ってほしいとポップも願わずにいられない。ぱたん、と本を閉じてポップは立ち上がった。
「心配しなくてもいいよ、師匠。愛するクロエちゃんとメルルを残して死ねるかよ。それじゃ死んでも死に切れない。だから、そうならない為の方法を探してるんじゃないか」
「ダイは。あいつには何も言わないのか」
ドアノブに手をかけて、今まさに部屋を辞そうとするポップにマトリフは声をかけた。
ポップは初めて困惑の色を見せた。
「ダイか……マズイな。怒るだろうなあ、ダイ。でも、ダイに知らせる訳にはいかないな。知ったらあいつ、きっと飛んで来るだろうから」
ダイは今は、前にも増して子煩悩なパパとして、パプニカ中に勇名をはせている。
自分がもっと家族を大事にして、お互いの家庭に抵触しない程度に旧交を温め合おう、と言ったせいなのか、パプニカに設置してきた鏡の魔法で通信中に、レオナから礼を言われた事もある。なんつーか、筒抜けである。……いいけど。
自分がいても確かにレオナは気にしないが、やはり嬉しいものらしい。何だか申し訳ない。
これはこれで、結構複雑な関係ではある。
が、そんな訳でパプニカは今、幸せの絶頂にあった。
自分達の問題を知らせて、余計な手を煩わせたくない。幸い、ダイとの心のドアは余り使用されていないし、こっそり工作して発覚しても知らばっくれる自信がある。
ポップは先王から受け継いだテランの宝物庫から、ごくちいさな宝石を五つ、持ち出した。
テランのあちこちを歩いて、ここぞ、と思った場所に埋める。
そして唱える。マホカトール。
ぱっと五芒星の形に光が走って、すぐに消えた。のんびり空でも見上げていないと、今光ったかな? で終わるくらいの。さすがに魔道士の谷の連中くらいはマスターが何かしたな、とわかるだろうが、相手はマトリフ師匠に任せておこう。ちょっと今忙しい。
きちんと結界が張れているのを確認して、ポップは胸を撫で下ろした。
特定の人物を弾くよう、特殊な指向性を持たせた結界。
悪いな、ダイ。でも、お前に止めに来られたらきっと自分は抗えない。
お前は親友で恋人で、恐らく一番魂が寄り添う相手だと思うけど、また違うベクトルで我が子は重い。
本当は比べられない、比べちゃいけないものだとわかっているけど、このままクロエちゃんを見捨てられない。だって、自分なら大丈夫だから。
何度もマトリフの下に通って、ようやく解決策を見出した。
マトリフは自分が代わりになる、と言い張ったが、血の濃さとか相性などを鑑みても、父親である自分が行うのがいい。マトリフも最後にはわかった、と協力を申し出てくれた。
迷惑のかけ通しになってしまうけど、師匠は理解してくれた。
だから、お前も。
――わかって、くれるな?
ポップが計画を話したのはマトリフだけだった。ダイもメルルも谷の魔法使い達も、これを知れば泣いて怒って詰問しに来るだろうが、優先順位を間違えるな。自分がまず考えなければならないのは娘の生存で、今は他者の気持ちを斟酌している暇はない。
魔法使い達に関しては、こんなマスターを選んだ自分達の自業自得として諦めて貰おう。
その夜、ポップはいつものようにメルルに催眠呪文をかけた。
メルルが予知や悪夢に魘されず、朝まで眠れるように日課になっていたから簡単だった。
ポップはメルルの左手の薬指から、自分が贈った指輪を抜き取った。
つくった時にはこんな風に使う事になるとは思いもしなかったな、と手の中で指輪を転がしながら、次にメルルの隣で寝ている娘に目をやる。普段は更に隣にポップが寝ているが、今夜はそっと、起こさないようクロエちゃんを抱き上げた。
大きくなったなあ。生まれたばかりの頃はあんなに小さかったのに、今ではずーっと抱いてると腕がだるい。まあ、これが幸せの重みというヤツだろう。少し離れた場所にある、もうひとつの寝室に向かいながらポップは幸せを噛み締めた。
娘がまだ夜泣きしていた頃は、娘を抱いてしょっちゅうそちらに避難していた。
今は運動量も増え、よく遊ばせているので朝までぐっすりだ。
言葉も増えたし、いっちょ前に好き嫌いはあるし、だが少し体調を崩す度、例えば咳をしたり吐いたりする度にポップは回復呪文をかけていた。それがクロエちゃんの命を繋いでいたのだと、薄々気づいていたがメルルの予知で計らずも証明されてしまった。
時間がない。
回復魔法で間に合わなくなる前に、何か手を打たなければ。
もうひとつの寝室に移動し、ポップはベッドヘッドにもたれて座り、娘の頭を膝に乗せた。
メルルに似て綺麗なストレートの黒髪を撫でる。まだちいさいから肩口で切り揃えているが、大人になったら、長い黒髪が印象的な素敵なレディになるだろう。もうこうして触る事はできないけれど、いつだって見守っているよ。
例え体がなくっても。
ポップはこの為に研究してきた魔法を実行した。
「……起きろ! この馬鹿!」
マトリフの怒号と、ついでに頭の痛みでポップは目を覚ました。どうもマトリフに殴られたらしい。
背後に魔道士の谷の魔法使い達が勢揃いしているのが見える。
「あっぶねえ。てめえ、予想より消耗激しいじゃねーか。指示も出さずに死ぬなんて、このオレが許さねえからな」
「……師匠」
口調とは裏腹の表情を見て、ああ悪い事をしたなと反省すると同時に娘の様子を見た。
良かった。よく寝てる。
「成功、したみたいだな」
「うん」
ポップが行ったのは、命の譲渡というより交換だった。ポップのまだ充分に水の入ったコップを、娘のひび割れたコップと取り替えた、という訳だ。
だから何もせずとも、後何週間か何ヶ月か、本来の娘の寿命が尽きるまでは生きていられる。だがポップは、このまま座して死を待つなどふるふるゴメンだった。それ位なら、この残りの命も全てエネルギーに変えて、魂を指輪に定着させる為に使ってやる。
「ホラ、マスターだろ。命令しろ。オレじゃ強制出来ねえからな」
マトリフの言葉に、頷いてポップは左手を開いて握り込んでいた指輪を皆に見せた。
黒い貴石を嵌めた指輪。
この指輪は自分がつくった物。自分の魔法力を込めた物。
封印されても、話くらいは出来るだろう。
少なくとも、繋がっている二人、ダイとメルル、それからある程度強力な魔法使い……ハーベイまで行かずとも、ポップオリジナルの鏡を利用した通信魔法を使いこなせるクラスなら、恐らく声が聞こえる筈だ。
「以前、オレがオスカーの幽体をインク壺に詰めた事があるのを覚えているか?」
弟子達の顔を一人ひとり眺め回しながら言う。
「要領はアレと同じだ。この指輪目掛けて自分は降りてくる。細かい照準は師匠が合わせてくれる。だからお前らは、全力でオレを呼び戻してくれ」
ざわざわと弟子達が騒ぐ。そういえば経緯を話していなかったような。
掻い摘んでポップは説明した。メルルの予知、回避する方法、下した決断。弟子達は何故ここに自分達が集められたのか、呼び出されて初めて知った。
だがここの所、毎日のようにポップがマトリフの下へ通っている事や、昼に結界を張っていた事などから何かが進行しているのはわかっていた。ただ、誰も質問出来なかった。いつもちゃらけた雰囲気のマスターが、真顔でうかつに話しかけられない空気を放っていた。
マトリフは元より、下手をしたらポップ以上に恐ろしい存在として認知されている。
そのマトリフは、車椅子を押して貰ってここへ来ていた。
体の不自由な師匠にここまで迷惑をかけて、このうえ更に面倒をかけるのかと思うと申し訳ないのが一転して師匠ヨロシク! な気分になってくる。いや冗談冗談。
「心配するな、オレは一回死んだ事がある。だから道は知ってる。あの時は、『神の涙』であるゴメちゃんが呼び戻してくれたんだが……」
ポップは最後に娘の髪をひと撫でし、
「今度は、お前らがオレを呼び戻せ。オレを、そのまま逝かせたくないならな。オレは絶対帰ってくる。クロエちゃんとメルルと、このテランの国の為に」
一方的に命令し、ポップは静かに目を閉じた。
次にポップが目を開けると、そこはもういつか来た雲の園だった。
「……それで、どうなったんですか」
雲の上で横になって、目眩をこらえながらレオンは聞いた。
「そううまくいってたら、こうしてお前と今ここで顔を合わせる事もなかったんだがな」
自分のすぐ側で片膝をつき、大魔道士様は自嘲気味に笑った。
>>>2011/10/28up