話は数時間前に遡る。
ルーラで出て行ったダイとポップは、ダイだけが、幾らも経たずに戻ってきた。
マァムがダイに気付き、ポップは? と聞いた。
だがダイは首を振るだけで、一言も発しようとしなかった。
「……ダイ。レオナが心配してるわ。行ってあげて、お願い。わかってるでしょ? レオナがあなたを好きなことくらい」
「わかってる。今から行ってくるよ。……ごめんね、マァムにまで心配かけて」
やけにしおらしくダイは答えた。
去ってゆくダイの後ろ姿を見送って、マァムはポップを待つ為に急いで魔道士の塔へ向かった。一方のダイは、王宮のレオナのいる謁見室まで、まるで牛の歩みのごとくのろのろと歩いた。
「……ダイ君! お帰りなさい!」
大臣との接見中だったにもかかわらず、一目をはばかることなくレオナはダイに抱きついてきた。
「……ダイ君……」
もう後は声にならなかった。大臣は気を利かせて、そっと謁見室から退いた。
ダイの、ポップよりも高くなってしまった身長は、当然レオナよりも高かった。
「ごめん、レオナ」
手をそっと、レオナの背中に回す。ポップがダイにしてくれたように、レオナの背や髪を撫でる。
「レオナ、これからはまたちゃんと勉強するから。……レオナはわかってるのに、婚約者のオレが理解出来てないんじゃ恥ずかしいよね。今から老師に謝ってくる。ここ最近の遅れも取り戻さなきゃいけないし」
そこまで言って、突然ダイは唇を塞がれた。
「………」
レオナとのキス。初めての。婚約して二年にもなるというのに、ダイとレオナがこういった行為をしたのは初めてだった。
レオナはようやく唇を離すと、潤んだ目でダイを見上げた。
「……私、ダイ君がもう帰ってこないんじゃないかと思ってたの」
かすれた声でレオナが言う。
「ポップ君と、どこかへ行ってしまうんじゃないかって。……ううん、私の取り越し苦労だったんだからもういいの。今、ダイ君、『婚約者』だって言ってくれたわよね。そうよ、私がダイ君の婚約者なの。私達、結婚して、一緒にこの国を治めるのよ。私にはダイ君が必要なの。愛する人として、共同統治者として。そして、子供を産んで、育てて……幸福になるのよ。私達は、パプニカの平和と幸福の象徴になるんだわ」
※
自分の私室に戻って、ダイはレオナとの一幕を思い返していた。
もちろん、授業をすっぽかしたことはもう謝ってきている。明日からはまた以前と同じような、決められたカリキュラムをこなすだけの毎日が始まるのだ。
(レオナは好きだ。可愛いと思うし、守ってやりたいと思う)
唇に指を当てて、ダイはそう考えた。
それなのに……どうして他の人間の顔ばかり浮かぶのだろう。
ポップ。
ダイの兄弟子であり、唯一人、大魔道士の称号を名乗る男。
(何故こんなにポップの事が気にかかるんだろう。ポップは強い。少なくとも、付きっ切りで守ってやらなくてもいいくらいには)
相手が魔法の効かない体質だったり、不意打ちでも食らわない限りポップが負けることはまず無いだろう。
それなのに、あの無防備さは何だろう。ダイにはそれが不思議でならない。ダイはポップを見ていると、卵を抱いた雌鳥のようにそおっと、壊れものを扱うように大事にしなければならないと思うのだ。
実際は、面倒を見て貰っているのはダイの方で、ポップは保護者然として、ダイの上に君臨している。
ポップは相当にワガママでもあるが、それも全てダイの利益になるよう考えてのことで──利益、と言うと語弊があるかもしれない。ポップが好き勝手に行動することで、人の目を惹き付け、その間にダイが先に行けるよう道を作ってくれる、いわば露払いのような役目をポップは買って出てくれているのだ。
(……ポップとは違う。レオナは)
レオナは真っ直ぐに王道をゆくタイプだ。生まれながらに、人の上に立つ品格を備えている。
思い出すのは、ほんの一瞬ふれただけの、ポップの唇。
ほとんど無意識だったにもかかわらず、驚くほど鮮明に思い出すことが出来る。
くちづけた時の、ポップの表情。大きく見開かれた目。長めに伸ばされた前髪が、ダイのひたいにかかった時の羽のような感触。白い首筋。舐められるのを待っているような。
……あのまま我に返らなければ、間違いなくそうしてしまっていたろう。
(……オレが好きなのはポップなのか……やはり)
愕然としながらダイは自問した。
(レオナとキスしてしまった後で、こんなことばかり考えてしまうなんて……レオナに悪い。ポップにも申し訳ないだろう。あんなに、あれははずみだ、忘れろと言っていたし。自分の立場を考えろとも言われた。わかってるけど、考えたけど、でも……)
自覚してしまった想いは止まらない。
柔らかくいい匂いがしたレオナよりも、怪しげな薬草と黴くさい本と、それと正反対なお日様の匂いのする、骨っぽいポップの方がいい。
この想いはしかし、もう表に出してはならないのだ。
ダイはレオナの婚約者で、レオナとこの国の人々の為に、一生自分の心を押し隠して生きていかなければならないのだ。
ダイは、壁に無造作に立てかけてあったダイの剣を手に取った。
自分の分身にそっと語りかけることで、気持ちを慰めようとした。
※ 記憶の向こうにあるもの ※
魔道士の塔は大混乱の極みだった。
ついにギルド長であるポップの辞職が認められ、それに伴い、大幅な人事の異動が発表されたからだ。
ギルド長の任命権は王女レオナにある。当然、辞職願いもレオナに出すことになる。ポップは自ら王宮へ足を運び、レオナに謁見を願い出、許されて、二人だけで話をすることになった。
そこで、何が話されたかはわからない。
ただ、謁見室の前で待機していたエイミによると、会見は驚くほど短時間で済んだらしい。
ポップはさばさばとした様子で出て来、表情を読み取ることも出来なかったが、一人謁見室に座していたレオナからはほっとしたような、自己嫌悪しているような、複雑な顔をしていたという。
「あーあ、やっと身軽になれた」
大きく伸びをして、ポップは呟いた。
外で待っていたマァムが、それを聞き咎めた。
「……そんなにギルド長の地位が嫌だったの? ポップ」
王宮の外の、広い広い庭園。空は青く、時刻はまだ正午を過ぎたばかりだった。
ポップとマァムは連れ立って歩き出した。
>>>2003/12/31up