狙われたピンクのクマさん
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 数日後。休日に雷門と木戸川の練習試合が行われる事となった。
 会場は木戸川で行われるのだが、豪炎寺は私用で遅れた為、仲間とは別行動をして一人で電車に乗る。急いで準備を整えたので、スパッツを履き忘れてしまう。駅の階段を駆け上がれば、スカートがひらりとめくれた。この日のショーツはバックプリントがピンクのクマである。
「はぁ……はぁ……」
 電車に乗り込んだ豪炎寺は反対側のドア付近に寄った。
 木戸川の駅に着くまでこちらの方向は開かない。電車はある駅に停まると一斉に人が乗ってきて満員となる。ドアの窓を向き、もたれかかるように景色を眺める豪炎寺。
 頭の中は、これから行う試合の事と、二階堂の事を考えていた。試合が終わったら二階堂の車に乗って、そのまま彼の家に泊まるのだ。出来ればその時に一緒に買い物などしたいと思っていた。大好きなサッカーをして大好きな恋人と二人きりの甘い時間を過ごす――――この日は豪炎寺にとって充実した一日となるはずであった――――。
「っ」
 電車が揺れ、ドアに手をつく。背中から押されるように人々が密着する。
 きつくて足の位置を動かすくらいしか出来ない。額にドアの窓がくっついた。
 ――――早く駅に着かないかな。
 電車が速く進んでくれるのを願った矢先に、豪炎寺は嫌な感触にぴくりと肩を揺らす。


「…………?」
 尻に、人の手があたっていた。大きさからいって、大人の男のようだった。それは電車が揺れる度に、もぞりと動く。嫌な感じで、気持ちが悪い。
 初めは、気のせいだと思った。
 けれども、次第にわざとなのではないかという疑いが渦巻きだす。
 次に揺れた時、疑いは確信へと変わった。
 さわっ。手が尻を撫でてきた。
 さわっ、さわっ。指が尻の柔らかい肉に触れてくる。
 豪炎寺はぞわぞわとした悪寒を背筋に走らせた。これは痴漢だと察する。
 痴漢に遭うのは初めてであった。男に猥褻目的で見られたり、触られたりするのも初めてであった。
 恐怖よりも、ただただ動揺していた。なぜ、どうしてと、わからなかった。
 しかし、現状を把握していけば嫌悪は募り、怖くなってくる。
 声が、出なかった。抵抗しようにも、この押し潰されそうな満員電車では動く自体が難しい。
 誰にも気付かれない状況で、豪炎寺は男に触れられる――――。
「……………うぅ」
 低く呻き、唇を噛み締めた。
 男の手は豪炎寺の尻を撫で、スカートの中に入り込んで尻の肉を揉み始めた。
 太ももの肉までやわやわと撫でられる。
 手の動きはいやらしく、とにかく気持ちが悪い。膝が震え、太ももの内側の筋肉もぴくぴく震えた。
 こんな場所も、こんな触られ方も、豪炎寺の"男"である二階堂はしてこなかった。
 二階堂が肩などに触れてきてくれる時は、なにかしらの合図をくれる。不意打ちの時も、豪炎寺が吃驚すれば謝ってくれた。
 ――――こいつは違う。二階堂監督と全然違う。
 二階堂ではない男に触れられる嫌悪は悔しささえ抱く。豪炎寺は反撃の機会を探り出した。
 だが、男は新たな手に出ようとしていた。若い娘の尻を味わった手を引っ込め、電車の揺れに合わせて、豪炎寺の背に体を密着させる。めくれあがったショーツの尻の割れ目に、昂った男性器を布越しにあててきたのだ。
「―――――――――ッ!!!!」
 豪炎寺の身体が衝撃で硬直する。
 男の性器が押し付けられ、思わず涙が滲んだ。
 どん。豪炎寺の顔の両脇に男の手が置かれた。皺の刻まれた、二階堂よりも"おじさん"のように映る。
 男の身体は中学生の少女を覆い隠すように威圧感を突きつけてきた。
 ドアに置かれた手が浮くと、豪炎寺の胸をわし掴みにする。
「や」
 抵抗の音は細すぎて、誰の耳にも届かない。
 手の力は強く、痛みが走った。
 乱暴に揉み込みながら、コートのボタンを外し、制服の中に入り込む。
 豪炎寺は肘を突いて抵抗するが、びくともしない。
 ――――いや……だ!
 声がどうしても出てきてくれない。心の内だけが叫び続けている。
 男の手は慣れた手つきで制服のシャツ越しから、ぐにぐにと好き勝手に乳房を揉みこむ。
 ――――痛っ!痛い!痛い!
 豪炎寺は痛がり、恐怖する中で、恐る恐る窓に映る自分の姿を見詰めた。
 男の顔はよく見えないが、弄られて青ざめている己の姿はわかりすぎるほど映りこんでいた。
 あまりの無力さで絶望する中、漸く駅に着き、人の波が動くと豪炎寺は解放される。


 木戸川に着いた豪炎寺は駅のトイレで乱された衣服を整えて外に出た。
 頭は試合よりも、痴漢に遭った恐怖ばかりがぐるぐると回って離れない。
 試合よりも、まずは二階堂に会って思い切り抱き締めてもらい、慰めて欲しくなる。大好きで優しくて温かい二階堂の胸に飛び込めば、嫌な思い出はきっと忘れられると思ったのだ。
 歩調は無意識に早まり、小走りとなった。
 しかし、いざ木戸川清修に着けば試合が始まる直前であり、仲間にすらろくに挨拶も出来ないまま、部室を借りてユニフォームに着替えてからグラウンドに出る。
 元から遅れてきたのだから仕方ないのだと思った。けれども、想像以上に豪炎寺の心の傷は大きく、動きに影響が出るなどとは実際の試合が始まるまで、彼女自身にすらわからなかったのだ。
 ホイッスルが鳴り、試合が始まる。雷門が木戸川から上手くボールを奪い、松野が豪炎寺にパスをした。
「豪炎寺!」
「ああ」
 ボールを受け取り、ファイアトルネードを撃ちこもうと、足に炎の渦を巻かせながら高く飛び上がる。
「ファイアー…………」
 さらに股を大きく広げようと思った刹那。豪炎寺の脳裏に痴漢の手の感触が蘇る。足が石のように固まって開いてくれない。
「………………………………」
 ぽん。ボールが落ち、両チームに沈黙が走る。静寂の中、蹴れなかった豪炎寺が地面に着地した。
「………………………………」
「………………………………」
「………………………………」
 グラウンドから音が失われるが、我に返った武方三姉妹の長女がボールを掠め取って先制点を入れる。
 初めは動揺した仲間たちではあるが、次第に豪炎寺の動きの鈍さが気になりだし、ハーフタイムに入ると染岡が胸倉を掴んで食って掛かってきた。
「おい豪炎寺!てめえやる気あんのか!」
「…………やる気は、ある」
 慌てて円堂が止めにかかる。
「落ち着け染岡。豪炎寺だって不調の時はあるさ。なぁ」
「………………………すまない」
 詫びるしか出来なかった。
 豪炎寺自身も、ここまで電車での出来事が自分のプレイまで影響するのを想像出来なかったのだ。
「豪炎寺さん、顔色あまり良くないですよ」
 音無が顔を覗きこんでくる。
「………………………すまない」
「どこか具合でも」
 首を振るう。
 豪炎寺の不調はチームのバランスを崩し、弱点を突かれて雷門は負けてしまった。
「雷門腑抜けじゃーん」
 勝てば勝ったで武方三姉妹が厭味を言ってくる。
 雷門側としては、ぐうの音も出ない。けれども、二階堂がやって来て三姉妹をいさめてくれた。
「こら。勝ったからといって調子に乗るんじゃない」
「はーい」
 二階堂が傍に来てくれて、豪炎寺の俯きがちだった顔ははじかれたように彼を見上げる。
 二階堂はにこにこと微笑み、そっと目線で豪炎寺に"あとで"と合図を送ってくれた。
 豪炎寺は制服に着替えると、仲間に言い訳をしながら校舎の裏手にある駐車場へ向かう。
「豪炎寺、お疲れ」
 二階堂も帰る支度をしてやって来る。休日だけあり駐車場は人気がなく、二人が落ち合うのには丁度良い場所だった。
「今日はどうした?お前の得意技のファイアトルネードを失敗したりして……」
「二階堂監督…………」
 二階堂にも豪炎寺の不調は当然悟られている。
 豪炎寺は二階堂に痴漢に遭った事を話そうと思っていたが、いざ本人を前にすれば躊躇いが生じる。
 冷静になれば、二階堂以外の男に触られたというのは、二人の関係において問題であり言い出し辛いものであった。
「うん?どうした?ひょっとして熱でもあるのか?」
「いっ……いいえ」
 額に触れようとした二階堂の手を、一歩下がって避ける。
「そうなのか?それならいいが……。とにかく立ち話もなんだから、車に乗ろう」
「はい」
 車に乗り込む二人。豪炎寺はいつも助手席に座るのに、後部座先に腰を置いた。
「今日は……ここがいいんです」
「……わかった」
 バックミラーから豪炎寺の様子を伺う二階堂。
 ――――なにかあったな。絶対。
 豪炎寺の調子は彼女の顔を見ればすぐにわかる。けれども問い質しても答えない性格なのも理解しており、話してくれるのを待つ事にした。
「さて、このまま家に行くか?それともどこかで買い物でもしようか?」
「監督の家に、行きたいです」
 本当は一緒に買い物がしたかったが、今はとてもそんな気分にはなれない。
 楽しいはずだった一日の予定が次々と壊れていった。
「よしわかった。寒いし、家でゆっくりしよう」
「はい……」
 明るい声で言ってくれる二階堂に、豪炎寺ははにかんだ。


 家に着き、鍵を通して二人は中に入る。
 二階堂が台所でうがいをするついでに冷蔵庫の中身を覗けば、参ったと頬を掻く。居間のソファでくつろいでいた豪炎寺に声をかけた。
「豪炎寺。俺、ちょっと外で買い物をしに行くよ」
「えっ」
 豪炎寺は思わず立ち上がった。
「牛乳をきらしていたんだ」
「かっ……監督」
 一歩前に出る。
 どうしても一人にはなりたくない気分だった。二階堂に傍にいて欲しかった。
「一緒に行きます」
「少しだけだよ。すぐに戻る」
「でも」
 不安そうな顔が表に出てしまう豪炎寺。
 彼女の様子のおかしさに、二階堂は黙っていられなくなった。歩み寄り、肩に手を置いて話しかける。
「豪炎寺。一体どうした」
「それは…………」
 俯く豪炎寺。
「なあ、話してくれ。心配だよ」
「………………………………」
「………………………………」
「…………………………あの」
 ぽつりと呟く。
「実は…………」
 手を前で組み、告げた。


「今日の行きに、電車で痴漢に遭ったんです」


「ち、痴漢…………っ?」
 二階堂は驚き、動揺する。
「はい…………」
 頷こうとした豪炎寺の身体を、二階堂が思い切り抱き締めた。
「っ!」
「豪炎寺、怖かっただろう……」
 抱き締める力は強く、豪炎寺は胸が圧迫される。きつさと温もりに、目が潤む。
「苦しい、です」
「ああ、すまん。話してくれて良かった……。辛かったな。そりゃあ試合も集中できないよ」
 二階堂は豪炎寺をソファに座らせ、隣に腰を置く。
「あのう、お買い物は?」
「そんなのはいつでも出来る。今は豪炎寺の話を聞くのが先だろう」
 頭を撫で、そっと唇を前に出せば、豪炎寺は顔を寄せて二人は口付けを交わす。唇を離すと、豪炎寺の顔の血の巡りが良くなったように、ほんのりと染まっていた。










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