シンボル
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夜が明けて、新しい一日が始まった。
雲一つ無い晴天の空は、昨日の出来事が夢とさえ思うほど清々しい。
朝練の為に早く家を出た風丸。肩にかけた鞄を持ち直し、サッカー部部室のドアノブを握る。
「……………………………」
己の手首を見下ろし、動きを止めた。
痕は消えても覚えている。縛られた感覚を。
「風丸さーん?」
後ろで声が聞こえた。横目で見れば栗松が待っている。
「ああ、今開けるよ」
愛想笑いを浮かべ、ドアを開けて共に中に入った。
「おはよー」
「おはようございます」
「おはよう」
既に来ていた仲間が挨拶をする。
「おはよう」
風丸も挨拶をして、自分のロッカーの中に荷物を入れ、着替えを始めた。
何ら変わりの無い日常。幸せに包まれた空間。ここが好きだと改めて風丸は思う。
陸上部に脅されても負けるものか。強い意志を持とうと心に誓った。
ポン。
小さな音が横で鳴る。ボールの入った籠から一つ、零れ落ちてこちらの方へ転がってきた。
近い位置にいる風丸は適役だと察し、身を屈めて拾おうとする。
「……………………………」
指に触れるまで後数ミリで、ボールは風丸の横を転がって別の人間が拾った。
単にタイミングを外したのか。それとも、自分の方から動きを止めてしまったのか。
風丸自身もよくわからない。ドアの隙間から流れた微かな風が、貫通するように一瞬胸を冷やす。屈んだ背をすぐに戻せない。伸びをする振りをして、何事も無いように姿勢を直した。
練習が始まった。身体を動かせば、温まると同時に気持ちも和らぐ。
「よっと」
華麗な足さばきでボールを掠め取り、パスをする。動きには何ら問題は無い。
いちいち自分自身で確認をしてしまうが。
「風丸ー、そこのボール取ってくれ」
「わかった」
円堂が飛び上がりながら手を振って風丸に合図を送っている。ラインの外から出てしまっているボールを拾い、円堂の元へ持っていく。
「へへ、どうもな」
「どういたしまして」
円堂が風丸の持った手を包むような動作でボールを受け取ろうとする。ただ手が回るだけで直接触れる訳ではない。なのに反射的に動いてしまった。
トン……。
向かい合う二人の間にボールが落ちた。
「あーっ、何やってるんだよ」
「ご、ごめん……」
慌てて拾おうとする風丸。
「いや、俺怒ってるんじゃないぞ」
声が大きすぎたか。手をぱたぱた振って言動を訂正する円堂。
「うん」
広げられた円堂の手にボールを置いた。
じゃあ、と戻ろうと背を向ける風丸は円堂の強い視線を感じる。
「ん?他にあるのか?」
振り返らずに問う。
「風丸、どうした?調子が良く無さそうだぞ」
「うん?そうか?今日は苦手な授業があるからかな」
適当な嘘を吐く。しかし苦手な科目が今日あるのは本当である。
「……………………………」
円堂の視線をまだ感じる。気のせいかもしれないが、念を押すように風丸は僅かに円堂を見て微笑む。
「大丈夫だって」
「悪ぃ。変なこと言って」
「良いって」
風丸の笑みにつられて円堂も笑う。円堂が笑えば、作り笑いが本物に変わり、頬の筋肉が柔らかくなる。
今も昔も二人の間にあったのは笑顔。
ここが自分の居場所だと改めて思った。意図的に壊されようとしているからこそ、尊さを感じる。
――――円堂。お前が笑ってくれれば、俺はそれで。それだけで。
数秒の視線の交差に、想いが溢れそうになった。
軽く手を上げ、風丸は走っていく。
思えば思うほど大事すぎて、逃げたくなった。
練習が終われば校舎で授業が始まる。静寂は考えを巡らせる時間を与え、風丸の心をじわじわと沈ませていく。ノートに書く文字は心なしか荒れていた。
憂鬱な気持ちを抱え、昼休憩となる。気分転換にと席を立って廊下を出れば、同じように出ていた円堂の背中を見つけた。こんな思いで円堂と会えば、心の迷いを見透かされてしまいそうで、足は別の方向を向いてしまう。
風丸の方から円堂を避けている。
高崎の思惑通りに誘導されている。
駄目だ。こんな事では、これじゃアイツの思う壺だ。
風丸は拳を握り締めるが、やはり円堂と顔を合わせる行為に恐怖を覚えている。
「あっ」
向かい側にいた宮坂が風丸を見つけて声を上げた。
学校に来次第、高崎に掛け合ってみたのだが、相手にはされなかった。だが報告はせねばならない。声をかければ自然と手が上がる。
「風丸センパイ……あの」
「……………………………」
反応せずに通り過ぎる風丸。
無視ではないと直感していた。彼は周りの声が届かない程、追い詰められていると――――。
「センパイ……」
上げた手を下ろし、握って空いた手で包む。
追いかけられずに前を向いた先に円堂の影が見えて、泣き出したい衝動に視界がぼやけた。
風丸は廊下を歩き続ける。雑念を擦り付けるように足を踏みしめた。
廊下の窓からは眩しい昼の太陽が照らす。何も無い、真っ白な世界にいるみたいだった。
耳は音を拒否し、目は無機物のみを映し、歯を噛み締める。
しかし、その中で落とされる一つの影。
進む先には待っていたとばかりに高崎が立っていた。
「よお、随分堪えているようだな」
制服のポケットに手を突っ込み、窓を眺めて言う。
高崎の前で風丸は足を止める。足が動かなかった。
「二人で話をしようか。こっちに来てくれ」
すぐに返って来ない風丸の手首を掴み、高崎は歩き出す。足がもつれそうになる風丸だが、歩調を整えてついていく。
一方、宮坂は意を決して円堂に声をかけていた。
「円堂さん」
「ん、お前は確か……」
きょとんとした顔で振り向く円堂。
「お久しぶりです。オレ、宮坂です。風丸センパイがいた陸上部の者です」
「あー、そうだ。久しぶりだなあ」
手を合わせて笑う顔は、宮坂の真剣な表情に消えていく。
「風丸センパイの事でお話があります。屋上に来てくれませんか」
「ん……ああ」
漠然とした嫌な予感が胸に広がった。
屋上へ上がると、宮坂は端の方へ円堂を呼び寄せる。視線を彷徨わせてから落とし、前で手を組んで口を開いた。
「円堂さん。風丸センパイは如何ですか?」
「頼れるディフェンダーだよ」
「そうですか」
宮坂は笑おうとしたが、上手く笑えず引き攣った。
「あの……陸上部にいた頃も、風丸センパイはよく円堂さんの事を話してくれました。こうして話す機会はあまりありませんが、オレは結構貴方の事を知っているんですよ」
「なんだかくすぐったいな」
「円堂さんは風丸さんの事…………大事ですか?」
「ん?大事だけど」
「どれくらい……大事ですか?」
「どれくらい、と言われても」
円堂は困った顔で頬を掻く。急にそう言われても表現がわからない。
「じゃあ……じゃあ……」
宮坂は顔を上げ、円堂の瞳を見据えた。
「風丸センパイが円堂さんを思う気持ちと同じくらい、大事に思っていますか」
またもや答え辛い問いかけだ。言葉を探しながら答える円堂。
「聞いた事は無いけど、同じくらいだったら良いな……とは思う」
「風丸センパイを大事にしてください」
「うん。大事にするよ」
自信たっぷりに頷く。
「絶対ですよ!絶対に絶対ですからね!」
下唇を噛んで詰め寄る宮坂。円堂は後ろに下がりながらもカクカクと首を縦に振る。
「約束です!」
宮坂は円堂の小指を絡めて目の前に構え、高速の“ゆびきりげんまん”を激しく交わす。
「では貴方を信じてお話します」
深呼吸をして、宮坂は語りだした。
陸上部が廃部寸前の事。
風丸のスカウトを昨日した事。
断られ、脅しだした事。
拘束された事や卑猥な写真を撮られた事は伏せて説明をする。
円堂の顔色が変わっていくのがよくわかる。
「くっ」
円堂は顔を歪めて頭を振った。だらりと垂れ下がった腕の先の温度が失われていく。
朝の風丸の様子や宮坂の問いかけの意味を理解していた。
「風丸センパイはサッカー部の力になりたいって、掛け持ちの意思は見せませんでした」
「風丸……なんで……なんで話してくれないんだよ!」
円堂はフェンスを掴み、頭を擦り付ける。
「それは風丸センパイが円堂さんを」
「風丸はどこだ!どこにいんだよ!!風丸!!」
宮坂の言葉を遮り、円堂は屋上から出て行く。
「オレも行きます!バイタリティのある人だな……」
後を急いで追う宮坂。ふと風丸の足の速さの秘訣がわかったような気がした。
その頃、風丸は高崎と三年校舎の裏で話をしていた。
たまに横を通る生徒は何か不味いものを見てしまったとばかりに、そそくさと離れていく。
「昨日は普通じゃなかった。悪い事をしたと思っている。けどもう引き返せないだろ、俺もお前も」
「ならカメラのデータを消してくれるのか」
「駄目だな。ま、カメラはここにあるんだけど」
流れる動きでデジタルカメラを取り出す高崎。
「!」
風丸の目つきが変わる。面白いまでの正直な反応だ。
「データは移してないし、これを壊せばあの恥ずかしい写真は消滅」
カメラをこれ見よがしに構え、撮る仕種をしてみせる。
「返せ!返せよ!!」
奪おうと手を伸ばすが、高く上げられて届かない。
「駄目って言っただろ」
「返せ!!」
飛び上がろうとした時、手で頭を押さえつけられる。
「返せって。これ陸上部のものだよ」
もう片方の手にカメラを持ち替え、利き腕を風丸の腰に回して引き寄せた。
鼻と鼻が触れそうになるまで顔が近付く。
「陸上部に入れば、共同のものになるさ」
「ぐ……!」
「なあ、どうしてこんなに頼んでいるのに駄目なんだよ」
怒る風丸とは対照的に高崎は静かな声で囁く。悲しみを秘めたように瞳は細められた。
「頼み?お前がしているのは脅しだろう!」
風丸の手が高崎の胸倉を掴んだ。
「高崎ぃっ!!」
ゴッ!頭突きを食らわす。反動で顔が離れた時であった――――
「風丸!!」
円堂の叫び声がした。
「……円堂……?」
ハッと見開く風丸。胸倉を掴む手が動揺をありありと高崎に伝えてくる。
円堂が真っ直ぐに駆けて来る。後ろの方に宮坂も見える。
昨日と同じ場所だったので、見つけるのはそう難しい事では無かった。
「お前か!風丸を脅しているのは!!」
風丸と高崎の前に立ち止まり、高崎へ人差し指を突き示す。
「――――!」
絶句。
宮坂、高崎、そして風丸が息を呑んだ。
円堂は写真の事は知らない。けれども宮坂の存在で邪推をせずにはいられなくなる。
円堂は知ってしまったのだ。宮坂が全て話してしまったのだと。
終わった。ただ一つの言葉。
懸命に守り続けていた心の芯が、根元からボキリと折れる感覚。内側から破壊されていく。
瞬きも出来ず、風丸は円堂を見たまま固まっていた。
どうせなら、このまま石になって朽ちて砂になりたい。円堂の前から消えたくなった。
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