水面の声
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「…………………………」
 霧隠は駅前を見回し、まずは鞄を仕舞う場所を探す。適当な場所さえあれば、忍者である彼に鍵つきロッカーなど必要はない。
「ちょっと、君」
 不意に後ろから肩を叩かれる。振り向けば警察であった。
「雷門中の生徒が、こんな時間に何をやっているんだい」
 時刻は授業中だ。霧隠は学校を休んで来ている訳だが、用意してきた雷門の制服が不運を招く。
「…………っ、っ」
 説明しようにも、声帯は潰れて声が出せない。手話も出来はしないし、身振り手振りで説明も出来ない。いっそ術で消えてしまおうと思うが、それも使えないのであった。
「どうしたんだい?ひとまず、交番に来なさい」
 掴もうとしてきた警官の手を素早くかわし、全速力で逃げた。忍びの全力で追いつける人間などはおらず、逃げ切れる。
 駅から離れ、息を吐いて前を見れば川が見えた。ぼやけていた記憶がゆっくりと鮮明になっていく。この道をたぶん、覚えている。鞄を隠し、霧隠は手をポケットに突っ込んで河川敷の道を歩き出す。


 風が奏でる草のざわめき。
 緩やかに流れる川の水。
 道行く人の心音に似た足音。
「…………――――――」
 霧隠は眼を閉じ、開いた。昔訪れた頃より、景色は大きく変わっているが包む空気はあまり変わっていないように感じる。
 川の近くで遊んでいる子供たちを見つけ、足を止めた。懐かしむ為に声を置いて来たのではない。
 目指すべき雷門中のある方へ向き直り、進む。心なしか、駅に着いた時より空が暗い気がした。雷門へ近付くごとに雲は濃くなり、雨を匂わせだした。






 一方、雷門中。空はいつ降り出すか時間の問題の、暗雲に覆われていた。
 休み時間、教室の窓から席を立たずに天気を伺う円堂。放課後の練習が危うい。
「嫌な天気ね」
「予報め、聞いてねーぞ」
 周りからクラスメイトの愚痴が聞こえる。
「あっ」
 誰かが声を上げると、雨が降り出すのが見えた。
「円堂くん」
 木野が隣の空いた席に座る。
「放課後の練習、どうする?」
「中止にしよう。たまには休む事も必要さ」
「そうだね。ブログで知らせておくね」
「ああ、頼む」
 携帯を取り出し、指が見えないほどの速度で文字を打つ木野。足の疾風が風丸なら、指の疾風は木野だろう。
 授業中も円堂はなんとなく窓の外を眺めていた。雨は雨でも、異様に空が暗い。嫌な天気と呼ぶに相応しい。
「ん?」
 円堂は思わず喉を鳴らす。声が出てしまい、咳払いで誤魔化した。
 校門から、一つの傘が入ってくる。なんとなく、同じ学生だというのはわかった。ビニール傘から透けて桜色の髪が見えた。
 雨の中。たった一人で歩く姿は浮き立ち、円堂の興味を離さない。じっと見入ってしまっていた。
 頬杖を突いて頬に触れた箇所が汗ばんでいく。動悸がしてくる。嫌な高鳴り方だった。
「ふう」
 頬杖をやめ、上げた手で額を拭う。
「円堂」
 教師に指され、席を立って答えた後、もう一度外を向いても傘は見当たらなかった。


 授業が終わり、ホームルームも終わって放課後になると、円堂は木野の元へ行く。
「木野。鍵は俺が閉めて返しておくよ」
「うん。じゃあこれね」
 木野が鍵を渡した。
 そんな二人に鞄を持った豪炎寺がやって来る。
「円堂。帰らないか」
「豪炎寺くん。帰るって何よ、今日日直でしょ」
「あっ」
 目ざとく後ろの生徒に指摘され、いかにも“しまった”という顔をする豪炎寺に円堂と木野は小さく笑う。
「じゃあな、豪炎寺。ちゃんと日直しろよ」
「わかってる」
 わざとらしい一言を置いて教室を出る円堂。玄関を通って部室に行こうと一階へ降りた。
 玄関の入り口から、雨がダイレクトに降る様子がよくわかる。傘は置き傘ではあるが持ってきてはいるものの、あっても濡れてしまいそうだった。
 傘立てから傘を取り、入り口の前で止まって傘をさそうとする。
「…………?」
 入り口の横で、桜色の髪が揺れていた。授業中に見たのと同じ色。
 濡れてしまったのか、しきりに手ぐしですいていた。
 円堂の手から、じわりと汗が滲み出す。


 濡れたあの髪の色を、俺は覚えている。


 引き摺られるように片足が一歩、後ろへ下がった。
 本能が怯え、身体の奥底から恐怖が広がりだす。ここから出てはいけない。円堂は踵を返した。
「!」
 振り返った目の前に、風丸が立っていた。何も知らない風丸は、円堂の動揺にも気付かず、彼に出会えた事を素直に喜ぶ。
「円堂。教室に行ったらいないからさ。帰ろうぜ」
 円堂の横を通り、外に出ようとした風丸の手首を咄嗟に捉えた。
 それは性急で強引で、痛みが走る。
「痛っ」
 顔をしかめて見てくる風丸に、円堂は愛想笑いを浮かべた。上から吊った様に口の端を上げる。
「ごめん。俺、部室の鍵を確認して返さないといけないから……」
 息を吐くようにして円堂は言う。
「そっか」
 前を歩こうとする風丸だが、円堂から手首を離す気配が見えない。
「あの……あのさ。テニスコートの方から行かないか」
 円堂が引き寄せる。やはり力が強い。
「痛いよ、円堂。テニスコートから行くから……」
 離してくれ。放とうとした風丸は息を呑む。
 掴まれた手が、指を包んできたのだから。薄っすらと頬が上気した。
「円堂……」
 嬉しそうな声が零れた。だが、円堂は振り向かずに手を引いて、テニスコートの方から外に出る。
 円堂は先に傘を差し、同じように差そうとする風丸の手を止めさせ、中に入れた。その時も、ずっと手を握り締めている。雨が降り、暗さもあって二人の手に気付く者などいない。
 握り続ける手と手は汗を滲ませ、心地を悪くさせる。しかし、生暖かく吸い付いてくる感触が幸せを灯してくる。心地悪さこそが心地良いと酔わせてくるのだ。


 部室の前に辿り着くと、やっと手を離して鍵を取り出す。確認だけではなく一度開いて中に入った。
「風丸も来いよ。ここまでくるだけで濡れただろ」
 薄暗い部室の中で引き攣ったように微笑む円堂に、風丸は嬉しそうに早く頷く。
 円堂の下ろされた手には、まだ鍵が握り締められていた。体温が金属に伝わり、熱と気色の悪い滑りを持つ。手の中で鍵を持ち替えながら、円堂は心を巡らす。


 玄関であの人物を見てから、心音が治まらない。
 天気も悪く、暗いせいか不安な気持ちで押し潰れそうになる。
 どうして一人でこんなに怖がっているのだろうと嫌になる。
 なぜこんなに必死に今を守ろうとしているのだろう。
 いっそ誰の目のつかない場所に、風丸を閉じ込めてしまいたい。
 アイツが来ても、見つからないような場所に。
 それでも不安は拭いきれない。
 だったら、こんなに辛いなら、もう自ら壊しても良いとさえ思えてくる。
 秘密を守り通すのも、風丸に本心をはぐらかし続けるのも、たくさんだった。


 口元に鍵を持っていき、円堂は決意する。
 無言で足早にドアへ向かい、鍵を閉めた。明かりも外の光も薄いので、より室内が暗くなる。
「円堂?」
 風丸は伺うように呼ぶ。
 円堂は鞄を下ろし、目を瞑って、息を止め、思うままに風丸の身体を掻き抱いた。腕を回し、きつくきつく抱き締める。布刷れの音が外の雨音より強く響く。
「円……堂……」
 苦しそうに吐かれる声が、耳の横で囁く。
 合わさる胸と胸が、内から押し上げる心音を伝える。
「わかるだろ」
 風丸の肩口に顔を埋め、搾り出すように吐いた。鼻の奥がつんとする。
「わかるよな……」
 目頭も染みて、瞬きをさせて滲んでしまった涙を衣服に擦り付けた。
 風丸の呼吸が聞こえる。腕が上がり、円堂を抱き締め返す。
「良いのか」
 か細い呟き。
「本当に、もう良いのか」
「ごめんな……。ずっと、待たせて」
 頬を擦り合わせる。人肌が暖かい。円堂は心までとろけそうなって、張り裂けそうに硬くなって痛む。
「ほんとだよ、馬鹿野郎」
「ごめん」
「でも、もう。いいや。そんなのどうでも良い。どうでも良くなった」
 頬擦りを返し、鼻と鼻を合わせて、額をくっつける。
「知ってるか。俺、待ってたんだ。お前とこうなるの、ずっと待ってた」
 顔をくしゃくしゃにして風丸は笑う。
「もう駄目かなって、半分諦めかけたけど、信じていて良かった。迷惑でも、見苦しくても、気持ち悪くても、俺……」
 顔と顔に僅かな隙間を開ける。そして向き合い、瞳を見据えて放つ。
「好きなんだ。とっくに知ってるだろうけど」
 瞳を揺らし、唇を震わせて精一杯に微笑んでみせる。


 愛おしい笑顔が、脳を揺り動かす。
 けれども、魂は氷点に達し、急速に冷えていく。


 嘘吐き。
 本当は俺じゃないくせに。


 過った暴言を押さえ込むと、また痛んだ。
 愛の囁きは鋭い刺のように魂に刺さり、心が揺れ動く度にひびを生んで広げていく。


「こうなったら何度でも言う。俺はお前が」
 愛の言葉を口にする前に唇で塞ぐ。押さえ込むように噛み付いた。
「ん…………んん……」
 苦しそうに逃れようとしても捕まえて角度を変えて口付ける。
 キスの仕方などよくわからない。ただ夢中で、必死で、風丸の唇を塞いだ。
「………は…………っ」
「……………あ………」
 唇と唇の隙間から吐息が零れ、唾液が伝いそうになる。
 いいかげん苦しくなって離した円堂の口の端を、ぎこちなく風丸が舌で舐め取った。
 今度は風丸から円堂に唇を押し付ける。口付けより、ただ触れているのが良いらしく、頬も摺り寄せてくる。
 抱き締めていた腕は解け、手と手を合わせ、指を絡めだす。
 指の次は腕を掴み、肩へ上がって髪に触れた。優しく撫で、指に髪を絡めて耳たぶを唇で吸った。
 まるでシーソーゲームのようにやった事を返すが、円堂が風丸の制服の首元に手を差し込み、柔らかい首の肉を甘噛みする。風丸は返せずに、喉を鳴らして震わせた。
「あっ……あ………あっ………は……」
 鼻の抜けた声で悦び鳴く。
「うん……」
 鼻を鳴らし、舌で首筋に線を描くように舐め上げた。
 触れて、舐めて、噛んで。獣のように愛撫し、互いの温もりを感じ合う。


 自然と視線が交差し、声なき合図を交わす。
 円堂の手が風丸の腰に回り、風丸は膝を折って床に手をついた。
 まだかけられたままだった鞄が大きな音を立てる。はずす時間さえも惜しく、身体を倒して円堂が組み敷いた。
「円堂。強引すぎ」
 横になる風丸はくすぐったそうに身を捩じらせるが、口元は嬌笑を描いて誘い込む魔性を秘める。
 つい先ほどまで手を握るだけで心ときめかせていたのに、燃え上がる想いは欲望を暴走させた。一度許してしまえば、高め合い、全てに触れるまでこの熱は冷めない。そう風丸は信じていた。


「円堂。好きだよ」
 色に呑まれた瞳を細め、熱く乱れた吐息で呟く。
 相手だけを映す瞳。微笑む唇。
 円堂の口元は笑っているのに、目は笑っていなかった。あるものを映すだけのように、その瞳に温度を感じない。
 ――――いつから円堂はこんな顔をしていた?
 風丸は瞬きし、真顔になる。
 円堂の手が伸びて、風丸の胸元ごと第一ボタンを掴む。
「っ」
 息が詰まるような苦しさを覚えた。
 ――――ひょっとして、初めからこんな顔をしていた?
 身体を巡っていた血潮の熱が引いていく。引きすぎて、寒くて凍えそうになった。
 二人を包んでいたはずの温かな空気が、今はちくちくと刺さってくる。
 あれほどうるさかった雨音も消えてしまっていた。
 何か別の存在を紛れ込ませたくてたまらない。この空間は息が上手く出来ない。






 降り注いだ雨、覆っていた暗雲は去り、雷門中を夕日が照らす。グラウンドに溜まった水が鏡のように校舎を映した。
 ほとんど人が通らなくなってしまった二年校舎の玄関入り口横で、霧隠は壁にくっつけたままの背をとうとう離す。サッカー部の練習は中止だろうし、もうここを円堂と風丸は通らない気がした。
「…………………………」
 見渡す先には誰もいない。清々しいほどの静寂が広がっていた。
 一人ぼっち。
 最も自分に相応しい名前が一つ、浮かんだ。
 傘を一度突いて、ささやかに沈黙を破った。だがそれも、一瞬で静寂にひと戻りする。










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