水面の声
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「円堂……。なあ、円堂」
吐息のように風丸が呼びかけた。
優しく、傷付けないように、円堂を一心に思って呼びかける。
「どうしたんだ。何かあったのか」
円堂は心の内で答えた。
あるにはあったけれど、きっかけにすぎない。
どうかしているのは今から始まったんじゃない。
きっと声にしてしまえば、冷静さを失って乱暴な言葉に変わってしまうだろう。
「円堂」
想ってくれるからこそ辛い。想うからこそ痛い。
愛おしさを抱いた頃から、ずっと刺を抱き続けていた。痛みを誤魔化し、避け続け、こうして改めて向かい合おうとしても、痛みは何ら変わりなかった。
見据えてくる風丸の瞳が、円堂の行き場の無い苦痛だらけの感情を吸収する。
想うだけでは無駄。
どうしようもない絶望がこめられていた。
何がそうさせるのかはわからない。
大事にしてきた想いの無力さが痛みを持って伝わってくるのだ。
「円堂」
胸元を掴んでいる手を重ね、やんわりと離させた。
半身を肘で起こし上げ、円堂の頬を撫でて、瞼を閉じさせるように覆う。
「すまない。好きになって悪かった」
「…………………………」
円堂は無言で風丸の上から降り、床に座り込んだ。
「駄目なら、早く言ってくれれば良かったのに。なんてな、俺のアタック、凄かったもんな」
喉で笑うのに、空しさだけが広がる。
「気持ち、整理し辛いけれど、友達に戻れたら戻ろう。どっちにしても円堂のフットボールフロンティア制覇の夢は応援し続けるから」
軽く埃を払い、衣服を整えて立ち上がった。
「円堂。お前の幸せを願ってる」
隠れた前髪を向けて告げ、部室を出て行く風丸。
一人残された部室で、とうとう堪え切れずに嗚咽を漏らした。
「…………ふ………っ」
唇を歪め、床に拳を叩きつけて蹲る。
風丸は円堂を責めなかった。最後まで円堂を気遣ってくれた。
それは風丸の今が円堂のおかげで存在しているからだ。真実は異なるのに。
想いを曝け出した時、心の刺に直面して苦痛に歪む。痛みが風丸に浸透して二人傷つけ合う。わかっていたからこそ避け続けていたのに。遅かれ早かれ、こうなるとわかっていたのに。
「………く…………うう…………」
堪えても、堪えても、硬く瞑られた目から涙が溢れ、紡ぐ唇の隙間から泣き声が零れた。
わかっていても、傍にいられるならそれで良かった。耐えても、偽っても、近い場所にいてくれるのなら。しかし結局辛くて、とうとう自分から壊してしまった。
「風丸……風丸……」
もうここにはいない名を呼ぶ。
「…………行かないでくれ……」
遅すぎる告白を吐き出した。
雷門を出た風丸は帰路の途中、河川敷で立ち止まっていた。
川を見下ろし、胸元を掴む。あれほど輝かしかった思い出が、くすんで古ぼけたものに映った。
一人で勝手に膨らんでしまったのか。
信じたいからこそ、己に問いかけていた。
「円堂……」
歩道を降り、川の前の芝の上に座る。膝を抱えて顔を埋めた。
狭まり、暗くなる世界の中で耳に流れる川の音。
昔。溺れて、息苦しく冷たい暗闇に呑み込まれようとする中で懸命に円堂を求めた。
想いは届いて辿り着けたのに、また深く沈み込もうとしている。しかし、今度円堂を求めても、何度求めても応えてはくれないのだろう。地上と水面にひかれた硝子の存在を知った気分だった。
届かないのなら助けを呼ばず、口を閉ざして息を止めて消えたくなる。
ふと近くで、草を踏む音が聞こえた。
音は気配と共に近付き、風丸の傍で止まる。
円堂?
遠い期待をして顔を上げた。
「…………………………」
相手は円堂ではない。
柔らかな桜色の髪、射抜くように見据える真紅の瞳。
知った人物であった。戦国伊賀島の霧隠だ。
なぜこんな場所に。問いかけたい気持ちはあるが、今口を開けば堪えたものが溢れそうで言い出せない。
霧隠は風丸の隣に座り込み、真似するように膝を抱えて見せた。
そうして風丸の顔を覗き込み、半眼になる。まるで風丸の気持ちを察して、悲しんでくれているように。
「なんだよ……なんとか言えよ。気味悪ぃ」
ぼそぼそと声を抑えながら風丸は吐く。
声色は想像していたより、いかにも感じの悪い不機嫌そうな音。我ながら嫌に思う。
言い方だけで、霧隠に八つ当たりしている気分になる。
「………………っ………」
口を開く霧隠だが、声は出ず最初の一言だけで閉ざした。
「あっちに行ってくれないか。今、人に会いたくない気分なんだ」
霧隠の顔の前で手を払う。冷たい態度だが、これ以上居られると酷い暴言を吐いてしまいそうで、彼の為にも去ってもらいたかった。
しかし霧隠は引き下がらない。手を伸ばし、目元に触れてくる。
流れてもいない涙を拭おうとしているようだった。
だが、秘伝書を奪おうとした伊賀の人間がそんな慰めをしてくるなど想像できない。
反射して、払いのけてしまった。
「あっ……」
行動を後悔するが、詫びの言葉が出てこない。
風丸は立ち上がり、走って行ってしまった。
「…………………………」
霧隠は払われた手を下ろし、膝に頭を載せて川を眺める。
やっと出会えた風丸は何かに傷付き、荒れているようだった。
伊賀の雷門のファイルに入っていた写真とは全く違う。
何があった。そんな単純な事さえ聞けない。胸にもどかしさが込み上げ、やり場に困る。
日は沈み、闇に月が浮かぶ。
河川敷の丈夫な木の上に持たれて、霧隠は一晩過ごす事にした。
辺りは静まり返り、ときどき吹く風が草木を揺らすのみ。
唇を尖らせ、息を吹くと音が鳴った。
物思いにふけ易い、一人きりの夜。詩人や音を奏でる人は、こんな時に作るのだろうか。
ふと過り、似合わなさに自嘲気味に笑う。
どこかで聴いた覚えのある、懐かしいようで名の思い出せない曲を吹いた。
風に溶け込み、町の方へ流れていく。
こちらへ返ってくるのは、冷たい夜風であった。
夜が明けて朝が訪れる。昨日雨で濡れた地面は乾いており、早朝からサッカー部は河川敷グラウンドで練習に励んだ。
「よし!」
「その息だ!」
円堂と風丸の声が丁度重なる。しかし、二人は何の反応も見せずに各行動に入った。
いつもの変わらぬ表情。しかし、決して目を合わせようとしない。
「なあ円堂」
半田が声をかけた。
「風丸と喧嘩でもしたのか」
「してないよ」
明るく否定する。嘘でも強がりでもない。
喧嘩ではない。これは決別なのだ。
たとえ離れても、二人には二人の人生がある。吹っ切らなくてはいけない。
思うだけ思っても、行動は空回りで粗が見苦しい。人はすぐに変われはしない。
部員の元気の良い声で霧隠は目を覚まし、木から降りて練習を眺めていた。
忍びの持つ千里眼なら、円堂と風丸の表情が遠くからでも良く見える。
痛みを押し込め、笑顔で蓋をしているようだった。風丸だけではなく円堂にも一体何が起こったのか。せっかく会いに来たのに、ただただ悲しい気持ちになる。
「あ!」
誰かが声を上げた。ボールが高く飛びすぎ、霧隠の方へ転がっていく。
けれどもサッカー部はわからずに、見当違いの方向を探し回っていた。
「…………………………」
前に出てボールを拾い上げる霧隠。
漸く気付いた一人が彼に駆け寄ってきた。宮坂であった。
「すみませーん」
手を振る宮坂に、霧隠は口を開いて応える。
その時、宮坂の直感が働いた。この人は声が出ないのだと察する。そう全てが見通せる訳も無く、相手が戦国伊賀島の選手というのは抜け落ちていた。入部希望者くらいにしか思っていない。
目や耳の不自由な人と交流を望んでいる宮坂には伝える術があった。ボールを受け取り、手話で“有難う”と伝える。霧隠には通じない。けれども、貴重な人物に会えた事には変わらない。
「っ」
霧隠は宮坂の腕を引き、紙とペンが欲しいと仕種で訴える。
「わかりました。待っていてください」
宮坂は一度戻り、携帯を持ってやって来た。これのメモ機能なら紙やペンより使いやすい。
先に文字を入力して霧隠れに渡す。
『初めまして。オレは宮坂といいます。君はサッカーが好きですか』
霧隠は同じようにして、言いたい事を入力して返す。繰り返して意思を伝え合う。
『はい。そちらのキャプテンの円堂と風丸に何かありましたか』
『どうやら喧嘩中のようです。二人を知っているのですか』
『はい。二人に会いに来ました。練習が終わったら二人だけを呼んでもらえますか』
文字を読み、宮坂は直接声で“わかりました”と答えてグラウンドへ帰っていく。
しばらく経てば練習は終わり、伝えた通り宮坂は円堂と風丸を連れて来てくれた。
円堂は霧隠を見るなり、目を丸くする。
「お前は戦国伊賀の霧隠じゃないか」
「え?そうなんですか」
円堂に言われ、初めて気付く宮坂。昨日顔を合わせた風丸は黙ったままだった。
「なんでこんな所に」
「ちょっと待ってください。霧隠さん、話せないみたいなんです」
宮坂が携帯を渡し、霧隠に文字を打たせる。
『円堂。風丸。オレはお前たちに会いに、声を置いてここへ来た』
「なんだって」
画面と霧隠を交互に見た。彼の深刻な表情に本当なのだと悟る。
「霧隠さん。携帯は後で返してもらえば良いですから、貸しますね」
宮坂は一礼して去った。風丸と同じく陸上部だけあり、すぐに遠くなってしまう。
霧隠は頷くようにして宮坂に礼をし、好意を受け取り、携帯を使わせてもらった。
『昔。この場所で出会ったのを覚えているか』
特に円堂に見えるようにして、霧隠は画面をかざす。
ざああっ。
強めの風が吹いて、髪を揺らした。
流れる髪の質感が、円堂の記憶を呼び起こす。
霧隠は戦国伊賀島の忍者。あの日の約束の本当の意味を理解した。
「そっか。だからか……」
一人納得して呟く。
「約束、ちゃんと守ったぜ」
「………………………?」
霧隠は数回瞬き、察した。
円堂の“約束”は霧隠にとっての“釘刺し”と同じ意味。“約束”は柔らかい表現に過ぎなかった。
あれを“約束”と思い出すのに、僅かに間が空いてしまったのだ。
『あの時出会ったのがお前たちだと知ったのは試合後だった』
「俺だって、今知ったぐらいさ」
話す円堂の隣で風丸は戸惑う。
一体、何の事を言っているのかさっぱりわからない。
「もう、話しても良いよな」
円堂は風丸の後ろに回り、両肩に手を乗せて霧隠の正面に立たせる。
「なんだよ」
不満を口にするも、円堂の力は重く、圧し掛かるようだった。
「溺れた風丸を助けたのは、霧隠なんだ」
「え……」
呟かれた声が自分のものだと遅れて風丸は知る。
「どういう意味だよ。わかんねえよ」
「俺じゃないんだ。俺には風丸を助けられなかった」
円堂の震えが肩を通して伝わる。
「言えなくて悪かった。けどな、約束だったんだよ。お前の大事な恩人との約束、破れねえよ」
震えが声にまで浸透し、くぐもったものに変化した。
「そんな……」
風丸の声まで震えだす。瞳が円堂と霧隠の間を忙しなく彷徨う。
脳裏の中を記憶が逆流しだす。数年に渡る円堂への感謝の言動が、彼の心をずっと踏み躙っていたとは。心から伝えれば伝えるほど、彼を傷付けていたとは。
「すっとしたよ」
風丸の肩から手が落ちる。
「さよなら」
告げられる一言。円堂は背を向けて風丸と霧隠から離れていった。
「!」
霧隠は大声で叫ぶ素振りを見せるが、何も音は出ない。
追いかけようとしたが、風丸が膝を折って支えるので手一杯だ。身体は力が抜けきり、死人のように重い。
「円堂……違う……俺はなんて事を……」
地にしゃがみこむ風丸。うわ言を呟き、凍えるように手で手を握り締めていた。
なだめながら霧隠は、抱く思いは風丸と同じだと顔を歪める。
円堂、違うんだ。
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