こんな事になるなら。
 彼を水に沈めれば良かったのだろうか。



水面の声
- 5 -



「じゃあ。これ持っていくな」
 風丸は宮坂の携帯を霧隠から受け取り、顔に持ってきて薄く笑う。
「本当の事を知って良かったと思うよ。改めて言わせてもらう、有難う」
 頭を下げ、礼を言う。しかし、頭が起こせないでいた。
「せっかく来てくれたのにな。どう接したら良いか、どんな顔をすれば良いのかもわからないんだ」
「…………………………」
 霧隠は風丸の頭を上げさせ、しきりに首を横に振る。
 風丸が携帯を渡そうとするが、断ってくる。
「うん?俺、行くよ。まだ時間があれば放課後にでもまた会おう」
 たぶん、その頃には少なくとも今よりは落ち着いているだろう。
 遠くなっていく風丸の背を、霧隠はいつまでも見守っていた。
 喉に手をあて、歯がゆそうに頭を振る。


 二人に伝えねばならない話がある。
 しかし、直接声で伝えねば、彼らの閉ざしてしまった心には届かない。


 胸を支配するのは後悔。
 なぜ、こんな事になってしまったのだろう。
 あの日、あの時、あの場所は。霧隠は本来いないはずの存在だった。
 それが禁を破って姿を現し、溺死する運命だった風丸の運命を変えた。
 運命の流れを変えれば歪みを生んで、円堂と風丸を苦しみの渦に巻き込んでしまった。
 助けず、水に沈めておけば良かったとでも言うのか――――
 霧隠自身、渦の中心で罪に悩まされていた。
「…………………………」
 拳を握り締める霧隠。
 こんな後悔に立ち向かう為に訪れたのではないか。
 思い直し、決意する。何が何でも“約束”を果たさねばならない。


 今度はゆっくり話をしたい、と――――


 円堂にとっての“約束”が、風丸を助けた人物を隠し通すものなら。
 霧隠にとっての“約束”は、三人であの日の思い出を笑って語る事であった。
 昇り行く太陽が霧隠の背を眩しく照らす。雷門へ駆け出した。
 昨日とは違う。明確な意志が奮い立たせていた。






 雷門へ続く道に突風が吹く。
 道行く人は振り返るが、先には何もなく首を傾げた。
 風と共に気配を感じたはずだというのに。
 雷門中の校門の前に落ちた葉がふわりと舞い、霧隠が姿を現す。
「…………――――――」
 息を吐き、校門を潜る。普通に歩く素振りで音と気配を消し、生徒には気付かれない。
 雰囲気を察すれば、まだ授業中のようだ。何か良い術はないかと、霧隠は図書室に向かう。もう待ちぼうけはやめた。
「っ」
 室内に入るなり、何かに引っ張られた感触がして足を止める。
 今度ははっきりと肩に触れてきた。
 霧隠は表に出て、木と壁をつたって屋上に登る。すると、見計らったように戦国伊賀島の仲間たちが姿を現した。
 彼らを見るなり、霧隠は強張らせる。


「ここで待っていれば来ると思いまして」
 開口一番、照れ臭そうに猿飛が言う。
「雷門へ来て、成果は得られたか」
 問いかける初鳥。
「俺たちは読唇術が使える。声はなくとも言っている事はわかるさ」
「…………………………」
 落ち着いて語る仲間に、霧隠は怒りを表す。
 まず答えるより、問うべき話がある。


 仲間たちの髪の毛は、皆短く切られているのだから。


「俺たち全員で関東に行きたいと申し出たんだ。監督も根負けして、断髪を条件に許可をいただいた」
「なに、また伸ばせば良いんだ」
 藤林がさっぱりした後ろ髪を弄って見せた。
 なぜ、そこまでして。聞いてくる霧隠に誰かが“野暮だね”と苦笑混じりに呟く。
「それより霧隠。不便をしているものはないか。俺たちもここまで来たのだ。遠慮なく教えてくれ」
 前に出る百地。彼も覆面の奥の髪は切られているのだろう。
 霧隠は迷う素振りをするが、一人頷いて聞いた。
 声を戻す方法はないか。どうしても声に出して伝えなければならない事がある、と――――
 声を条件に外出を許された。これは学校長であり監督の温情の裏切り行為だ。
 声なき声で切羽詰った様子で訴える霧隠。仲間は顔を曇らせ、数人が視線を逸らし、俯いた。
「霧隠。わかっているな」
 百地は重い声で念を押す。霧隠は頷く。
 部室で問いかけた頃より、強い意志を感じた。
「そうか。行く前に監督がもしもの事態を想定して我々に教えくれた。もう一度聞く、本当に良いんだな」
「…………………………」
「では話そう。声を取り戻すには霧隠、お前の生き血を自分で飲めば治る」
 霧隠はすぐさま親指を糸切り歯で傷つけ、滲み出た赤い滴を舐め取る。しかし声は出ない。
「それだけでは足りない。もっと量が必要だ」
「…………………………」
 仲間を見回したと思うと、霧隠は百地を通り過ぎ滝川の元へ素早く駆け寄る。
「な、なんですか」
 突然、前に立たれてうろたえる滝川。
 貸してくれ。唇がそう語った。
「あっ!」
 ヘアアクセサリの手裏剣を掠め取り、霧隠は刃を向けて横腹に突き刺す。
「…………っ、っ………!」
 麻痺した喉を震わせ、外へ向けて引き抜いた。制服が裂け、指から離れた手裏剣が血を散らせて床に転がる。
「霧隠!」
「お前!」
 助けようとした仲間だが、一歩踏み込むだけで動けなかった。霧隠の気迫に近付けない。
 傷口に手をあて、溢れ出す鮮血を受け止める。手の平に薄っすら浮かぶ血溜まり。口元へ持って行き、喉へ流し込むのを数回繰り返す。
 衝動で裂いた傷は予定より深く、血は衣服に染み込み、ズボンまで濡らした。眩暈がして額を押さえると、脂汗で滑る。膝を突き、眠るように床に転がった。それでも手は血を擦り付けるのをやめない。
「……は………は………」
 呼吸に声が混じりだす。
 固まった血で濁った茶になった利き手で首を押さえ、発声する。
「あ………ああ……。出た……声が出たぞ……」
 はは……。唇が笑みを形作るが、むせて身体を丸めた。


「霧隠……」
 百地が歩み寄って座り、霧隠の頭を持って自分の膝の上に載せる。他の仲間たちも霧隠を囲むようにして集った。
「止血しよう」
 風魔が自分の鉢巻を解き、百地に渡す。
「迷惑をかけて、すまない……」
「まったくだ」
 掠れた声で詫びる霧隠に返す柳生。
「なぜ、そこまでする。俺たちには何も話してくれないのか」
 常に一定を保っていた百地の声が乱れだす。
「……全てが片付いたら話す……。向き合えるはず……」
「本当だな」
「二言は無い」
 百地は仲間を見上げ、目が合った鉢屋と共に霧隠の身体を運んでフェンスに寄りかからせた。
「後で病院行けよ」
「危なくなったら呼べ」
「手裏剣、洗って返してください」
「帰ったらノート写させてね」
 仲間たちは一人ずつ一言置いて姿を消していく。最後は百地になり、肩を竦めて両手を上げて放つ。
「世話のかかる後輩だ」
 笑ってくれた気がして、霧隠も口元が綻んだ。
 一人になった霧隠は布越しから治療された傷口に触る。熱を持っており、血は止まったが痛みは続いていた。仲間の言う通り、話が終わったら病院に行かねば不味いだろう。


 チャイムが鳴る。校内の雰囲気が柔らかなものに変化し、昼休みに入ったのだと悟った。
「……う…………く……」
 低く呻き、フェンスの隙間に指を入れて身体を起こし上げる。
 触れていた手が、傷が口を開いて血が滲むのを伝えた。
「…………は…………」
 身体をフェンスから離すが、よろけてぶつけ、頭を振って歩き出す。
 落ちたままの滝川の手裏剣を拾い上げ、出口を目指した。
 扉を開けようとすれば、丁度入って来た女生徒と目が合う。
「き……!」
 悲鳴を上げる途中で口を塞ぎ、彼女の横を過ぎて階段を下りて行った。
 振り向き、霧隠の背を眺める女生徒。塞いできた手からむせ返るような血の匂いがした。幽霊にでも会ったかのように、顔を青くする。
 壁に、手摺りに手をついて、霧隠は二年の教室へ向かう。負傷した霧隠を見つけた雷門生徒はざわめく。
 バン!窓に叩きつけるように手を当てると静まった。
「お前!」
 廊下に出た風丸が声を上げる。見つけ出せた事で力が抜け、身体が傾ける霧隠を風丸は走って受け止めた。
「霧隠……おい……」
 近付いて彼が血まみれだと知る。
「風丸くん!先生呼んでくるね!」
「待ってくれ!」
 クラスメイトの好意を風丸は止めた。耳元で霧隠の囁きが聞こえてきたのだ。
「声を……取り戻したんだ……聞いて欲しい……話がある……」
「わかったから。まず病院に」
「そんなのは後で良い。話を……どうしても……」
 霧隠の懇願に風丸は折れ、そっと彼を床に休めさせて頭を抱き抱えた。口元に耳を寄せる。
 途切れ途切れに語り始める霧隠。


「あの日……川で溺れるお前を助けに飛び込んだ。風丸、お前の口はずっと“円堂”と呼び続けていた。唇の形でわかるさ……。あれは確かに“円堂”だった」
「……っ」
 風丸は抱き締める力を強め、もっと声を聞こうとした。
「陸地に上げたお前は……危険な状態だった。息が……しなかった。ところが、だ。円堂がやって来て、お前の手を掴んだらどうだ……。息を吹き返す瞬間を、オレは見た」
「じゃあ……じゃあ……」
「……オレは引き上げたに過ぎない。風丸が求めていたのは円堂。呼び覚ましたのも円堂だ。現場にいたオレが言うんだ。信じて良い……。どうか……信じて欲しい。どうか……」
 声が聞き取り辛くなり、細くなっていく。やがて呼吸しか聞こえなくなった。
 風丸の目から、ずっと堪え続けた涙がとうとう滴になって零れ出す。人に見えないように袖で拭い、顔を上げて叫んだ。
「誰か!救急車を呼んでくれ!頼む!」
 傍にいた数人が携帯を同時に取り出し、無言の目配せで決まった一人が救急車を呼んでくれた。
 風丸は同行し、霧隠と共に病院に運んでもらう。
 廊下に集った生徒たちは徐々に退いていき、昼休憩の終了を知らせる鐘が鳴った。






 午後の授業は廊下での出来事を、声を潜めて話す生徒がちらほらと現れる。円堂のクラスでも噂になっており、丁度彼の隣の席の生徒が出した"風丸"という名に反応して、持っていたペンを落とした。
「なあ」
 軽く肩を叩き、聞き出す。
「円堂知らないの?昼間、ここの廊下がちょっとした騒ぎになったの」
「たまたま、他の校舎に行ってて……」
 ばつが悪そうに頬を掻いた。
「いやさ、血だらけの生徒が下りて来たんだよ。風丸が助けに走って一緒に病院に行っちゃった」
「ふうん」
「ふうんってお前。風丸は同じ部員だろ。結構、冷たいのな」
「え……そんなつもりは……」
 口ごもる円堂。不意に出た相槌だけで、何も知らない他人にも心境は見えてしまうものなのか。
「俺はっ……」
 弁明を訴えかけるが、教師に睨まれ言えずじまい。
 授業が終わるなり、円堂は無意識に席を立っていた。落ち着かない、座ってなどいられない。
「円堂」
 豪炎寺がドアを開けて呼んでくる。近寄ると背を押され、廊下に出された。
「風丸の話、聞いたか。行くんだろ」
「…………………………」
 口を薄く開くが、何も言えずつぐんだ。
「なんだ。まだ喧嘩しているのか」
 豪炎寺にも喧嘩をしていると思われているらしい。
「だから喧嘩なんて……それに俺が行ったって……」
 いざ開けば弱音ばかりが零れ落ちる。
「どうした円堂。そんなの行ってから考えろよ。俺の知ってる円堂はそんなキャプテンだったはず」
「俺だって悩む事くらいするって」
「はいはい。さっさと行って来い」
 反論は無駄に終わった。
「ったく。先生に言っておいてくれよ」
 円堂は走り出し、先の方で徒歩に変わる。振り返りはしないだろうが、豪炎寺はひらひらと手を振った。










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